大谷悠
大谷悠
Yu Ohtani
まちに「あそび」をつくりだす ― 都市空間を私たちの手に取り戻すために
禁止事項だらけの公園に、人を排除する公共空間、止まらない大規模な再開発、なんだか最近都市の生活がますます窮屈になっています。事なかれ主義の行政や、利益至上主義の不動産開発業者たちを批判することも必要ですが、都市に生活する私たちが動くことで状況を変えることもできます。それは都市に「あそび」を作り出すこと。この「あそび」には2つの意味があります。一つは活動を通じて、まちの人々が参加できる「楽しい遊び」を仕掛けていくこと。もう一つは都市の中に「空間的なあそび」を作り、人々の交流や活動のベースとなる場所を維持していくこと。この2つの「あそび」を追求することが、都市空間をもういちど我々の手に取り戻していくことにつながるのではないか。そんな仮説をもとに、日本とドイツの5つのケーススタディを紐解いていきます。
これまで4回にわたり、まちに「あそび」をつくりだすことについて具体的な事例について書いてきました。最終回となる今回は、少しまとめとなるような話をしたいと思います。

■ 「空地」と「廃棄された空間」

1970〜80年代を代表する建築・都市計画家の一人である大谷幸夫は、1979年に『空地(くうち)の思想』※1 という本のなかでこのように語っています。

"・・・いま発生しつつあるもの、育ちつつあるものというのは固まっていないから施設化できないけれども、それは広場という場で育っていくわけですね。だからそういう場を用意しておかないと、いま育ちつつあるものを育てることができない。つまり未来にむかっての可能性といったものをつぶす、その芽を摘み取ったことになるわけです。現代の都市はそういうものの余地を残しておこうとしない。現代都市の圧迫感、閉鎖感というのもそういうところに関係があるような気がします。"(p.202)

同じ時代、アメリカの都市計画の大家であるケヴィン・リンチは、遺稿となった『Wasting Away(邦題:廃棄の文化誌)』 ※2 で次のように述べています。

"廃棄された多くの場所にも、廃墟と同じように、さまざまな魅力がある。管理から解放され、行動や空想を求める自由な戯れや、さまざま豊かな感動がある。" (p.2,p.50)
"周縁にあり、遮られていても管理されていない場所は、絶えず浄化運動に脅かされているが、しなやかな社会には必要なものである。" (p.52)
"廃棄された土地は、絶望の場所である。しかし同時に、残存生物を保護し、新しいモノ、新しい宗教、新しい政治、生まれて間もなくか弱いものを保護する。廃棄された土地は、夢を実現する場所であり、反社会的行為の場所であり、探検と成長の場所でもある" (P.201)


大谷幸夫は高度成長からバブルへと向かうなか、日本中の都市で大規模な再開発が行われ、建物の高層化と高密度化が進むことでヒューマンスケールの生活空間が失われていくことへの批判を繰り返しました。その彼がたどり着いた一つのキーワードが、開発の圧力から逃れ、今育ちつつあるものを保護するような「空地」だったわけです。一方、『都市のイメージ』以来一貫して「生活者にとっての都市」という視点からの都市計画の理論づくりを目指していたリンチが最晩年に着目したものは、都市において管理が放棄された「廃棄された空間」の果たす、「新しいなにか」を育むという役割でした。このように、それまで「近代都市計画」を牽引してきたはずの日米の都市計画界の大家たちは、1980年頃になって「近代都市計画からこぼれ落ちた空間」に熱い視線を注いでいるのです。
■ ライプツィヒと空き家・空き地

