江上賢一郎
Kenichiro Egami
オルタナティブ・アジア
今、アジア各地で異種混交的な文化シーンが生まれている。それはアート⇆コミュニティ⇆アクティヴィズムのカテゴリーを越えて、互いに影響を及ぼしあうことで「新しい生き方」や「社会のあり方」の可能性をより広く提示し、実践しようとする動きのことだ。このまだ名前を持たない「動き(ムーブメント)」は、それぞれの場所に根付きつつも国境を越えた往来や交流を通じて、アジア圏(そしてそれを越えた)にまたがる草の根的恊働・相互扶助のネットワークを作り出している。「オルタナティブ・アジア」では、そのようなネットワークを通じて出会った人や場所を取り上げ、この汎アジア的な文化/運動/芸術の交流圏の現在進行系の姿を伝えていきたいと思っている。
05 『流転しつつ根をはること -マレーシア、インドネシアの芸術・文化実践- 』
■ 失われた公園と都市の記憶

マレーシアの首都、クアラルンプールの中華街。観光客で賑わうアーケードを抜け、ミントブルーやイエローの古いコロニアル様式の商店街を背に、ゆるやかな坂道を登って行くと、こんもりした丘を囲む工事現場の青いフェンスの角に小さな空き地がある。毎週土曜日になるとこの小さな角地にさまざまな人たちがやってくる。色とりどりのバナー、ポスター、ティーポットや小さな本棚を抱え、ピクニックシートや本物の芝生を敷いてそこに座り込み、話し込んだり、本を読んだりして休日の午後を過ごしている。そのうち絵の具と画用紙を取り出して、ドローイングやスローガンを描き始める。出来上がると、後ろのフェンスにぺたぺたと貼っていく。青いフェンスはあっという間に大小さまざまな言葉や絵、写真でいっぱいになっていく。スローガンの一つにはこう書かれている。「僕たちは何も売ったりはしない。ただここに座ってパーキング(Parkと-ingを掛け合わせた造語)を楽しんでいる」。蒸し暑い南国の空の下、工事現場の片隅で突如ピクニックと小さな野外展覧会が始まっていた。
歩道の上での座り込み風景。道路とフェンスにあいだには生まれた小さな公園とギャラリーが生まれていた。
実は、これはマレーシア人のアーティストで活動家の、Fahmi Reza (ファミ•レザ)が企画した「Reclaim Merdeka Park」による座り込み(Squatting)プロジェクトの光景だ。この丘にはかつてムルデカという名前の公園があった。50年代の革新市政時代に建設され長らく市民の憩いの場だったこの公園は、90年代前半に再開発の為に取り壊され、いったん放置された後に大規模金融センターの建設現場になってしまった。都市の中心部にある公共空間や公営住宅、スラム街を民間企業の営利活動のために売り払い、立ち退きと再開発を同時に行うジェントリフィケーションの流れはアジアの各都市に見られる光景で、ここクアラルンプールも例外ではない。高級ホテルの建設現場の隣に、小さなマレー風の伝統木造家屋が一区画だけ残されていたり、建設工事が止まったままのコンクリートの廃墟や取り壊し予定の巨大アパートが何年も放置されていたりする光景が街のあちこちに点在しているのだ。
ここにはたくさんのポスターやバナーが貼られていたが、翌週になると全て剥ぎ取られていた。
クアラルンプール市内の工事現場。街そのものが工事中といった様子。
ファミと彼の仲間たちはドキュメンタリーやポスター、壁画の制作を通じて、このような巨大な資本や企業に飲み込まれつつある都市の公共空間についてアートを介した問題提起を続けている。工事現場のフェンスに自作のポスターを貼りながら彼はこう言う。「緑あふれる見晴らしの良い公園は、赤茶けた工事現場に変わってしまった。再開発が進むたびに、街から人間の自由な空間がどんどん無くなって、お金と商品のための空間に変わって行く。この座り込みはもちろん建設反対ではあるけれど、それ以上に自分たちがかつて公共の場所でどうやって過ごし、暮らしをしていたのか、そんな過去の都市の記憶を思い出してもらう意味もあるんだ」。ムルデカ公園はすでに存在していない。けれども、ファミはアートと座り込みという直接行動を組み合わせることで、かつて公園であった場所の記憶や人々の語り、振る舞いを掘り起こし、再開発の廃墟の上に想像上の公園を再現してみせたのだ。
「Reclaim Merdeka Park」の参加者たち。アーティスト、研究者、学生、地域の歴史を調べているおじさんまでと多彩。長らく市民の憩いの場だったというこの公園は、クアラルンプールという都市の公共性を象徴する場でもあったという。
Fahmi Reza は現在、マレーシア首相の汚職問題をテーマにした壁画プロジェクトを展開している。政府批判には常に逮捕の危険がつきまとうが、ファミは怯むことなくストリートでの制作活動を続けている。
*ファミが制作したドキュメンタリービデオ「10 Tahun Sebelum Merdeka」 (10 Years Before Independence)1947年にマレーシアで起きた「一斉ゼネスト」の記録。過去、マレーシアで人種間の対立を乗り越えて生まれた社会運動の記憶を掘り起こす試み。


