江上賢一郎
Kenichiro Egami
オルタナティブ・アジア
今、アジア各地で異種混交的な文化シーンが生まれている。それはアート⇆コミュニティ⇆アクティヴィズムのカテゴリーを越えて、互いに影響を及ぼしあうことで「新しい生き方」や「社会のあり方」の可能性をより広く提示し、実践しようとする動きのことだ。このまだ名前を持たない「動き(ムーブメント)」は、それぞれの場所に根付きつつも国境を越えた往来や交流を通じて、アジア圏(そしてそれを越えた)にまたがる草の根的恊働・相互扶助のネットワークを作り出している。「オルタナティブ・アジア」では、そのようなネットワークを通じて出会った人や場所を取り上げ、この汎アジア的な文化/運動/芸術の交流圏の現在進行系の姿を伝えていきたいと思っている。
04 都市の瓦礫から文化をつくる。(韓国)
■釜山  アジアの有象無象が出会う空間「AGIT 」

隣の国、韓国に通うようになったのは、2010年に福岡アジア美術館で開催された釜山アートシーン報告会で、アートプランナーのリュウ•ソンヒョ(Ryu Sounghyo)氏と出会ったことがきっかけだった。打ち上げの席で酒を飲んでいるうちに意気投合し、翌月に彼が友人たちと一緒に運営していたアートセンター「Indie Culture Space AGIT」(インディー・カルチャー・スペース・アジト)を訪問した。釜山大学の隣、ジャンジョンドン駅から続く坂道を登り、山裾近くの住宅地の一画に建つAGITを初めて見たとき、僕は年甲斐もなく興奮した。元幼稚園という3階建ての建物の壁一面にはグラフィティが上から下までびっしりと描き込まれ、場所そのものが全身タトゥーを身にまとっているような、そんな強烈な視覚的メッセージを放っていたからだ。 世界中からこの場所にやってきたアーティストたちが自分たちの作品を外壁、室内、階段から屋上にまで描き残していて、建物全体がひとつの生きたグラフィティ•ミュージアムのような様相を呈していた。1階にミーティングルーム、滞在者用のゲストルームとレコーディングスタジオ、2階には広いギャラリー兼イベントスペース、スタジオ兼木工所を備え、パーティやコンサートができる庭を持つ大きな複合文化施設、それがAGITだった。
AGIT の外観。建物の外壁にはプロジェクトごとに新しいグラフィティが描かれ、毎回違う表情を見せていた。
庭でのパーティ。ビールや焼き肉が無料で振る舞われることもあり、いつも大勢の若者や外国人たちが遊びにきていた。
AGITの活動の主な目的は、アーティストインレジデンスや展覧会、音楽制作、シンポジウム等、文化的な活動と発表の場を、国内外のメインストリームではない若いアーティストたちに無料で提供することで、運営は市の助成金やメンバーのアルバイト、音楽機材レンタルでまかなっていた(その後、助成金を受けとらず、音楽イベントの収入を中心とした運営に移行していった)。韓国ではグラフィティやストリートアート、ヒップホップといったストリートを軸にした芸術•文化活動のことを「サブカルチャー」もしくは「インディ•カルチャー」と呼んでいるが、これは日本語での文脈とは多少異なり、アンダーグラウンド文化、対抗文化という意味も含んでいる。このような地方都市における非-主流の文化活動を支える場所、それがAGITの立ち位置だった。
運営メンバーの一人だったアーティストのKAY2は、釜山の再開発や立ち退きという都市問題をテーマにしつつ、その優れた描写力で市井の人びとの姿やありふれたモノを描き、都市の隠されていた記憶や歴史を喚起させる作品を生み出している。
それと同時にAGITは、釜山の反原発運動や元従軍慰安婦の支援活動といった社会運動のサポートするソーシャルセンターでもあった。日本で東京電力福島第一原子力発電所の過酷事故が発生した後、釜山での反原発デモを企画し、路上でのサウンドデモを実行したのもAGITの運営メンバーとそこに出入りするアーティスト、ミュージシャンたちだった。アーティストたちが展覧会の準備をする隣で、地元の社会運動家たちが反原発の勉強会を開き、時には一緒にデモを企画する。文化的活動と社会運動が互いに一つの場所のなかで交差する光景は、日本から来た僕にとってとても新鮮に見えた。※1


釜山反原発デモ「Nuclear Free World Festival」

Nuclear Free World Festival from Ryu Soung Hyo on Vimeo.

