ブリッジの作り方シリーズ08
いいたてミュージアム編
ゲスト小林めぐみ(福島県立博物館学芸員、はま・なか・あいづ文化連携プロジェクト実行委員会事務局)
開催日2015.11.19
小林めぐみさんは、福島県立博物館の学芸員として、「いいたてミュージアム」「はま・なか・あいづ文化連携プロジェクト」に携われている。
今回のブリッジトークでは、この2つのプロジェクトを中心に、福島で起きたこと、今起きていること、そして文化芸術の動きについて、お話を伺った。

(※以下、小林さんのお話から。)

2011年3月11日、東日本大震災が発生。
福島県飯舘村は、沿岸部の津波被害のために避難してきた人たちを受け入れ、炊き出しをしていた。
しかしその後、東京電力福島第一原子力発電所の水素爆発が起こる。原発からかなり離れた位置にあるにもかかわらず、風向きと地理的な影響により、飯舘村の放射線量が高まっていることがわかる。計画的避難区域となり、2011年5月から自主避難が進む。2011年6月23日以降は、全村避難となる。

全村避難を翌日に控えた、2011年6月22日。
この日、知人を訪ねた小林さんと、被災地を巡っていた港千尋は、偶然2人とも、飯舘村を訪れていた。そして行くところどころで、「この日が最後だ」と、家で食事会を開く人、家の周りの手入れをする人、慣れ親しんだ職場で働く人の姿に出会い、胸が締め付けられるような思いを感じたそうだ。

翌2011年6月23日以降、飯舘村は住むことができず、一部は帰宅困難区域として出入りにも申請が必要な土地になっている。
(※数件、自主選択として村に残っている方もいる。また、特別養護老人ホームが1件、飯舘村内で運営を続けている。)
お話の冒頭、小林さんがスクリーンに投影した写真には、稲が育つはずの水田にセイタカアワダチソウが生え、人がいない街の、なんとも言えない雰囲気が漂っていた。

かつての飯舘村は、「日本で最も美しい村」連合に加盟されるほど、美しく、また丁寧な村作りをしてきた。飯舘村が大事にしてきた言葉に「までい」という方言があるが、漢字で「真手」と書き、両手を意味する古語からきている。飯舘村が村作りをするときにキーワードにしてきた言葉で、「丁寧に、手間暇を惜しまず」という意味だそうだ。「いいたてまでいの会」は、そうして丁寧に育んできた土地、風景、文化を奪われてしまった飯舘村を、なんとか助けていきたいという有志の思いから生まれた活動だ。
村人が散り散りになってしまった今、村を支えていきたいと、地道な活動を続けている。
取り組みの二つの柱の一つとして、村の伝統芸能、食などの文化を、村民が中学生に教え、伝承していく機会を作っており、もう一つが、今回お話を伺った「いいたてミュージアム」だ。

いいたてミュージアムは、飯舘村の村民のお宅にお伺いし、それぞれにとっての「大事なもの、古いもの、歴史的なもの」を見せていただき、それにまつわるお話を収集するという取り組み。「もの」が語る力を借りて、飯舘村のこと、飯舘村に起こったことを、県内外に広く発信し、未来の世代へも伝えていこうというプロジェクトだ。「人間が生きるために使ってきたものは、すべて対象にする。文化的なものかどうかは問わない」というコンセプトのもと、「文化財かどうか?」を判断基準にしていない。そのため、村民の方それぞれにとっての「大事なもの、古いもの、歴史的なもの」が集まり、通常は博物館で並ばないようなものも集まる。
トーク会場に、いいたてミュージアムの収蔵資料である、「凍豆腐のパッケージ」、「どぶちえ(どぶろく)」、「手書きの放射線量計測記録」を展示させていただいた。震災前の飯舘村で、地域の方々が取り組んでいたもの作りや、苦労して生み出した商品、震災後の不安な生活の中で記した記録など、生活のすぐ近くにあったものばかりだ。
いいたてミュージアムは、常設のための施設は持っていない。お話とともに収集した「もの」は、展示ケースに入れ、100字ほどのキャプションを付け、県内外でポータブルな「展覧会」を行っている。かつてはそれぞれの生活にあったものが、いまは展示ケースの中に入り、手の届かないところにある。これは飯舘村が、原発事故後に経験した、生活の変化をも感じさせる。