Sepuluh Tahun Sebelum Merdeka from fahmi reza on Vimeo.

◼︎ アートを社会に還元する

今度は中華街を反対の方向に曲がってみよう。50年代風のビルが並ぶ一角、古めかしいオフィスビルの4階と5階に2軒のアートスペースが入っている。4階にあるアートスペース「Lost Generation Space (Lostgens)」(ロストジェンズ)は、コミュニティー、市民参加、都市の記憶・歴史といったテーマを基に活動するアーティストや研究者を受け入れ、支援しているアートスペースだ。作品の展示や展覧会だけでなく、哲学の読書会やドキュメンタリー上映会から、地域の再開発に対する学習会や中華街のコミュニティーの記録といった都市と人々の暮らしに直接的に関わるプロジェクトも行っている。運営者でアーティストのYeoh Lian Heng(ヨー・リアン・ヘン)は、中華街にある飲食店や商店の写真や家族史を収集し、中華系マレーシア人たちのコミュニティと生活空間の記憶を辿るリサーチを継続していたり、路上生活の人々に食事を振る舞う「Food Not Boms」(フードノットボムズ)の活動にも参加するなどアートと社会運動を往還した活動を続けている。「ここはアートをギャラリーの中だけに閉じ込めるのではなく、自分たちが生活を営むコミュニティや社会へと還元していく方法を探る実験室なんだ」とYeohは話す。
Lostgensのディレクター、Yeoh Lian Hengはアジア各国のアーティストを招き、市民とアーティストが協働して作品制作するプログラムも企画している。 (写真提供:Transactions in the field )
*メンバーの一人、画家のGAN SZE HOOIはクアラルンプールという都市の変遷によって失われていく街の風景とそこに住む人々の記憶を掬い出すドローイングを制作し続けている。
GAN SZE HOOI, Emptiness, 51cm x 72cm, Oil on Canvas and Mixed Media, 2014
■ 黒いアートスペース