それから30年ほど経った現代の都市はどうでしょう。先進各国の都市では、近代化と高度成長の後、産業転換や人口減少によって、空き家や廃工場、ブラウンフィールドなどが都市に散在する「空間あまり」の時代が到来しています。これは「空地」や「廃棄された空間」が(図らずも)世界中の都市のいたるところに現れる時代になったことを意味しています。
連載の1回と4回で取り上げた私の住む街、ドイツのライプツィヒでは、東西ドイツ統一後の90年代に10年間で10万人人口が減少するという経験をしました。成長を前提として作られた都市計画はこのような変化を想定しておらず、行政の都市政策は手詰まりになります。特に中心市街地にほど近い築100年ほどの住宅街は、住環境の悪化と失業によってみるみるうちに人口が減り、リノベーションにコストがかかるため廃墟が放置される状態が続きました。市は連邦政府の助成金を使って「不動産市場の再生」を主目的に、不動産的価値のない空き家を取り壊していきます。一方で歴史的価値のある住宅を破壊から守ろうと市民が立ち上がります。これが第一回でご紹介したハウスハルテンの運動でした。この運動を契機に、空き家となった建物をベースに2000年代中盤頃からさまざまな市民グループが自らのアイディアとモチベーションを元に活動を行っていきました。衰退地域の空き家で食育や絵本作りをする活動、空き家を世界中のアーティストに貸し出す活動、空き地を使った市民農園など、その活動は多岐に渡ります※3 。 これらの営利を目的としない社会・文化的な活動に共通しているのは、都市の縮退によってできた空き家・空き地といった不動産市場の「エアポケット」のような空間で活動を立ち上げたという点です。
「日本の家」もまたその一例です。「東独の都市ってこれだけ空き家があるんだし、一個くらい僕らが使ったっていいんじゃない?」というなんとも漠然とした理由でスタートしたこのプロジェクト。カネもコネもない、あらゆる意味で素人だった(今でもあまり変わってませんが...)私たちのような外国人グループが、家賃の安い衰退地域に拠点を構え、近所の人々と一緒にご飯を作ったりワークショップをしたりという体験を重ねていくことで、だんだんと地域になくてはならない人々の居場所へと成長してきました。第4回のインタビュー記事でご紹介したように、毎週土曜にやっている「ごはんのかい」には近所の学生、芸術家、家族、研究者、移民・難民、ホームレスなど本当にさまざまなバックグラウンドをもつ人々が訪れ、一緒にごはんを作って一緒に食べています。公民館のような税金で運営されている行政機関でもなく、カフェやレストランのような利益目的の商業サービスでもない、単純に都市のすべての人が集まれる場所。行われていることはこんなに普通で単純なことなのに、こんな場所には施設としての名前がありません。こうしてみると、「空き家」や「空き地」は、現代都市においてまさに「まだ制度化されていない、施設化されていない『なにか』が育まれる空間」なのだということがわかります。
■ 現代都市のアジール 

大谷とリンチの話に戻ると、彼らが指摘したものは、一言で言えば都市におけるアジールの重要性です。アジールとは一般的に統治権力の支配が及ばない、あるいはその影響が少ない空間のことで、中世の時代に夫からの暴力に苛まれた女性や貧困にあえぐ人々を匿い、食事や一時的な住居を提供していた駆け込み寺、所有者・管理者が曖昧だからこそ、さまざまなアクティビティが可能な河原や浜辺、誰でも商売ができる楽市楽座、あるいは堺など自治都市そのものもアジールの一例として挙げられます ※4。 このような空間は、近代化の過程で統治権力が解体・接収していきました。都市計画の文脈で言えば、空間の所有者と管理者を明確にし、機能を定め、それらを効率的に配置・接続することで都市を合理的に再構成し一元的に管理していくこと、それが都市の近代化だったわけです。しかし行き過ぎたゾーニングや投機による歴史的都市の無節操な再開発といった、近代都市計画の問題点が見え始めたとき、大谷とリンチは統治権力の計画主義や資本家の開発主義から逃れた(あるいはこぼれ落ちた)空間として、再び都市のアジールに目を向けたのではないでしょうか。
網野善彦らが再三指摘してきたように、アジールの重要な要素は「自治の精神」にあります。統治権力に頼らず、時に敵対し、時に協働しながら自らのアイディアや信念で必要な活動や空間をつくり、維持していくこと。そのような空間は近代化の過程で失われ、行政や商業の「サービス」で置き換えられていきました。しかし歴史を見れば明らかなように、自分たちで自分たちに必要な場所をつくるということは、そもそも人間に備わっている基本的な能力だったはずです。「日本の家」はまさに、この地域のアジール「駆け込み寺」となっています。国籍も宗教も関係なく、大学教授から難民やホームレスまで、どんな人でもとりあえずそこに行けば、ごはんが食べられ、文化やアートを楽しみ、他の人と繋がることができる。行政主導でも利益目的の商店でもなく、自分たちのために自分たちで場所をつくる。税収減によって行政サービスが先細り、グローバル資本の流入で経済的格差が広がるポスト近代の時代の都市には、「自治の精神」をもったアジールが都市の人々の生活に非常に重要な役割を果たすのではないでしょうか※5 。
■ ジェントリフィケーションと「あそび」のクオリティ