■酒からはじまるAGIT式交流術

また、AGITにはアジア圏を中心に海外からの来訪者がひっきりなしに訪れ、滞在していた。そして酒文化が社交の基本になっている韓国らしく、ここでの滞在にはいつも酒の席がセットになっていた。とにかく皆驚くほどよく酒を飲む。それも長時間。大量のマッコリ、ビールと韓国焼酎、鳥の唐揚げを用意して夜7時にスタートした飲み会がそのまま明け方まで続く、そんなことも珍しくなかった。それでも、この一緒に酒を飲むという交流術は、アジアの有象無象たちが仲良くなるのにはうってつけの方法だった。 地理的には近くても、言葉や文化の違いもあり、個々人の英語の能力もまちまちな私たちは、最初のほうこそ妙によそよそしかったりする。それでも「酒を飲みつつ仲良くなっていく」という共通項に気づくや否やお互い急速に打ち解けていく。AGITでの酒の席は、国際政治によって演出された対立やマスメディアが煽る偏見を乗り越えて、私たちは同じアジアに生きる友人なのだと再確認するための場でもあった。お互いカタコトの英語でよくわからないジョークを伝えようとしたり、言葉が通じない時はオーバーなリアクションをしてみたり、踊りを一緒に踊ってみたり、韓国式酒のチャンポン術を教えてもらったり、やたら乾杯を繰り返したり(韓国式の飲み文化では、少し場のテンションが下がった時にはすぐさま乾杯の音頭をとって場の空気をリセットする)。そのような光景そのものが、すでに独自の外交術、コミュニケーションの実践になっていた。何より、国がどこであろうと一緒に酒を酌み交わしつつ笑うことができる、という経験はそれだけでもお互いの認識を変える力を秘めている。日本人、韓国人、中国人等々のナショナルなカテゴリーが霞み、その代わりに個々人の名前がそれぞれの人格を通じて立ち現れてくる。もちろん酒を通じた交流は世界各地にあるのだが、東アジアでの酒の交流術は、これまで隠されていたお互いの共通点を見つけ出すためにはとても有効な方法だったのだ。
AGITでの飲み会風景
韓国人、日本人、台湾人、香港人が一同に集まって酒を飲みながら、「最近、台湾でタバコの値段が上がったのでけしからん」というような話を延々と続けていた。
例えば、2011年9月には東アジアの文化/社会運動のスペースづくりに関する報告する小さなシンポジウムがAGITで開催され※2、日本、香港、台湾といった東アジア圏で活動している人たちが出会い、酒を一緒に飲んでいるなかで、お互いの活動だけでなく、それぞれの国の現状や普段の生活についてもっと知ることが大切だという話で盛り上がった。そして翌年の4月には香港で、台湾、香港、韓国、日本で独自の「場所づくり」を行っている各グループが一同に会し、「革命後の世界」をテーマにそれぞれの実践について紹介し討論するという「東アジア有象無象会議」が開催さることになった。これもアジア式酒の交流術が生み出した一つのかたちだろう。
香港で開かれた「東アジア有象無象会議」。 会場は、当時香港でのオキュパイ運動「Occupy Central」が占拠していた HSBC銀行のロビー前のテント村だった。
このようにAGITで出会った人びとのつながりは多層化し、さらに新たな関係を作り出していった。そのうち大きなイベントでなくとも、定期的にお互いが国境を越えて交流を始め、釜山のAGITに集まっていた人たちが東京、高円寺に遊びにいったり、福岡の音楽レーベルと一緒にCDを出したり、ライブを企画したりするようになっていった。個人間の交流がグループ間の交流へと拡大していき、そこからまた別の個人同士のつながりが枝のように広がっていく。日本語で「界隈」とでも呼ぶような小さな親密圏が生まれ、それらが国境を越えて繋がっていく動きは、東アジアの越境的交流圏を生み出すための小さくとも重要な潮流となっていった。