その上の階にある「FINDERS」(ファインダーズ)は、ミュージシャンとアーティストたちが共同で運営するギャラリー兼ライブハウスだ。実験音楽、展覧会、上映会と手がける企画は幅広いが、普段は夕方頃に仕事を終えたメンバーたちが集まり、ご飯を食べた後に話したり楽器を弾いたり、時には深夜のサイクリングに出かけたりとまるで学校の部室のようですらある。「大学を出て数年間は普通に働いていたけれど、職場と家を往復するばかりの生活にうんざりしていたんだ。大学時代の仲間と昔のようなたまり場がほしいという話になって、自分たちで内装工事をするところから始めたんだ。」そう話すメンバーのWong Eng Leon(ウォン・エン・レオン)は、昼は電気街で働きながらこのスペースの運営に携わっている。メンバーは家賃を負担し、海外のミュージシャンの演奏会でドリンクを売り、運営費を賄っている。
移転前のFINDERS。以前は郊外の住宅街の一角にあった。
室内の壁にはFindersの元メンバーで、画家Lim Kehsoon(リム・ケー・スーン)の壁画が描かれている。彼の描く絵もまた、この街の急激な変化と無関係ではない。白黒で描かれたドローイングは、真昼に見た悪夢のような怪奇な生き物たちで溢れているが、よく見てみるとそれらは自動車、テレビ、スマホといった機械に取り憑かれた人間たち(私たち)の姿だと気付く。彼の絵を通じて、私たちは都市に生きる人々のむき出しの孤独を裏側から見ることになる。
普段はおっとりしている雰囲気のスーン氏。子供の頃に好きだった日本の漫画やアニメが自分の作品に与えた影響、そして急速な都市化が進むクアラルンプールの現状について話してくれた。
Daydream Nation/ 179.5 x 150cm/ acrylic on canvas/ 2011
時にLostgenとFindersは共同して反レイシズムのデモや再開発反対をテーマにポスターやステンシルを作り、ドラムやトラメガを抱えて街路に飛び出すこともある。街頭でカラフルなバナーを掲げ、車座になってドラムをたたき座り込む。それぞれの芸術表現のあり方や運営方針は違えども、自分たちの生きる社会、暮らしを営む地域の問題に対しては共通の関心を持ち、協働できる方法を見つけていく。
「The Vanilla Boys & Girls Member Inter-Bangsa Love Tour 2013」

このような独自のアンダーグランド的文化空間を運営しているのは中華系マレーシア人の人々ばかりではない。クアラルンプールのパンクムーブメントの中心的スペースで、DIYやアナキズムカルチャーの発信地でもあるライブハウス「Rumah Api(ルマ・アピ)」は、マレー系のパンクスやアナキストたちが地域に根ざしながら、音楽活動、シルクスクリーンのワークショップ、コミュニティ図書館等の活動を行っていたし、メディア・アクティヴィストたちが運営している独立ラジオ局「Radio Bangsar Utama(ラジオ・バングサ・ウタマ)」は、教育機会の向上、政府の不公平な人種政策への異議申立て、コミュニティ活動の活性化に取り組んでいた。
Rumah Apiの内部。2階にはコミュニティのための図書館も併設している。海外、特にヨーロッパのパンクスたちの旅の中継地にもなっていた。インドネシアの有名なパンクバンド「Marjinal(マージナル)」もここでツアーをしたという。
Radio Bangsar UtamaのDJ。ラジオ局、コミュニティ図書館、会議室が併設している。
また、ボルネオ島の自律的な共同生活のコレクティブ「Pangrok Sulap(パンクロック・スゥラップ)」は、キナバル山の麓の農村でアーティスト、アクティビストたちが共同生活をしながら版画の制作活動を続けている。このコレクティブを研究している徳永理彩さんは、かれらのコミュニティがサバ州に多数ある先住民族のエスニックアイデンティティを持っており、ドゥスンと華人のミックスや、ドゥスンとルングスと華人のミックスなど実に様々な出自をもつ人々から成り立っていると指摘する。※1

中華系、マレー系、インド系という異なる出自をもつ人々が一緒に暮らす多民族国家マレーシア。 一見うまく共存しているように見えるのだが、「民族性(Ethnicity)」という概念が政治、経済そして文化にも深く根を下ろしている。話をよく聞いて見ると、それぞれの住む地域、信仰、進学先、就職、結婚等々、見えない分断線が日常生活のあらゆる場面で引かれているという。そして、文化や芸術の分野でもこの分断線を乗り越えるためにはまだまだ多くの課題が残されている。それでも、「文化的な表現は自分たちが生きている世界や社会と切り離せない。だから行政や企業の支援でなく、DIYで場所を作らないと自分たちが本当にしたいことはできないよ」とマレーシアで出会った友人たちは口々に言う。主流のアートや音楽のシーンと離れた場所で自律的に活動している彼ら、彼女らの想いは中華系であろうと、マレー系、インド系であろうと変わりはない。ホワイトキューブ的な「白い」アートスペースではなく、DIY、アンダーグラウンド、反権威、仲間といった集合的感性に裏打ちされた「黒い」アートスペースやライブハウス。この現実世界との真摯な関わりの中で表現を生み出そうとする美的、倫理的な態度を有する時、そこには国籍や宗教、人種という多文化の溝を越えた「共有可能な感受性」が生まれているように思えた。
インドネシア
■ 南洋芸術都市、ジョグジャカルタ

