仲宗根香織
Kaori Nakasone
場所と時間を超えて繋がる、見える沖縄
違う土地に行って新鮮に感じたり、新しく見る風景に感動したりする時、人はそれぞれにとって参照軸となる土地や風景の記憶との比較によってそう感じているのだと思います。また、軸であるはずのその土地で起こる風景の変化も、以前の風景と照らし合わせるなかで変化を感じているのではないかとも思います。私の中で軸にある土地は沖縄しかないのですが、沖縄とどこかの土地を繋ぎながら、過去の沖縄と現在の沖縄とを繋ぐ、というように、異なる土地や異なる時間を超えて、どのように「沖縄」とその「外」が、そして「沖縄」の中にあるはずの様々な時間が、どう繋がりながら変化しているのかを写真とともに考えていけたらと思います。
03 傷の想像力

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他者の傷をどこまで理解し、どのように共有できるか。そしてその傷を国家単位の傷としてではなく、個人個人の傷としていかに残していくか。さまざまな傷の跡を9月のベトナムとカンボジアへの旅で目撃した。
例えば、今でも40人ほどの患者たちが政府からの乏しい支援を得ながら生活をしているツーズー病院。ベトナム戦争時に米軍が散布した枯れ葉剤の影響を受けて生まれた子どもたちが、5つほどある部屋の中に5〜6人ずつ生活している。病院では実際に室内に入り、触れ合いながら交流をさせてもらった。
ツーズー病院に向かう道中で、案内人である写真家の石川文洋さん※1はその独特の穏やかな口調で「子どもたちを見て可哀そうだから写真を撮れないという人がいるけれど、そうではなくて、どんどん撮ってくださいね。そしてその写真を帰国して知り合いにでも良いので見せて伝えてください」とおっしゃった。石川さんからその言葉をもらった私は、子どもたちの手を握り、肌に触れ、温かな体温を感じながら、しっかりと握り返してくれる手の力を受け取った。
別の部屋には、胎児がホルマリン漬けになった展示室があり、出生日が書かれたラベルとともに展示されていた。1970年代出生のものもあれば、2008年出生の記録もあった。その胎児たちの姿から枯れ葉剤の影響は3世代にも渡っており、米国が行った残虐な傷の連鎖が今も続いていることを学んだ。そしてその連鎖は、日本における放射能を起因とする土地の汚染や人体への影響が消えないだろうことを連想させるものでもあった。
また、プノンペンにあるトゥールスレン虐殺博物館(Tuol Sleng Genoside Museum)。革命に学問は不要との方針を打ち出したクメール・ルージュが、高校だった建物を政治犯収容所に転用した施設で、当時実際に使用された拷問部屋、1m四方の独房、拷問機をそのまま残している。そして、処刑された人ひとりひとりの写真や遺体の写真なども展示されている。
教室だった部屋それぞれには、ポツンと鉄のベッドが置かれてあり、ベッドの柵には鉄の手錠や鎖が繋がれていた。その部屋の壁には、ベッドに横たわる人を写した写真が1枚展示されていた。コントラストの高いモノクロ写真で、細かな顔の表情は認識できないが、体の影や光から、恐ろしいほどの痛みを伴う傷を負わされていることが想像できた。実際にその部屋の中に入り、壁の写真から部屋にあるベッドへ目線を移動させると、目の前の光景が恐ろしいほど鮮明に浮かび上がるような気がする。
四方の壁には細かな傷があり、ベッドの下には黒ずんだ染みが広がっていた。壁の傷は人がしがみついた時にできたのだろうと想像が出来た。床の染みはそこであった拷問で流れた血の痕が時間とともに定着したものだろう。
悲惨な歴史に目を背けることは簡単だが、トゥールスレン虐殺博物館は静かにそして丁寧にここで起こったことを痕跡として残している。残虐行為の傷を隠蔽せず、謙虚に自省し後世に伝えていることに感動した。
今回のベトナムの旅は写真家の石川文洋 さんと行くベトナムツアーとして企画されたものであり、沖縄と福島からそれぞれ20人ずつ総勢40人が参加していた。5泊6日のツアーは、首都ハノイから南下してフエ、ホーチミンを巡る弾丸旅程で、息つく暇もなかったが、それぞれの土地の歴史に少しだけ触れることができた。
終始優しく柔らかい口調でベトナム戦争の悲惨な歴史を語ってくださる石川さんは、ベトナムを案内するツアーを毎年開催して、自身の経験を伝えることをライフワークとしている。ベトナム戦当時は人の死を目の当たりにし、恐ろしいほどの光景に出遭い、その中で命をかけてシャッターを切ってきた石川さんは、自身の写真を見ることを強いるのではなく、穏やかに謙虚な姿勢で当時のことを伝えたいという思いに溢れていた。戦場で様々な傷を見て、聞いて感じてきたからこそ人に対する尊敬と優しさがあり、権力に屈しない静かな力強さがあるのだと思う。
ベトナムでは現地の市民や農民たちとの交流もあり、様々なことを見聞きして消化し切れないまま、ツアー終了と同時に今度は友人とホーチミンからカンボジアのシェムリアップへと移動した。
ツアーを離れた個人旅行という、緊張感から解れた旅に少しホッとしながらも、飛行機に乗る1時間前まで連絡のやり取りをしていたシェムリアップのホテルから迎えに来る予定のトゥクトゥクドライバーに会えず空港で立ち往生したり、空港玄関で待っているほかのドライバーたちが私たちをとり囲みながらも、このホテルのドライバーに連絡してくれたりと、カンボジアでの旅は最初からちょっとおかしくも面白い旅であった。
そんなベトナム・カンボジアでの旅の間、日本では「安保関連法案」が通過間際で、様々な場所で抗議活動が行われているニュースを追っていた。9月16日の朝、プノンペン国際空港から帰国する前に、中央公聴会の動画を見て、日本のこれからを思い本当に愕然とした。
ツーズー病院で子どもたちから握手の力を受け取り、トゥールスレン虐殺博物館の無人の部屋で血の痕跡から伝わる傷の響きを強く感じた後に見たこの公聴会の映像では、傷を”聴く”ことを否定する姿があった。画面の向こう側でスーツを着て座る中央の人たちは”公聴”しているといわれるが、しかしどれほど傷の存在を知っているのだろうか。傷たちを目撃してしまったからこそ、私はさらなる傷の連鎖がいままさに始まっていると確信した。
時を越えて、国境で分離されている、いわば異なる時間と場所の中で感じた傷をいかに共有していくかが自然と私の旅のメインテーマになっていった。
新城郁夫 氏は著書『沖縄の傷という回路』において、「互いが互いの傷を回路としてつながり、その傷を構造化している社会や政治のあり方への拒否を、ともに模索していく営み」の大切さについて記したのちに、次のように述べている。(新城郁夫『沖縄の傷という回路』38頁、2014、岩波書店)