活動の軸となるリサーチ(聞き取り)の様子を、映像で見せていただいた。
話しながらさまざまなものを見せてくれることが多いので、できるだけご自宅で、記憶のあるところで話を聞いているそうだ。一度のリサーチで、2~3時間にわたってお話を聞くことも多く、生き生きと語られる言葉からは、その人にとっての「飯舘村」が、鮮やかに浮かび上がってくるようだった。目指せ、全村民リサーチで進めているが、いいたてまでいの会の活動資金やマンパワーの不足に加え、前向きな気持ちにはなれなかったり、心の傷を抱えている飯舘村の方も多く、お話を伺えない方もまだまだたくさんいる。

いいたてミュージアムは、ABIディレクターの港千尋にとっても思い入れがあるプロジェクトだ。2011年7月2日に福島県立博物館で行われた「会津・漆の芸術祭2011シンポジウム『ふくしまで語るFUKUSHIMA』に参加した港が、「飯舘村にあるすべてのものをミュージアムにできないか」と、小林さんと、川延安直さん(福島県立博物館学芸員)に提案したのが、「いいたてミュージアム」発案のきっかけになっている。

それぞれのものには、持ち主のストーリーがある。思いもある。しかし、いいたてミュージアムでは、誰かの所有物としてものを見せるのではなく、ものと対峙させることを大切にしている。なぜなら、このミュージアムが「誰かの記憶」を共有するに留まらず、自分たちのこととして能動的に考えてもらうためのきっかけを作りたいと考えているからだ。
「福島の現状を知ってもらうとともに、いいたてミュージアムを通して、それが自分たちの未来であるかもしれないことを考えて欲しい」と小林さんは言う。

トークの後半では、「はま・なか・あいづ文化連携プロジェクト」についてもお話を聞くことができた。

アーティストの岡部昌生さんは、「はま・なか・あいづ文化連携プロジェクト」の一環で、福島県内の震災の記録をフロッタージュしている。福島県内には多くの石碑があり、その石碑が留めている情報も残していきたいということで、石碑のフロッタージュにも取り組んでいる。なかには、干拓の記念を示す「石碑」もあり、人間と、自然について考えさせられることもあった。

南相馬鹿島区八坂神社に、震災後に作られた「おらほの碑」という石碑がある。震災で壊れてしまった八坂神社の瑞垣を直すため、氏子の方からたくさんの寄付が集まった。残りの予算を使い、氏子の皆さんへのお礼を兼ねて、震災や原発事故のことを後世に伝える石碑を作ることになった。
「おらほ」とは、「わたしたちのほう、わたしのほう」という意味の、この地域の方言だ。徐々に方言が失われている今、岡部昌生さんが「自分たちの言葉で書かれてはどうですか?」と提案したそうだ。アーティストが、地域の人たちが動いていくことのきっかけを生んだ例である。
地域の方々とアーティストとの信頼関係を築いていくことは決して簡単なことではないが、信頼を生み出す、丁寧な時間のかけかたが必要なのかもしれないと、小林さんは話す。そうしてアーティストが入っていくことで、問いかけ続けるということもできるのではないか。

トークの最後には、福島の「エネルギー」について話が及んだ。
福島では今、独自の電力活動が生まれている。会津電力飯舘電力など。
「福島はエネルギーのことを言える立場だし、言っていく責務もあると思う」と小林さんは語った。


※本レポートは、トークのごく一部を紹介したものです。平成28年3月発行予定の『ART BRIDGE issue#3』に、トークを文字起こししたものを掲載する予定ですので、お楽しみに。

被爆70年祈念連携プロジェクト 岡部 昌生「被爆樹に触れて」

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