インドネシアの首都ジャカルタから飛行機で1時間半、ジャワ島の南に位置する古都ジョグジャカルタ。人口は50万人ほどだが、ジャワ王宮文化の中心地であり、多くの大学を抱える文化と学問の街だ。乾季の乾いた青空の下、街のいたるところでグラフティや壁画たちが太陽の白い光を反射して輝いている。路上にはSate Ayam(インドネシア式焼き鳥)、マンゴーやパパイヤなどの果物から子供のおもちゃ、鍵修理までさまざまな種類の露店が立ち並び、でこぼこの道路の上ではバイクや車、馬車、人や動物たちが渾然となって行き来している。それでも一歩住宅街に入ると、スピーカーから流れくるコーランの暗唱以外には鳥の声しか聞こえない。都市の喧騒と静けさが不思議なバランスで混在している。市内には多くのギャラリー、アートセンター、ライブハウスや劇場が点在し、毎晩のように展覧会のオープニングや、公演、レクチャー、野外音楽会が開かれ、人々はバイクに乗ってそれぞれの場所をはしごして回る。生活費や家賃が他の都市に比べて安いこともあり、多くのアーティストたちが自分たちのスタジオやギャラリーをここに構えて活動し、海外のアートシーンとも活発な交流が生まれている。この街には「東南アジアのベルリン」とでも呼びたくなるような刺激的な文化シーンが花開いている。日常生活の場でも、道端のいたるところに集会所が点在していて、毎日のように寄り合いや集まりが開かれている。街の中に小さな「コミュニティー」がいくつも点在していて、人々はまるでそれぞれ独自の経路でそこにアクセスする秘密の通路や呪文を持っているかのようだ。人々が気軽に行き来するこの街特有の軽やかさは、「街が人に対して開かれている」ことに由来するのかもしれない。
ジョグジャカルタ市内を流れるChode川沿いのスラム街。インドネシア近代建築の父と呼ばれる建築家Romo・Mangunwijaya(ロモ・マングンウィジャヤ)が、スラム街の人たちと共に作ったコミュニティのための居住施設や集会所。
ジョグジャカルタ市内のスラム街にオープンした児童公園。オーストラリアのアーティストたちが街の廃品を集め、遊具を作り、ゴミ捨て場だった場所を公園に作り変えた。オープニン当日は、近所のコミュニティの住民たちがが集まり公園の完成を祝っていた。
■ タリン・パディ、壁が語り始めるとき