ただし、「空地」や「廃棄された場所」があれば、そこが自然とアジールになるというわけではありません。都市のアジールをつくり維持するには、お金のやりくりを含めたさまざまな仕組み、関わる人々のモチベーションと良好な人間関係、得意分野によった役割分担など、さまざまな要素が必要です。少しでもバランスが崩れると、「制度化されていない、施設化されていない」アジールは、いとも簡単に壊れてしまいます。
ライプツィヒは、2000年以降人口が増加し続けており、特に「日本の家」が立地するライプツィヒ東地域は2010年から2015年で人口が143%も増加しています。これは良い面と悪い面両方あります。良い面は多くの若者や移民、最近では難民が地域に入ってくることで、より多様な文化活動が生まれたり、立場が違う人々が関わりあったりお互いに助け合う機会が増えること。悪い面は、それまで不動産市場の「エアポケット」だった空間が市場価値をもつことで、家賃や売却価格の高騰が始まることです。市民らの活動が魅力の一つとなって人口が増加することで、皮肉にもその活動をしている人たちが追い出されてしまう、という典型的なジェントリフィケーションが起こっています。「日本の家」も2016年1月から家賃が2倍(!)になりました。営利目的でない私たちの活動にとって、この変化に対応するのはなかなか困難です。
ライプツィヒでは、「すべての人々のための都市(Stadt für Alle)」という団体が、「都市への権利」を理念にジェントリフィケーションに対抗すべく、政治家をまきこんで運動を展開しています。一方、アジールを「施設化」していく試みもあります。「ハウスプロジェクト」と呼ばれるこの仕組は、住民らが共同で出資して有限会社を立ち上げ、物件を購入することで、その物件が永久に不動産市場に流れないようにするというものです。「ハウスプロジェクト」はドイツの各都市で増加していて、ライプツィヒには10軒、これに類似したプロジェクトも含めると50〜60軒存在します ※6。
私たち「日本の家」が主に狙っているのは、地元行政との協働という路線です。2015年から毎年9月に東地域で「フリースペース・フェスティバル(Freiraum Festival)」という地元のお祭を行政と共に企画運営しています。これは地元に残る空き家や空き地と商店やイベントスペースを一日だけ開放し、その空間をつかって地元住民が展覧会、コンサート、子供のワークショップ、移民や難民向けのイベント、スポーツなどさまざまな試みをする日です。テーマとなっているフリースペースとは「市民が自分たちのやりたいことに合わせて自由に使える空間」であり、そういう空間が都市に残っていることで「さまざまなアイディアが実現でき、都市空間が魅力的なものになり、人々の生活が豊かになる」という仮説を、フェスティバルとワークショップを通して地元の人々と共に考え、実行してみようというものです。フェスティバルのパートナーであるライプツィヒ市の都市再生・住宅整備局は幸い私たちと共通するマインドをもっている部局で、彼らとの協働によって、「日本の家」だけでは届かない市の他の部局や空き家のオーナーにも「都市のフリースペース」の意義を訴えることができ、状況を好転させられるのではないかと思っています。
さまざまな価値観が混在し、時に意見や利害がぶつかり合う状態が本来の都市の姿です。私たちがジェントリフィケーションと向き合って試行錯誤していることも歴史的必然なのでしょう。ただ強調したいことは、「お金」だけが尺度では良いまちにはならないということです。儲かるかどうか(だけ)ではなく、楽しいかどうか、うきうきするかどうか、といった「あそび」の要素がまちにはとても大事です。「あそび」の要素があることで、人種・宗教・年齢、社会階層などに関わらず、多種多様な人が協働するきっかけを作ることが出来ます。これはプロによって追求される空間のクオリティや料理のクオリティとはちょっと違います。プロでない人たちが右往左往、四苦八苦しながら一緒になにか新しいことを始めるときには、体験して面白いと思えるような「あそび」のクオリティが重要なのです。これが「日本の家」の活動を通じて見えてきた、一番興味深いことでした。都市空間を私たちの手に取り戻すために大事なことは、私たち自身が都市でおもいっきり、そしてまじめに「あそぶ」ことなのです。
※1 大谷幸夫『空地の思想』北斗出版,1979
※2 K.リンチ、有岡孝訳『廃棄の文化誌』工作舎,1994。原著“Wasting Away“は1984年に亡くなったリンチの遺稿を弟子のM.サウスワースが編集し、1990年に米国で出版された。
※3 ハウスハルテンなど、ライプツィヒの空き家活用事例について詳しくはこちら。
※4 歴史学者の網野善彦は著書『無縁・公界・楽』で古代から近世の日本のアジールについて分析している。
※5 これを詳しく論じているのは地理学者のD.ハーヴェイで、近著『反乱する都市』では、「(非商品的)都市コモンズ」をキーワードにその可能性と課題点を分析している。
※6 「ハウスプロジェクト」について詳しくはこちら
今回は第一回の連載でご紹介した「ライプツィヒ『日本の家』」に集う人たちをインタビューでまったりと紹介していきます。