実は、AGITそのものは2013年に大家との契約問題で立ち退きが決まり、今はもう存在していない。グラフィティに彩られた建物は取り壊され、新しい賃貸アパートに変わってしまった。また、釜山のサブカルチャーシーンは2000年代前半に全盛期を迎えたが、活動を継続しているアーティストの数は年々減っているという 。ストリートから生まれた表現は、ソウルのようにアートやデザインの領域へと商業化されるケースが少なかった代わりに、仕事や生活の問題に直面した時にその多くが活動を止めるか、ソウルのシーンへと移ってしまった。アートや文化を仕事にするには、釜山はあまりにもチャンスが少ない。これが釜山の友人たちの多くの意見だ。それでもAGITの中心メンバーで、釜山のストリート音楽祭「Zero Festival」のオーガナイザーでもあるコヌー(KunWoo)は、同じ地域で新しい場所づくりを始めている。2014年に彼はAGITがあった場所から300メートルほど下った駅前の小さな商店街を拠点に、周囲の空店舗を借りてギャラリー、ライブハウス、カフェを開く「B-Space」というプロジェクトをスタートさせている。AGITはさまざまな機能が一つの場所に集約されていたが、その反面外部の地域コミュニティとの交流は多いとは言えなかった。B-Spaceでは助成金に頼らず、むしろ地域の中に自らが分け入っていくかたちで、暮らしと文化の新しいかたちを見いだそうとする試みを始めている。
リュウ•ソンヒョ氏。僕に韓国とのつながりを与えてくれる最初のきっかけとなったリュウ•ソンヒョ氏は、AGITの後、ソウルと釜山を行き来しながらタイやベトナム等東南アジアを中心にアート•ネットワークを広げる活動を継続している。
コヌー(KunWoo)とnacca、B-Spaceにて。Kunwooは、釜山大学在学中に大学構内のスペースを占拠して文化活動を企画する「チェミナン•ボクス(愉快な復讐)」を立ち上げ、2008年にAGITをスタートさせた。自分の家が爆発したり、全財産がバッグ一つになったりと何かと武勇伝には事欠かない人物。東京出身のシンガーnaccaは、高円寺でのコヌーとの出会いをきっかけに釜山と東京を行き来し、2014年に釜山に移住した。現在は釜山でNayutaカフェというベジタリアンカフェを友人たちと一緒に手がけている。
■ソウル 再開発と抵抗する人びとがつくりだす空間