今でこそ、東南アジアのアートシーンの一つの中心地/中継地となったこの街で、90年代終わりから木版画の共同制作を続け、インドネシアのアート・アクティヴィズムの系譜に大きな軌跡を残してきたグループがいる。「Taring Padi (タリン・パディ)」(稲のノギ)という名前の木版画制作コレクティブ(共同体)は、98年のスハルト体制に抗する美術学生たちの反体制運動の中から生まれ、木版画やデモのバナー、壁画、ポスターや演劇等、集団的な創作活動を通じて、政府の腐敗と暴力的な統治、社会的不平等や貧困、多国籍企業による熱帯雨林乱伐や鉱山開発といった生態系の破壊を告発し、それらに抵抗する人々の側に立った力強い表現を生み出してきた。2011年には彼らの10年間の活動をまとめた書籍『Taring Padi: Seni Membongkar Tirani (圧政に抗するアート)』(Taring Padi、2011、Lumbung Press)が発刊され、インドネシアにおける芸術的想像力と社会的変革の力強い結びつきを記録した貴重な資料となっている。
タリン・パディの版画作品。集団で彫られ、署名を持たないこの作品は、グローバリゼーションと資本主義によるインドネシアの大地と海、人々に対する暴力の構造を緻密なイメージによって私たちに突きつける。
Taring Padiの初期メンバー、Ucup(ウチョップ)が壁画を描く現場を訪問したことがある。小さなアートフェスティバルから依頼を受けて、田園の中にある集落の壁に10人がかりで壁画を描いていた。壁を黄色に塗り、その上に下絵を見ながら手際よくチョークで下書きをし、黒ペンキでラインをなぞり始める。互いに冗談を言い合ったりしつつも、皆黙々と壁に向かい手を動かしている。その両脇では他のメンバーたちが背景を描いていた。そうして作業を眺めていると、大きな男女の顔が壁から浮かび上がってきた。
タリンパディを立ち上げた一人、アーティストのUcup。ジョグジャカルタ芸術大学近くにある彼のスタジオがタリンパディの活動場所だ。最近はジャワの文化をモチーフにした木版画を制作している。
集団制作を是とし、完成作品に個人の署名を入れないタリンパディの版画、壁画は常に人間の思考と行為の二つの極がテーマになっている。右半分に描かれているのは、森と海を削り取る機械、積み重なったガイコツ、汚れた煙と汚水を垂れ流す工場群。そして、そこに住む人たちを追いやるドクロの警官隊と札束を数える太った男たち。左側にはまだ破壊されていない美しい森と海、田園風景、調和のとれた農村の暮らし、楽器や旗、農具を持って抵抗する人たちの身体と力強い目。破壊と抑圧の機構は悪魔的なイメージとして描かれ、それに抗する人々の周囲には生命の豊穣さが描かれている。産業と自然の際立った対立と、2つの異なる世界へのイメージ。自然と調和した農的暮らしはユートピアに過ぎないし、単純な二元論じゃないかという見方もあるかもしれない。けれどもそれは過去の情景の想起であると同時に、まだ見ぬ未来のイメージでもある。産業/自然、都市/農村、そして、大きな瞳をまっすぐに見開いた男女の顔。想像力の弁証法が緊張関係を孕みながら壁面に浮かび上がる。私が壁画に相対するとき、描かれた瞳からまっすぐな眼差しが投げ返される。「あなたはどちらの世界に生きようとするの?」。緑の田園の中に現れた描きかけの女性の大きくて黒い瞳が、僕にそう問いかけてるような気がした。
壁画を制作しているタリン・パディのメンバーたち。地域コミュニティが主催する小さなアートフェスでのコミッションワーク。周囲の家々にも様々なグラフィティが描かれていた。
Ucupのスタジオを訪問したある日の夕方、テーブルの端で一人の若者が黙々とスケッチをしていた。聞いてみるとジョグジャカルタから4時間ほどかかる小さな村からやってきたという。村ではバイクの修理工をしていたという彼は、ここで版画の技法を学び、その技術を持ち帰って村の人たちに版画を教えるつもりだと話した。Ucupは「ここ数年でこうやって地方から版画を学びに来る若者が多くなってきたんだ。版画の制作は、自分たちのコミュニティの歴史や文化、そして現在直面している問題を言葉よりもわかりやすく伝達することができる方法だからね。」と説明してくれた。そして、コミュニティの中で版画を集団制作することには、もう一つの意義があるという。版画や壁画の集団的制作術は、個人制作の作品とは違い、それぞれの絵師たちの「複数の眼差し」が捉えた世界の具体的なイメージが、共に掘る、描くという行為の集積を通じて、緊張関係を保ちつつも、ついにはその固有性、異質性が内包された複数の世界が一枚の板・壁の上に現れる。タリンパディのメンバーDjuwadi Ahwal(ドゥジュワディ・アフワイ)は版画制作のプロセスをこう表現している。「版画を共に掘るということは、バラバラに分断された個々の生きる世界のイメージを、再び『共通のもの』として獲得し直すコミュニケーションの方法なんだ」。
版刷りの準備をしているDjuwadi。
■共有される研究室、KUNCI Cultural Studies Center