■ みやちゃん(アーティスト)
— いつからライプツィヒに?

2015年7月から「日本の家」の上の階に住みながら絵を描いています。「日本の家」で3回展示もしています。

— 今回の展示のテーマは?

「問い」です。なぜ生きているのか、なぜ火は燃えるのか、なぜごはんは美味しいのか、言葉にならないモヤモヤした問いを、絵を通して共有したいと思って。

— そのモヤモヤした問いは日常生活で感じるもの?

そうですね。人生や世界への不安とかもふくめて....

— それはこっち(ドイツ)に来て強く感じるようになった?

いや、もともと日本でもあったけれど、こっちに来てよりはっきり感じるようになりました。

— つまりドイツに来て「答え」が見えて来たのではなくて、「問い」がはっきり分かるようになって来たってことかな?

そうですそうです。
— どうして日本にいる時はそういう問いが見えてこなかったんだろう?

日本にいると忙しすぎて、あ、いや僕が忙しかったわけではないんですけど、忙しい雰囲気が充満しているんですよ。平日道を歩いているだけで「あの子何をやってんのかしら?」みたいな空気感があって。知らず知らずにそういうものの影響を受けて、大事なことを考えなくなっている。

— こっちはゆったりしてる?

こっちだと、まぁ「日本の家」周辺が特殊なのかもしれないけれど、「アーティスト」とか「プラプラしている人」がいっぱいいて、そういう人たちのよく分からないつながりで、まちが面白い方向に向かっているなと感じます。人と人の助け合いとか、つながりとか。そういうのって時間がある人がまちにいるからできるんだなって。行政の取り組みじゃ追いつかないようなことができているなって。

— 暇人は大事だってことだね。

そう暇人は偉大!(笑)

— みやちゃんは絵がかけるから、そういう部分でコミュニケーションしたいって気持ちがあるんでしょう?

そうですね。絵があれば「言葉がなくても伝わるんだ」ってことが、ドイツに来て本当に実感できました。ドイツ自体、言葉が通じない人がいまどんどん入ってくる状態で皆が生活しているから、とくにそういう力が大事だなって。

— ガボの絵がまさにそうだよね。

そうですね。ガボはルーマニアから来た労働者なんだけど、ここでは家がなくて大変な生活をしてる。言葉も通じないんだけど、一生懸命何かを伝えようとしてるところが本当にすごいなと。社会から見るといわゆるホームレスで、底辺の底辺のひどい生活なのかもしれないけど、かれはいつもすごいエネルギーを持っていて、僕も元気をもらえるなーと思って。悲しいことがたくさんあって昔はよく泣いていたって。でも最近は元気で良かったなと。

— 絵を描いてガボに見せたら泣いて喜んでたね。

うれしかったですね。
— それから最近描きためている「日本の家」の漫画もその一環だよね

そうそう。漫画なんて描いたことなかったけど、やってみたら意外と面白かったですね。ネタが尽きない(笑)

— ショーウィンドウに貼ってある漫画、通行人も結構ニヤニヤしながら見ているよね
実在の人が出てくるから、「これお前か?」みたいな感じで盛り上がれますね。そういう反応があると描く方としてもモチベーションになります。
みやちゃんの四コマ漫画「Japan in Leipzig」webで連載中
■ よく来る近所のおじさん(建築現場の労働者)
— 最近よく来ますよね?