2012年9月に、ソウル在住のドキュメンタリー監督、植田二郎氏に首都ソウルでの文化/社会運動の実践の現場を案内してもらう機会があった。植田氏は韓国の様々な運動やデモの現場に赴いて映像製作を行うと同時に、ソウルのアンダーグラウンドシーンにも造詣が深く、日本と韓国のカウンターカルチャーコミュニティの橋渡し的存在だ。同時に彼はパートナーのユソン(Yuson)さんと共に「Byul Kkol (ビョルコル)」というカフェ兼インフォショップを運営している。障がい者支援団体と共同で借りているカフェの店内には、韓国の社会運動、抵抗文化に関する雑誌、ジン、手作りの雑貨が並んでおり、今この国で起きている運動/文化の潮流を肌で感じることができる。
植田二郎氏、カフェ•ビョルコルにて
2010年代以降、ソウルでは都市再開発にともなう資本による都市空間の大規模な再編成の波と、それに抵抗する様々な芸術的•文化的な抵抗実践が生まれていた。2009年には、ソウルの若者文化の中心地のひとつであるホンデ地区で、再開発事業に伴う立退き要請を拒否した小さな食堂にミュージシャンやアーティスト、学生や活動家、市民たちが連日泊まり込んで支援し、一年半以上の座り込みの結果、強制退去に伴う賠償を行政から勝ち取るという闘争があった。この食堂の名前をとって「トゥリバン闘争」と名付けられたこの闘いは、再開発による地域コミュニティの破壊と資本による空間の排他的独占に対する直接的な抵抗であると同時に、連日ライブやパフォーマンス、上映会等の文化的イベントを企画し、開催する自主的な文化実践の場でもあった。トゥリバン闘争は、 芸術/運動の新たな関係、異なる分野の人たちと恊働する可能性を巡るひとつの社会実験としても語られている。なぜなら、このような状況下では表現することと抵抗の態度が不可分のものとして現れるからだ。この食堂ビルに集まった人びとは抵抗の現場に留まることを通して、既存の制度の外部で文化や芸術を創造し、受容するための多様な創造的戦術を作り出していったのだ。

このトゥリバン闘争の全過程は2014年に公開されたドキュメンタリー映画「Party51」に記録されている。
トゥリバン跡地。裁判によって立退き補償を勝ち取ったトゥリバンは現在、別の場所に移転して食堂としての営業を続けている。
Yamagata Tweakster (ヤマガタ・トゥイークスター)は、トゥリバン闘争に参加していた音楽家の一人で、社会運動の現場に直接現れ、歌い、踊るミュージシャン/パフォーマーだ。 ピンクのパンツに蛍光イエローのジャケット、サングラス。Yamagataの音楽は、過度の競争社会や拝金主義に対する異議申し立てを歌詞に込め、エロティックかつユーモラスなダンスによって都市の境界線を越えてゆく。ライブハウスのステージで歌っていたかと思いきや、すぐさま車道や広場(時にはバスの中でさえ!)に飛び出してダンスを踊りはじめ、観客たちもそれに続くように一緒に外に出て踊りだす。公共空間の見えないルールや規制といった境界線は彼の奇妙なダンスによってかく乱され、一時的に解放された空間が出現する。都市のゲリラ音楽家とでもいうようなYamagataの活動は、同時に音楽の生産、流通、消費のあり方を自分たちで作り出す試みにまで及んでいる。韓国のインディーズ音楽家たちと共に「自立音楽生産組合」を立ち上げ、 毎週金曜日には自作のリヤカー「グルーブ車」を引いて街頭に立ち自主制作CDを販売している。資本の力学が都市空間を商品化していくプロセスに抗するとともに、ここでは個人の身体と能力そのものが商品化されていく流れに対して抗いつつ、仲間たちと共に自立した音楽の生産と、音楽家としての生存方法を模索してゆく動きを作り出している。
Yamagata Tweakster 、釜山、ゼロ•フェスティバルにて
再開発による都市空間の破壊的再編成に対して批判的なまなざしを向け、表現を通じた抵抗を試みているのはミュージシャンたちだけではない。「Listen to the city」はソウルに拠点を置くアーティスト、デザイナーのコレクティヴだ。 Listen to the cityのオフィス兼スタジオは南山公園の下に建つ古いアパートの一室にある。メンバーの一人、アーティストのパク•ウンソン(Park Eun Seon)さんは、資本と行政による開発によって収奪された都市空間の「The Commons (共有財)」を巡るドローイングや出版、展覧会のプロジェクトを手がけている。大規模な国土開発がもたらす自然破壊、特にイ•ミョンパク政権時代に始まったネソン川の人工運河建計画への抗議運動からスタートした「Naeseong River」プロジェクトは、河川の植生や生息している生き物たちのドローイングや映像の記録を展示、書籍化することで、開発の名の下に私たちが破壊しているもの、失いつつあるものを想起させる試みだった。
パク•ウンソンさん Listen to the cityのスタジオにて
その他にも、建築家ザハ•ハディドによるデザインで物議を醸したソウル東大門再開発事業に焦点をあて、再開発に伴う食品市場の強制撤去や東大門野球場取り壊し問題等、地域の文脈を無視したデザイン主義や経済効率至上主義的な都市計画を批判的に再検証し、 地域住民による東大門エリアの再生計画を自主的に提案するプロジェクトを展開していった。Listen to the cityは、「開発や発展の名の下で消えつつある自然やコミュニティの小さな声をいかに聞ききとるか」をテーマに、アートとデザインの手法を通じてそれらを可視化し、アーカイブ化することで、都市のめまぐるしい変化の中で取り残され、消えていく物事が秘めているもうひとつの都市の姿/イメージを描き出そうとしている。
Listen to the city のプロジェクト
Listen to the city のプロジェクト
Listen to the city のプロジェクト
Listen to the city のプロジェクト
■引き裂かれた都市の傷を繕う