王宮を囲む白い城門を南に抜け、閑静な住宅街に足を踏み入れる。一匹の老犬が庭先のマンゴーの木の木陰に寝そべっていて、その奥には一軒の平屋がある。軒先にはCopy Center (コピー屋)の看板がかかっている。ここはジョグジャカルタのNPO芸術/文化研究センター「KUNCI Cultural Studies Center」だ。設立メンバーの一人、歴史研究者のAntariksa(アンタリクサ)によると、この場所の始まりは、学生だった彼と友人たちが中古のコピー機を手に入れたことから始まったという。1999年、当時大学で人文科学、社会科学、芸術を学ぶ学生たちは、街のコピー屋で高価な海外の人文科学、芸術、社会科学の学術書を複製し、それらを回し読みして勉強していたという。もちろん違法コピーではあるが、お金のない若い学生たちによる、海外の文献を読んで学びたいという強い想いに勝るものはない。学生の読書サークルがそのまま、自主運営の私設図書館兼リサーチセンターへと成長していき、ワークショップや上映会の開催、レジデンスプログラムの運営、海外のアートセンターとのネットワーク構築 、研究ジャーナルの発行と、今ではジョグジャカルタの文化研究の重要な拠点になってる。
ここに来ると、いつもさまざまな国から来た文化研究者、アーティスト、キュレーターやミュージシャンたちと出会うことができる。レジデンスとして滞在している人や、ふらりとやってきた人たちが自由に机を使って仕事をしたり、棚の蔵書を読んだりしている。メンバーは現在7名。フリーランスのキュレーターやリサーチャーたちがそれぞれ、ヨーロッパやオーストラリアの文化財団やアートセンターとの共同プロジェクトを展開している。設立メンバーの一人で歴史学者のAntariksaはここ数年、第二次世界大中、日本軍占領下のインドネシア、ジャワ島で実施された文化政策や美術運動についてのリサーチを行っている。当時インドネシアで発行されていた日本語新聞「ジャワ新聞」や陸軍宣伝部の文化政策資料を通じて、これまでほとんど知られてこなかった日本の植民地文化政策とインドネシア近代美術揺籃期の美術運動との関係性を描き出す試みだ。
KUNCIの運営メンバー写真。中の本棚には海賊版コピーの洋書、学術書がずらりと並んでいて、自由に手に取ることができる。が、少し埃っぽい。
Antariksaと初めて会ったのは、2012年福岡アジア美術館のレジデンス滞在中だった。ジョークが大好きで、いつも周囲の雰囲気を明るくさせるムードメーカー。英語、オランダ語も堪能で、世界中の独立系アートスペースやリサーチセンターとのネットワーク作りも活発に行っている。
Kunciに住んでいるサブメンバーのWoto Wibowo(ウォト・ウィボォ)は、90年代後半から自分の音楽レーベルを立ち上げているインドネシア・インディーズ音楽界の重鎮だ。最初はガレージでのカセットの販売からスタートして、今ではオンライン上のレーベルサイト「YESNOWAVE(イエス・ノー・ウェーブ)」を運営しており、ここからインドネシア各地のインディーズ音楽や、ミュージシャンたちの作品が無料でダウンロードできる。
KUNCIに住んでいるWoto氏。見た目は怖いけれど、おちゃめな性格+お腹の持ち主。90年代半ばから自身の音楽レーベルを立ち上げ、アンダーグラウンド音楽シーンで活動を続けているという猛者。2015年ジョグジャカルタ・ビエンナーレの共同キュレーターも務めた。 「YESNOWAVE」
以前はディレクターやアシスタントなどの役職を設けていたが、それぞれ独自の活動をしていくのにヒエラルキーは必要ないと、数年前から水平的なメンバーシップ制に変更して運営を続けている。運営費も海外の文化財団の助成金の依存を減らすために、世界中のアートセンターとのネットワークを基にした基金を作り、資金面での自立を模索している。

