原亜由美
Ayumi Hara
「写真の町シバタ」の活動を通じたアートにまつわる出会い・出来事・気づき
新潟県新発田市は、城下町から連隊の町として栄え、明治期に広大な商店地区が興隆し、近代文化を象徴する写真館が多く軒を連ねました。戦火を逃れたため、東京など大都市圏では失われた写真草創期の貴重な乾板写真が、今も商家などに眠っています。「写真の町シバタ」は、町のたからものである写真の物語を紐解き、記憶と土地を新たに結ぶことを目指し、2013年から活動をしている市民有志団体です。「写真の町シバタ」実行委員として、この活動を通して出会ったさまざまなエピソードや出来事、他団体との交流などを紹介していきます。
04 リトアニアとハワイ
2015年度、写真の町シバタが参加したアサヒ・アート・フェスティバル (以下AAF)の海外交流ネットワークの支援を得、昨年12月にリトアニアを訪ねた。写真の町シバタは企画展『リトアニア写真家の見た新潟European Eyes on Japan / Japan Today vol.11』 ※1を2014年に行なった。そのときの写真家アルトゥーラス・ヴァリャウガと、公私にわたる彼のパートナーのエグレ・デルトゥヴァイテを訪ね、新企画の打合せをするための渡航だった。
2009年のアルトゥーラスの滞在制作時、会が発足前で関わっていなかったので、アルトゥーラスとエグレが『リトアニア写真家の見た新潟』展で、来日した際、わたしは彼らと初めて会った。オープニングに駐日リトアニア大使ご夫妻にも新発田に来ていただき、このときの交流で、わたしはリトアニアの人々となぜか気が合うと感じた。特に、併設でスライド展示をしたアルトゥーラスの『Between the Shores』という作品シリーズが気に入って、いつか機会があれば制作段階から一緒に企画をやりたいと思っていた。『Between the Shores』は、アルトゥーラスとエグレが旅をしながらバルト海を行き交う人々を記録したものだ。旅先の心細さが目の前の光景への慈しみに変わり、その眼差しの変化が、それぞれの土地のアイデンティティを自然と浮かび上がらせるところに共感した。
『リトアニア写真家の見た新潟』オープニングの記念写真
昨年夏、わたしは新潟の海に浮かぶ小さな島、粟島を訪れた。粟島から見る本土の新潟は、平らで低い土地が海面と一体化して見え、田んぼに囲まれた里山の角田山や弥彦山が、まるで海に浮かぶ島のようだった。新潟の海を行く人々は、こうした視野を持っていたのか、と、はっとした。このとき、わたしは『Between the Shores』を新潟沿岸の日本海でできたら、と思った。
粟島行きのフェリーから越後平野を望む
リトアニアに出発する前週、わたしの祖母が亡くなった。91歳だったので落ち着いて死を受け入れられたが、初七日の翌日に出発便に搭乗すると、さすがに疲れを感じ、機上ではシベリアの大地を眺めながら、ただぼんやりとしていた。フィンランドのヘルシンキで乗継し、いよいよリトアニアの首都・ヴィリニュス国際空港に到着すると、空港は思いのほかコンパクトで、まるで新潟空港に着いたような安堵感を覚えた。アルトゥーラスとエグレが空港に迎えに来てくれて、夕方だったので、そのままヴィリニュスの旧市街に出て一緒に食事をした。
「どんな企画をやるの?」とエグレに尋ねられ、わたしは日本海版『Between the Shores』をやりたいと伝えた。粟島でこの企画を思いついたことから説明しようと思っていたのだが、わたしが口にしたのは、自分でも思いがけず福島県富岡町のことだった。
「わたしは福島の原発事故の被災地の町に行った。ショックだった。故郷に帰れない人たちがいる。わたしたちは、そのことを普段は忘れている。たった4年しか経っていないのに」。AAFの報告会が昨年11月に福島県いわき市であった。そこでわたしは、福島第一原子力発電所事故の旧警戒区域である富岡町を地元の方が案内してくださるオプショナル・ツアーに参加したばかりだった。故郷に似た町が損なわれ、回復に相当な時間がかかるという事実は、わたしの胸を今もふさいでいる。わたしは続けた。「パリでテロがあったばかりで移民や難民が問題になっている。でも日本では他人事だと思っている。新潟には福島から避難してきた人もいる。北朝鮮の拉致問題もある」。アルトゥーラスとエグレは黙って聞いていた。「『Between the Shores』を日本でやりたい。島国でアイデンティティを考える機会になると思う」。わたしは疲れで舌も頭も回らず、普段よりさらに拙い英語で訥々と話した。むしろ妙な説得力が出たのか、二人ともすぐに「オーケー」と頷いてくれた。