この場所(「日本の家」)はマジで最高だぜ!仕事が終わったあとに来るんだ。俺は近くの村で生まれ育って、ライプツィヒには最近引っ越してきたばかりだけど、全然友だちがいなくて。でもここで本当にたくさん良い奴らと知り合えたよ。仕事場では全然友達ができなくて...

— どうして?

上司が「あそこへ行け」って言ったら命令に従って働くだけでさ。でもここに来るとめちゃくちゃリラックスできるよ。生きてるって感じられるのさ。ビールを飲みながら音楽を聞いて、皆と話して。とにかく良いところさ!
■ マサ(建築家)
— マサは何をしている人?

ライプツィヒで建築事務所に務めてます。

— 「日本の家」に関わることになったきっかけは?

グーグルで、「日本 建築 ドイツ」って入れたら、「日本の家」が出てきました。

— 「日本の家」はどんなところだと思ってた?

もっとしっかりしていると思ってました(笑)

— (笑)しっかりしてない?

いや、ゆるい。良い感じでゆるい。だから馴染めた。気を使わないし。大人の部室。

— 毎週来てくれているよね

うん、毎週。ご飯食べに来ています。

— 「日本の家」ってマサにとってはどんな場所?

うーん、ドイツを味わえる場所かな。すごくオープンな人が多い。ガボもその一人だし、ゲオとかアリとか。あとみのるも。

— 何をしている時が一番楽しい?

暖炉のまえに座ってリラックスしてる時かな。
■ レーザー(イランから来た男性)
— いつから「日本の家」に来るようになったの?

つい二ヶ月くらい前からだよ。

— 「日本の家」はレーザーにとってどんな場所?

僕はここで本当に良いなかまたちと出会ったよ。僕は「日本の家」の皆を愛してるよ(笑)

— そうだね、みんなも君を愛してるよ(笑)よく手伝ってくれているよね?

うん、たくさん手伝ったよ。

— ライプツィヒにはいつからいるの?

一年前から。

— その前は何をしていたの?

イランで勉強していた。電気電子の勉強。でもドイツで専門の技師として働くにはアウスビルドゥング(Ausbildung)っていう教育をもう一度受けないといけなくて、それは大変なんだ。特に僕みたいな外国人にはね。

— イランを去らなくてはならなかったのはどうして?

ドイツ語で説明するのは大変だけど、一言で言えば政治的な理由だよ。イランの政府と問題があって、難民としてドイツに来たんだ。

— ドイツでの生活は大変?

最初のうちは本当に大変だった。100%大変だった。でも「日本の家」でヒロやみのる、みやちゃんにあって、すごく楽になったよ。人とのつながりが一番大事なんだ。仕事をするといっぱいお金を貰えるかもしれないけど、お金があったとしても人とつながりがないと人生はすごく大変だ。ほかにも「日本の家」でスペインやインドやスウェーデンの人、今日はイスラエルの人と出会って友達になったよ。こんなふうに人と仲良くなるのはとっても楽しいし、これからの人生に大切なことなんだ。

— ドイツでこれから何がしたい?

自分の店を持ちたいんだ。ドイツで店を開くのは大変だけど、いろいろアイディアはあるよ。
■ ちーちゃん(交換留学生)
— ちーちゃんはドレスデンの大学に留学中だけど、どうして「日本の家」に関わるようになったの?

ドレスデンでも色んな所で「日本の家」の話を聞いて、面白そうだなと思って。

— でも毎週のようにわざわざドレスデンから手伝いに来てくれるよね。どうして?

暇だったのと、単純にすごく楽しいからですね。いろんな人と知り合えるし、自然といろんなことが起こるし。とくに「「ごはんのかい」」は楽しいですね。ごはん食べて、チェスやって、深夜には変な人が入って来て(笑)なかなか日本で普通に暮らしていると出会えない人たちと会えるので。

— もうすぐ日本に帰っちゃうんだよね。

そうなんですよー本当に寂しいです。

— 日本で何するの?

就職活動です。頑張ります。

— 就活かー...「日本の家」に関わる日本人、だれも就活したことない人たちだね(笑)

そうですね(笑)わたしが第一号になりますよ!