KUNCIには、半屋外のスペースに一つの長テーブルがある。このテーブルにタバコ、果物、お菓子を置くといつの間にかきれいに無くなっている。このテーブルの上は全くの共有ゾーンになっていて、置かれたモノは一瞬にしてみんなの共有物になる(主に食べ物と嗜好品。パソコンや携帯等は個人の所有物)という暗黙のルールがあり、皆それを理解して使っている。共有物のスペースというのはどんな場所にも一つはあるとは思うが、テーブルの上だと、主に食べたり、飲んだりすることを共有するので、誰でも利用することになる。ここでは「共にあること」が暮らしと仕事の中にすっかりと溶け込んでいて、それぞれが別のの仕事や調査をしていても「何かを共有している」という感覚が意識のどこかに自然と入り込んでいる。
KUNCIの長テーブルでの夕食。ここに色々な人がやってきて、談笑、打ち合わせ、仕事、食事を共にする。
市内にあるギャラリー&レストラン&図書室「Lir」。2009年に写真家のDito YuwonoとキュレーターのMira Asriningtyasの夫婦が住宅街の一軒家を改装して、セルフファンディングで運営している。室内も開放的で、友達の家にギャラリーがくっついているような雰囲気。トロピカル・ガーリーというジャンルがあれば、このような感じだろう。メニューにあるライムアイスコーヒーが爽やかで美味しい。ジョグジャカルタで足繁く通いたくなるお店の一つ。
■路上から生まれる想像力

ある日、KUNCIの近くにあるアートスペース「ACE HOUSE COLLECTIVE(エーシーイー・ハウス・コレクティヴ)」に行くと、玄関先でなにやら物凄い爆音が鳴り響いていた。バイクのエンジンと廃棄マフラーが垂直に固定された謎の器械が並んでおり、皆マフラーを指で押さえたり、離したりしている。実はこれ、2015年秋に開かれたジョクジャカルタ・ビエンナーレに出展した「Punkasila」のパフォーマンスの一つで、バイクエンジンで作ったエンジン・サクスフォンのオーケストラだ。ガソリンを入れて、エンジンをかけると白い排気ガスが噴き出す。マフラーに開けた穴を指で押さえ、爆音を鳴らすアグレッシブな機械楽器。インドネシアでは選挙期間になると政党が街の暴走族を雇って、街中を爆音で走らせて選挙キャンペーンをさせるという。それを皮肉るようにこのエンジン・サクスフォンを車の荷台に乗せ、女性のダンサーと地元サッカーチームのサポーターが一緒にバイクでパレードするというパフォーマンスプロジェクトだ。物凄い量の排気ガスの煙の中で演奏(?)しながら、バイクに乗った若者たちがインドネシアの政党のロゴがまとめてプリントされた旗を規則正しく振る。この日は予行練習だったはずだが、本番さながらに爆音を奏でつつ、トラックとバイクの編隊が公道上をゆるゆると走ってく。もちろん許可など取っていない。通りの人たちも興味深そうに覗いたり、子供たちが走って後を追いかけたりと、のんびりとした反応。これを日本の公道で実現させようとすれば、気の滅入るような手続き、申請の連続が待っているだろう。路上の自由度は、文化的想像力と相関関係があるのだ、と実感した。
パフォーマンス・プロジェクト「Punkasila」のリハーサル風景。トラックの荷台にエンジン・サクスフォンを積み込み、爆音を奏でながら公園をぐるぐると回り続けていた。
夜には頻繁に停電が起きるジョグジャカルタだが、停電になると蝋燭に灯をつけ、誰かがギターを持ち出し弾き始め、最後はみんなで歌う。電気や水道が時々止まるのは日常茶飯事で、日本での暮らしを基準に考えればトラブルばかり。でも、こうやって暗闇の中でも集まって野外で歌うことができるコミュニティとストリートがあるということは、また別の意味で豊かな暮らし方なのではないだろうか。
ジョグジャカルタビエンナーレでのプロジェクトの一環。プロジェクターを乗せた4輪自転車で街のあちらこちらを巡り、即興の屋外上映会や音楽会を開く。すべて許可無しのゲリラ的イベントだが、彼らにとってそれは特別なことではない。
■ 終わりに:流転しつつ根を伸ばす。