ソウルや釜山の街を歩いていると、突如として広大な空き地に出くわすことがある。これらの多くは再開発の取り壊し現場で、廃墟と化した住宅やビル、そして瓦礫が山積みになったまま放置されている。釜山で電車の車窓からみた再開発現場では、昔から続く市場が一駅区間分そっくりそのまま取り壊され、そこだけ長方形の白い窪地となって延々と伸びていた。そして再開発の前にはかならず住民の追出し、強制退去がある。日々の暮らしの空間が一夜のうちに瓦礫の山と化してしまう。それは都市が負った大きな傷のようにさえ見える。

新自由主義的経済政策、公共サービスの民営化、非正規雇用、リストラ、そして投機的な再開発。98年のアジア通貨危機によってIMFの構造調整プログラムを受け入れざるを得なかった韓国では、日本よりも10年早くこれらの問題に直面し、その結果として若年層を中心に極端な競争主義、不平等、貧富の差に今なお苦しんでいる。人びとの暮らしと労働の紐帯が分断されてしまった社会状況に関して言えば、日本と韓国の姿は驚くほどよく似ている。
ソウルの夜景
2013年5月、パク•ウンソンさんにソウル郊外のコルト•コルテック闘争テント村を案内してもらった。コルト•コルテックは韓国を代表する楽器製造メーカーだが、2007年から工場の海外移転に伴う従業員解雇を押し進め、多くの従業員たちが解雇された。当時、抗議のために占拠していた工場から強制排除された職人たちは工場脇の歩道にテントを建て、そこに住み込んで異議申し立ての座り込みを続けていた。テント村では支援を手伝う活動家やアーティストたちがワークショップを開いたり、バナーの作成や炊き出しの手伝いを行なっていていた。荒涼とした工場エリアに建つ青いビニールシート製テントとカラフルなバナーは、奪われたもの(人間らしい仕事と暮らし)を取り戻すための意思表明であると同時に、この現実のなかで、アートや文化がどのように社会の問題に関わり、連帯していけるのかという問いへの応答のようにも思えた 。
コルト•コルテック闘争テント 2013年2月の時点で座り込み運動は1000日を経過しており、現在もなお継続中である。
テント内でのワークショップ。デモの時に頭にかぶるスローガン帽子を作成している。
自分の住む地区が無くなるということは、そこで暮らす人、働く人たちの生活を成り立たせている社会的環境がまるごと失われるということだ。再開発でなくても、もともと家主の権利が強い韓国では、大家の意向次第で契約書の規定を度外視した追い出しが行われるケースも多い。土地を持つ者と持たざる者。持つ者はさらなる利潤を引き出すために、土地に投資し開発の規模を拡大する。持たざる者たちは、その度に積み上げてきた自分たちの暮らしの場所を追い出される。※3
ソウル市内のカフェ立退き反対テント
釜山在住のアーティストのJazoo Yang(ジャズー•ヤン)は、そのような再開発によって廃墟となってしまった家々に、そこに自分の手や指で直接ペイントする作品を発表している。抜け殻となってしまった家の表面をキャンバスに見立て、そこに再び手の動きを刻印のように刻み込む。繰り返し描かれるパターンの連鎖、それは破壊された街の傷を自分の身体をもって繕う行為のように見える。
Jazoo Yang 作品
Jazoo Yang 作品