ビルニュスの旧市街
5日間の滞在のうち最初の3日間、昼間はギャラリーやアーティストを訪問する文化協会のガイド・プログラムにエグレの手配で参加し、夜はアルトゥーラスとエグレと打合せを兼ねた食事をした。二人と会える最後の晩、企画の相談のなかで、わたしは粟島の話をした。粟島には病院がなく、重病人は本土で入院する。昔は入院中に危篤になると、誰かが本土の浜辺で火を焚き、粟島の家族に存命を知らせていた。火が消えることは死を意味する。この話をすると、アルトゥーラスは「とても興味深い」と言って、しばらく何かを考えている様子だった。そして母の介護で、わたしにあまり付き添えないことを彼は詫びた。「大丈夫、わたしも祖母の件があったのでわかる」と返事をすると、葬式でもあまり悲しくなかったのに、身内を失った実感が突然湧いてきた。その晩、ホテルに戻る車中、アルトゥーラスがカーステレオで日本の演歌をかけてくれた。曲名も歌手名もわからなかったけれど、日本で聴くより心に沁みた。

滞在最終日の朝、わたしは若いアーティストと待合せをしていた。彼は学生時代に寮のデッド・スペースに自分専用の極小スタジオを作ったり、ギャラリーの展示壁の裏に技師のための小部屋を作ったり、案外実用的な方法で固定観念の転倒を体感させる制作をしている。観光客はもちろん住民でさえ立ち入らないような場所で、サイトスペシフィックな作品を体験させてもらった後、彼とカフェで休憩していると、秋田犬を連れた客が入ってきた。「見て、日本の犬よ」と、わたしが言うと、「外国で故郷の犬を見るなんて、きっと不思議な感じだろうな」と、彼は嬉しそうに犬を見ていた。
彼と別れた後、ようやくヴィリニュスの町を観光する時間ができた。ヴィリニュスは市街も郊外も故郷に似た雰囲気で、わたしはすっかり自分が街に馴染んだ気分になっていた。そして旧市街の丘の上に建つゲティミナス塔に上った。それはリトアニア大公国時代の城の監視塔で、内部は資料館になっている。
ゲティミナス塔
わたしは展望台に上る程度の気軽さで訪れたのだが、思いがけず現代史の展示に釘付けになってしまった。リトアニアは1991年に当時のソビエト連邦から独立を回復したので、リトアニアの現代史とは独立の軌跡そのものである。人間の鎖※2、血の日曜日※3————頭に知識として入っていたものの、実際に彼の地で映像やパネル写真で革命の記録を目の当たりにし、重たい事実に圧倒された。知り合うリトアニア人がみな優しく穏やかなので、現在の国の印象からは想像もつかないのだが、長い試練を地道に乗り越えて独立を獲得した国なのである。それもほんの25年前。午前中わたしを案内してくれたアーティストは25歳だった。あの青年と同い歳の国なのだ。わたしは自分の不明を恥じると共に、広大なユーラシア大陸を越えて自分がリトアニアに来た意味を改めて自問していた。半ば放心して、たった一人の観客として記録映像を観ていると、画面に今上天皇皇后両陛下の姿が映った。2007年のリトアニア訪問時のニュース映像だ。日本とリトアニアはユーラシア大陸の端と端にある。ソ連時代のリトアニアは文字通りの隣国であったのだと、そのときわたしは気がついた。
ゲティミナス塔の展示映像から、人間の鎖
両陛下は、ヴィリニュスで杉原千畝を顕彰した杉原記念碑に立ち寄られている。第二次世界大戦中、駐リトアニア日本領事であった千畝は、ユダヤ人亡命者に日本経由ヴィザを発行し、多くの命を救った。これまでに千畝の物語は何度かドラマ化され、昨年末にも映画『杉原千畝 スギハラチウネ』が公開されたばかりだ。帰国後、この映画を観に行ったわたしは、ある場面ではっとした。杉原ヴィザを手にしつつも強制収容所に送られてしまった亡命者が救出に来た連合国軍兵士を千畝と錯覚する場面だ。連合国軍なので英米人であるはずの兵士が意外にも東洋人であったので、このような幻視が起きるのだが、実際、連合国軍には日系二世で構成された連隊があった。欧州戦線をはじめ激戦地で奮闘したアメリカ第442連隊戦闘団で、このなかで大きな割合を占めていたのが日系ハワイ移民二世である。あまり知られていないが新発田は百年前に多くのハワイ移民を送り出した土地で、わたしはこの件を調べている。思いがけず、ここでリトアニアとハワイが繋がった。第442連隊戦闘団の隷下にある第522野戦砲兵大隊が、ドイツのダッハウ強制収容所を解放した。そう言えば、わたしがリトアニアに到着したのは12月8日、ハワイ真珠湾攻撃で太平洋戦争が開戦した日であった。