これまで5回の連載で、香港、台湾、韓国、そしてマレーシアとインドネシアの「場所作り」、特に再開発の問題とそれに抗するアート、音楽、運動を紹介してきた。もちろん、ここで取り上げた事例はアジア各地のさまざまな実践の中のほんの一例でしかない。それでも各地を歩いていく中で、場所作りを続ける人たちのいくつかの共通点が見えてきた。まず、アートや音楽など文化・芸術の活動に関わりながらも、現在の社会システムが引き起こす諸問題(不安定な労働環境、再開発による立ち退き、食の安全、住まう権利の侵害)に対する批判的意識を備えているということ。それと同時に、独自の美的-倫理的価値に基づいた社会的関係を集団的に発明しようとする態度を仲間たちと共有していること(それは、反権威、自律、平等、相互扶助というアナキズムの諸理念に似ているが、そこには「面白さ」や「遊び」の要素が多分に含まれている)。そして、自分とは異なる生き方、暮らし、価値といった差異に出会い、なお同じ時間を生きているという事実を「喜び」として受け止める「生の態度」が互いに共有されてるということ。この3つの要素が重なり合うとき、世界のさまざまな場所で生きる「わたしたち」、つまり集合的身体のイメージが生まれてくる。だからこそ、彼ら・彼女らは自分たちで場所を作り、アートや音楽といった個々の芸術のジャンルの活動を超えて結びつき、より集合的かつ水平的な関係性を基本にした暮らし方や、誰かに搾取されることのない自律的な仕事のあり方を作ろうと動き出しているのだ。

僕が出会ったこれらの文化運動は、すべて現在進行系の活動であり、生成途中の出来事だ。時間の流れのなかで、それぞれの活動の内容も変化していくし、人、関係性、そして場所そのものも移り変わってゆく。アジアの多様な文化ネットワークを僕に繋げてくれた釜山の「AGIT」はすでに取り壊され、第1回の連載で紹介した香港下町のアートスペース「WooferTen」は、香港文化局の助成金打ち切り後、約1年間の立ち退き抵抗運動を経て昨年11月に閉店した。台湾編で紹介した台南最初の同棲結婚式を行った「能勢興」のYuiとBaopaoは、昨年末に離婚するとの報があった(「離婚式」と書かれた紙を持ち、アークンが二人の頭の上に手を乗せて距離を離していくパフオーマンスめいた写真がfacebookに上がっていた)。一度作った場所やコミュニティがずっと続いていくとは限らない。そして、そこで培われてきた人間関係がそのまま順調に進んで行くという保証もない。ある場所が終わるとき、多くの場合、人間関係にも大きな傷が入ることは避けられないように思う。

ある時、僕の話を聞いた知人がこのように言った。「どれも面白い活動ばかりだね。でも、こんな場所は一時的にしか続かないんだろう?」このシニカルな返事は、ずっと僕のなかに一つの問いとして残っていた。確かに、たくさんの素晴らしい場所が生まれては、何年か後には跡形もなく消えてしまう。けれども「場所作り」が一時的にしか存続しないということは、失敗や無価値という意味なのだろうか?

その答えは、場所が無くなった後に彼ら、彼女らが日々何をしているのかを知ることにあるように思う。今、釜山ではAGITのコヌーが古い市場の小さな空き店舗を借りて、新しい場所作りを始めている。香港では、屋上庭園を作っていたデザイナーのマイケルは小さな屋台を借りて、路上での一時的な文化スペースを作り始めている。台南の2人は離婚後も相変わらず同じ運営メンバーとして日々「能勢興」で共に過ごしている。大切なのは物理的な空間よりも、その場所を場所として成り立たせていた人々自身であり、彼ら、彼女らの日々の活動とその継続そのものではないだろうか。一度断絶してしまった人間関係であったとしても、時間を経てまた再び繋がる可能性だってあることは皆心当たりがあるはずだ。場所もまた同じなのではないだろうか。場所は生成・消滅し、流転を続けながらまた再び別の「かたち」で現れる。木々が地中の根で繋がっているように、人間の関係は目に見えない日々の暮らしの中で綿々と続いてゆく。もしかすると、その目に見えない関係性自体が「場所」なのかもしれない。なぜなら「場所」とは、ある空間における人と人との関係性の具体的な表現であり、その関係性が生み出した出来事の総体なのだから。
※1 「Pangork Sulap」の活動については、彼らのコミュニティと版画制作について研究している徳永理彩さんによるwebレポートに詳しい。

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