また、ソウル市内では 2010年代に入ってから共同生活や共同研究の場を集団で作り上げる活動が生まれている。※4 市内のヘバンジョンという小高い丘にある商店街では、学生、フリーター、無職の若者たちが地域内でいくつかの家を借りて共同生活を行う「ピンジップ(空の家)」というシェアハウスを展開している。さらには、自分たちの仕事の場所を作り出す目的でカフェをオープンし、ミーティングや定期的な勉強会、上映会等のイベントも行っている。また、既に日本でもよく知られている若手研究者や学生による自主管理型の研究スペース「スユ•ノモN」では、メンバーシップ制による共同出資の運営方式で夜間の自主講座や海外の研究者の招聘等 、大学制度の外部での共同的な知的生産の形式を探求していた。座り込みのテントでは、週末に集会が開かれたり、音楽のコンサートや共同炊事が行なわれることも多い。
ムンレ地区にある屋上庭園。再開発の危機に直面しながらも、打捨てられた空間を再び再生させる試みはソウル市内各地で行なわれている。
都市の破壊と分断によって散り散りになった身体と声を集め、再びそれらを繕うこと。韓国の再開発、立退きをめぐる戦いの中で生まれてきたこれらの文化実践やアート作品の中には、「留まる」と「繕う」という2つの身体にまつわる言葉がそのイメージの中に息づいているように思う。彼ら、彼女らは、怒りの感情とともに、壊されてしまったモノやコトの瓦礫の中に自ら留まることを選び取り、その瓦礫の破片を繕うようにして新たな文化•表現を生み出していく。人間の条件をめぐるぎりぎりの闘いの中から生まれた抵抗の文化は、壊された世界を再び繕うという恢復へ向けた人間的な振る舞いの徴(しるし)でもあったのだ。韓国での様々な出会いによって、僕の世界への視座はぐるりと反転した。それまでヨーロッパやアメリカ、日本であれば東京を仰ぎ見ていた自分の目は、九州、玄界灘を超えたユーラシア大陸の東端に点在するアジアの諸都市に生きる友人たちに、そして彼ら/ 彼女たちの<生きること/抵抗/表現>をめぐる切実かつ豊かな運動/実践の地平へと向けられるようになっていった。
注釈
※1. 2011年、ハンジン重工業の不当解雇に反対し釜山港のクレーン上で座り込みの抗議運動を継続していたキム•ジンスクさんの支援運動では、社会運動の現場で版画作品を製作する「派遣美術」の作家、イ•ユニョプ氏の描いた握りこぶしを突き上げた巨大な腕の絵がクレーンからつり下げられていた。
※2. 「Subculture Network Workshop」と名付けられたこのシンポジウムには、日本から東京、高円寺の「素人の乱」松本哉氏や、京都のアートスペース「Social Kitchen」のディレクター須川咲子さんが参加し、日本と韓国の社会運動、文化活動についての様々な事例の紹介や、相違点についての討論が行なわれた。
※3. 植田二郎氏は自身の映像作品「騒音の騒音」で、ソウルという大都市における生活の喪失、剥奪の感情を再開発地区を舞台に描いている。
※4. 2011年には聖公大学で結成されていた「夢見るスリーパー」という学生グループは、校内にテントを張り住み込みながら、ソウルの住居問題と貧困問題への取り組み、学校内の非正規雇用者(食堂や清掃の仕事に従事している女性労働者)との連帯、自分たちで移動式の食堂を作るプロジェクト等を実践していた(現在このグループは解散している)。

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