映画を観た翌日、わたしは、大正期にハワイで写真業を営んでいた平岡藤松の孫にあたる方と、資料の返却がてら再会する約束をしていた。平岡藤松は、越後一宮・弥彦神社のある村の隣町の出身である。1889年(明22)に19歳で渡米、西海岸に滞在後、1902年(明35)ホノルルに渡り、奉公人周旋所を開いた。明治から大正にかけ、主にサトウキビ農園の労働力としてハワイに渡った日系移民の数は、累計22万人近くに上る。当時の日本は本格的な第二次産業の勃興以前で、農家や漁師の次男三男を中心に、就労を目的とする移民が後を絶たなかった。藤松は、ここに着眼してハワイに渡ったと思われる。米本土では苦労したが、ハワイ渡航後の生活は順調で、1921年(大10)には写真館を開業している。この間、火事で焼失した弥彦神社の御遷座にあたり、在留ハワイ新潟県人会よりの献金を藤松が発意し、実行されたという出来事もあった。
平岡藤松、ハワイの居室にて 写真提供:平岡マサイ
ところで、連載第2回に登場する旧庄屋佐藤家保存会のある新潟市旧・巻町福井(現・西蒲区)こそ、実は平岡藤松の故郷なのである。一昨年の『まちの記憶』の出品写真にハワイ帰りの青年の古写真があり、それを見た保存会の斉藤文夫さんが藤松の存在を教えてくださった。そしてわたしが日系ハワイ移民の調査をしていると知ると、斉藤さんは、藤松の孫にあたる平岡マサイさんを紹介してくださったのだ。藤松は、1921年(大10)発行の『布哇在留新潟県人会 略歴写真帖』を日本に持ち帰り、それをマサイさんが大切に保管されていた。日系ハワイ移民は西日本出身者が多いが、東日本では新潟と福島のみが出身県上位に入る。1929年(昭4)の出身県別人口を参照すると、一位の広島が4,715名、その後、山口、沖縄、熊本、福岡と続き、福島が880名、新潟が776名である。そして、藤松の残した名簿を参照すると、新潟県内でも新発田を含む阿賀北と呼ばれる阿賀野川以北地域の出身者が、実に9割以上を占める。県単位ではなく地域毎で見ると、阿賀北は全国的にもかなりの上位にあるのではないか。また、福島に関して言えば、ハワイ移民を送り出した土地は浜通りに集中している。近代以降も第一次産業を中核とし、発電所の立地となった(≒近代産業がなかった)土地の成り立ちに思いをいたせば、百年前の新潟や福島の人々が海外移民の選択肢を取った理由も自ずと見えてくる。水田と発電だけでなく、移民の町としても新潟と福島は相似形を描いていた。
マサイさんは96歳でいらっしゃるが、実に若々しい。わたしは再訪まで間が空いたことをお詫びし、自分の祖母が先日亡くなったことを告げると、マサイさんは優しくわたしの手を取ってくださった。弥彦神社御遷座百年の記念の年に平岡藤松のことを知り、マサイさんと出会えてよかったと思う。年末で帰省中だったマサイさんのお孫さんにも、このときお会いできた。彼女は自分の高祖父がハワイにいたことを、それまで知らなかったという。彼女は国際結婚されて、現在はロンドンで暮らしている。いろいろなことが巡っている。
自分内の座標系が、いつのまにかずいぶん大きく広がっているような気がする。リトアニアとハワイ。不思議な取り合わせだが、二つの座標間を結ぶベクトルの存在があるのだろうか。わたしの現在地は、もしかするとこのベクトル上にあるのかもしれない。

※1 『リトアニア写真家の見た新潟 European Eyes on Japan / Japan Today vol.11』アルトゥーラス・ヴァリャウガ写真展 2014年10月11日〜10月31日 金升酒造 二號蔵ギャラリー 主催:写真の町シバタ・プロジェクト実行委員会 ゲスト・キュレーター:菊田樹子 助成:EU・ジャパンフェスト日本委員会 協力:写真文化首都 北海道「写真の町」東川町 後援:リトアニア大使館・新発田市
※2 1989年8月23日、リトアニア、ラトビア、エストニアのそれぞれの首都間600kmを、約200万人の参加者が手を繋いで結んだ、ソビエト連邦からの独立運動。
※3 1991年1月12日、独立運動阻止のためソ連軍がリトアニアに侵攻し、ヴィリニュスでリトアニアの民間人14名が死亡した事件。

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