「死に向けて人々を束ね、この死をナショナルな領域の再編へと動員していく国から自律し、ときとして国を見捨て、ときとして国を置き去りにしていくこと。私たちに、この実践をためらわせる何事ももはやない。共に生き延びていくことが大きな困難に見舞われているこの時にこそ、共に生き延びていくことへの求めが、政治を動かしていくことになる。沖縄という傷から生成されていく回路は、国から自律した生の繋がりにむけて、私たちを導き始めている。」(同上、39頁)

国家や集団の傷として考えるのではなく、個人が感じた痛みの傷として捉え、それを共有することで生への繋がりとなる。ベトナムで見た傷は、沖縄から飛び立ったB-52が与えた傷でもある。傷をお互いの接点として国が定めた分断を越えた繋がりを作れること。現在国家により行われる死への道筋を拒否し、傷を回路としてつながる新しい共同のあり方について新城氏は大切な示唆を与えてくれる。
そうした意味においても、この旅では、福島から来ているメンバーたちとの出会いは大変貴重なものだった。そしてベトナムとカンボジアで出会った人たちや光景から傷が響かせる力や波動を受け取り、また一緒に旅をした石川文洋さんからも、分断を越えて傷を想像することを学んだ気がしている。
※1 石川文洋 写真家。1938年沖縄県那覇市首里生まれ。1964年毎日映画社を経て、香港のフォーカス・スタジオに勤務。1965年1月〜1968年12月フリーカメラマンとして南ベトナムの首都サイゴン(現ホーチミン)に滞在。1969年〜1984年朝日新聞社カメラマン。1984年〜現在、フリーカメラマン。(石川文洋HPプロフィールより)
※2 新城郁夫 琉球大学教授。専攻は、文学・思想研究、ポストコロニアル批評、ジェンダー/セクシュアリティ研究。著書に『沖縄文学という企て』(2003、インパクト出版会)、『到来する沖縄』(2007、同)、『沖縄を聞く』(2010、みすず書房)、『まなざしに触れる』(2014、水声社、鷹野隆大氏の写真との共著)、『沖縄という傷の回路』(2014、岩波書店)

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