— ぜひ頑張ってください。でも本当に、僕は「アーティスト」とかだけじゃなくて、サラリーマンの人とかいわゆる「普通の」人たちも「日本の家」みたいな活動に参加してくれるようになることがすごく大事だと思ってるよ。

そうですよね。いろんな人が居たほうが絶対楽しい。普段仕事しながらでも、週末にはこういう場所にくるとか。絶対需要あると思うんですよね。それぞれの人がいろんな関わり方ができれば良いですよね。
■ ゲオーギ(グルジアからきたミュージシャン)
— ライプツィヒにはいつから住んでるの?

4年前から。2年前くらいに、あるジャムセッションでヒロと出会って、「日本の家」に来るようになったんだ。それからよく「日本の家」でジャズのスタンダードを練習しているよ。

— ゲオにとって「日本の家」はどんなところ?

とても落ち着く、自分の家みたいなところかな。他の場所と違うところは、この空間に入った時にすごく歓迎されていると感じるところだね。すぐに皆と仲良くなれる雰囲気を持っている。僕の人間関係も「日本の家」のおかげで大きくなった。いつでもとってもポジティブなエネルギーを感じるよ。

— 「「ごはんのかい」」をよく手伝ってくれているよね

「「ごはんのかい」」は本当にすごいよ。人の関係がお金の関係じゃないところがすごく特別だと思う。「仕事」として関わっているのではなくて、皆が友達として会を運営している。それが良いんだよね。レストランとは全然違う。
— 「日本の家」でも時々ジャムセッションをやっているよね

そうだね。僕もライプツィヒに来て初めてジャムセッションをやるようになったんだけど、すごく面白い。集まる人がそれぞれ楽器を持って来て、その場で、即興で音楽を奏でていくんだ。楽譜なんかない。その場の空気やノリがそのまま音楽になるんだ。ものすごくエキサイティングだよ。

— ライプツィヒのジャムセッションが特に面白いのは、国籍も文化も様々な人たちが集まって一緒に即興していることだと思うんだけど

その通り。文化もさまざまだし、音楽のスタイルやスキルもさまざま。だから面白いんだ。たとえばヒロはジャズが基本だけど、時々日本的な音が飛び出してくる。アリはイランとかアラブの音楽の影響があるし、パコはスペイン、ラテン、僕はグルジア。僕らはそれぞれぜんぜん違う言語を喋っているけど、音楽という言語は同じなんだ。文字通り僕らは音楽で会話しているんだよ。
■ すーさん(社会学の先生)
— すーさんは何の先生ですか?

日本の大学で社会学を教えています。いまはサバティカル(研究休暇)で「日本の家」に一年間滞在しています。

— なんで「日本の家」に?

ずっとドイツには来たくて、たまたま縁があったのが「日本の家」だったので。良い暮らしをさせてもらっていますよ。

— ここでの生活はどうですか?

想像していたより楽しいねー。ドイツに来たらもっと一人でいる時間が長いと思っていたんだけれど、研究ってだいたい一人でやるものだったし。でもこうして交流したり、人を見ながら研究するのも悪くないなと。

— ここでの経験は自身の研究分野とつながるところがありますか?

あるよね。社会学では相互依存関係とかっていうけど、人間が接し合うことで影響を与え合って何かができていくというところのプロセスを見たりするので、「あー、現場を見ている」って感じがします。

— そういうことって見えづらいものですか?

そう、中に入って行かないと分からないよね。一回見ただけとか、「ごはんのかい」に来るだけじゃ絶対分からないし、ちょっとやそっとのヒアリングだけでも分からない。「カモの水かき」じゃないけど、一見優雅に水面をすいすい進んでいるように見えても、実は水中ですごくもがいている。そのもがいているというか、みんなの頑張りがよく見れるなと。
— ごはんを作ったりペンキ塗ったり、もうすーさんも完全にメンバーの一人ですもんね。

いやいや(笑)でも中で生活して分かることはたくさんあるね。「日本の家」をどうやって作っていこうか、どうやって維持していこうかっていうマジメな話をしているけど、実はそのモチベーションとなっているのが「バンドの練習したい」とか「チェスをやりたい」っていうすごく個人的なことだったりする。家賃値上げに対して、ただ「頑張ろう」だけじゃ頑張れなくて、その場所に関わる人たちの思い、例えば「いつでもチェスができる場所を維持したい!」っていうような(笑)そういう具体性が無いと場所は残らないんですよね。
— 理念だけで場所は維持できないってことですね。

そうそう。ルールとか制度も同じで、それに関わる人たちの話し合いや関わり合いの上で出来て来るものだし、だからこそ意味があるものなんだよね。「日本の家」を、市の空き家再生政策とかそういう観点だけで見るのは全然意味がなくて、その中でどんな人がどんな接触をすることで場所が作られ、維持されているのかっていうところが大事なんですよ。ドイツと日本は全然違うって言われるけれど、確かに制度や舞台装置だけ見れば違うけれど、場所が出来ていく原理は本質的には違わない。「日本の家」を見ているとその普遍性がよく分かります。
■ アミール(アフガニスタンから来た男の子)
— いつからライプツィヒにいるの?

一ヶ月前に来たばかりだよ。

— いま、いくつ?

15歳。

— 15歳!そっか。アフガニスタンからは一人できたのかい?

うん、一人で来た。

— 大変だっただろうね。

そうだね。大変だった。ここまで来るのに一ヶ月半かかったよ。アフガニスタンからイランまで8時間歩きっぱなしだった。それからイランからトルコに抜ける国境では19時間歩いたよ。正式には国境を超えられないから、草むらの中を歩くしか無かったんだ。トルコからはバスや電車が使えたんだけど。

— そうなんだ....怖かった?

うん、いろいろと危険なことがあったよ。特にトルコからギリシャまではボートに乗って来たんだけど、天気が悪くて波が高くて....怖かった。小さなボートに50人も乗っていたし。

— 今後もドイツに住む予定なのかな?

そうしたいんだけど、まだどうなるのか分からないんだ。でもここで勉強したいと思っているよ。

— 英語が上手だね。ドイツ語もきっとすぐ上達するよ。

英語はアフガニスタンで習ったからね。大好きな教科の一つだったよ。

— それで、どうやって「日本の家」を知ったの?

僕らはすぐ近くに住んでいて、友達が「日本の家」で毎週土曜日に「ごはんのかい」があるよって誘ってくれたんだ。

— 一緒に料理してみてどうだった?

すごく楽しくて幸せだったよ!これなら毎週来たい。ここが面白いのは、本当にさまざまな国から来たさまざまな文化を持った人たちが集まっていて、知り合うことができるのがとても楽しい。他ではこんな場所見たこと無いよ。
— よく自分でも料理をはするの?

いいや、全然したことなかったよ。これも新しい経験。

— いまはどんなところに住んでいるの?

アフガニスタンから来る途中、アテネで知り合った人たちと一緒に住んでいるよ。住み心地は良い感じ。

— 毎日何をして過ごしているの?

土曜日は「日本の家」に来るけど、他の日は特にまだやることがないんだ。まだ着いたばかりだから。来週からはドイツ語コースが始まるから、ドイツ語を勉強する予定だよ。

— そうなんだ、「日本の家」でもドイツ語であそぼうっていう会を来月から始める予定だよ。ぜひ参加して、というか良かったら運営を手伝ってほしいな。

そうなんだ、うん、もちろん!喜んで。
■ みのる(旅人)
— なぜライプツィヒに?

2015年の2月にワーキングホリデーで来たんですけど、ドイツ人の友達に「ドイツで一番変な街はどこだ?」って聞いたらライプツィヒだよって言われて、それで来てみたら本当に変な人が多くて(笑)それで居着いてます。

— 「日本の家」はどうやって見つけたの?

最初タンデムパートナーを探していて、インターネットで「ライプツィヒ・日本」で調べたら出てきて、来てみたら悠さんとヒロさんと出会って、「何もすることがないならぜひ手伝ってよ!」って言われて。それからずっと関わってます。

— もはやみのる無しでは「日本の家」は立ち行かないよね。

いやぁ本当にお世話になっているので。恩返ししたいです。

— いやいや(笑)しかしみのるは本当に世界中を旅行しているんだよね。

そうですね。学生時代からアジア、ヨーロッパ、中南米を周って、大学卒業してから一年間オーストラリアでワーキングホリデーをして。それからカナダにワーキングホリデーをして、それからドイツに来ました。

— なんで旅が好きなの?

面白い人に会いたいっていうのが一番の理由です。基本的に同じ場所にずっといることは無かったんだけど、「日本の家」に来て、ここにいると移動しなくてもいろんな人と出会えるから、それで楽しくてずっとここに居ます。
— みのるのすごいところは、初対面の人とでもスッと自然に仲良くなれるとこだよね。やっぱり旅人の経験?

最初は人見知りだったんです。でも人には興味があって、一人で旅行することでだんだん話すことに慣れていきました。でもここでヒロさんと出会って、あのコミュニケーション能力は本当にすごいなと。「日本の家」に一人で来る人も多いですけど、ヒロさんは絶対そういう人にも話しかけて仲良くなって。だから一人でもフラッと来れるようになる人も多いんですよね。そういうのは素晴らしいと思います。

— そうだね、僕も「日本の家」ってみのるやヒロみたいな人がいるから、そのおかげでこれだけいろんな人が来るようになったんだと思うよ。「ごはんのかい」も毎回違う人が来るしね。

「ごはんのかい」は特に自然と話す機会が多いですよね。一緒に料理したり、一緒に食べたり。人と人の距離が近くて。すごく理想的だと思います。僕ずっとこういう場所を作りたいなと思っていたんです。喫茶店かホステルが良いかなと思っていたんですけど、でもこういう寄付で成り立つ場所の作り方もあるんだなって。お金を持っていなくても誰でも来られるじゃないですか。別に寄付をしてるかチェックをするわけでもないので。誰でも来られて面白い人に会えて、お金もあんまりいらない場所ってこういう作り方があるんだなって。日本でもぜひこういう場所を作りたいです。
— いろんな人が集まるようになったよね。アラブ系の人も最近よく来るようになったし。難民の子たちとかも。

そうですね、一回来てくれると次は友達を連れて来てくれて、だんだん輪が広がっていますね。難民のこととか、ニュースではなんとなく知っていたことも、実際に体験している人から話を聞くのとでは全然違いますね。十代の男の子たちで、話したり遊んだりしている分には本当に普通の中学生くらいの子どもたちなんだけど、ふと話に出てくるエピソードがすごく重くて。同じ時代にこんな人たちがいるんだなって。どうやってドイツまで来たのかとか、山の中で寝た話とか。殆どの子たちが家族と別れて一人で来ていて、自分の十代の頃と比べてもやっぱ大人に見えますね。

— 「日本の家」はどんなことができるかな

前に悠さんが言ってたように、ドイツの人たちは難民の子たちとどう付き合っていいか分からないし、難民の子たちもどうやってドイツ社会とつながっていけばいいのか分からないって時に、「日本」ってある意味完全な第三者なので、二つをつなぐ良い接着剤になれるんじゃないかって思いますね。「日本の家」は実際そうなっていますし。例えば料理をしている時、国を意識することって少ないから、先入観に捉われずに付き合えるようになってますよ。

— 一緒に作業するって大事だよね
はい。一緒に料理して一緒に食べて一緒に皿洗う、共同作業が自発的に起こる感じって、すごく自然だし、理想的な友達の作り方だと思います。ちょっとしたコミュニケーションが自然に起こるっていうか。
— たまり場の作り方が大事ってことだね

そうですね。学生時代は部室とか研究室とか、単に人が集まって話せる場所があったんですけど、大人になるとそういう場所がなくなっていきますよね。喫茶店とかはあるけど、お客さんと店員っていうお金の関係になっちゃうし。ここはビジネス臭さもないし、空間的にも窓が大きくてオープンなんで、フラッと立ち寄って話ができる。そういう場所ってなかなか無いですよね。

— ライプツィヒって家賃も安いし、こういう場所が他にもあるよね

すごく豊かなことだと思います。

— お金を介さない人間関係って、本当は当たり前のことなのにね。

この前、悠さんが言ってましたけど、生きていく上で必要なモノってなんだろうって考えた時に、食べ物と住む場所と友達なんじゃないかって。僕はよく「日本の家」に泊まらせてもらっていて、食べ物もあるし、友達も来るし、あ、ここに来れば全部あるじゃないか!って(笑)

— (笑)そう、実はこのプロジェクトって僕ら自身のためにやってる部分が凄く大きいよね。実は。「社会のため」はもちろん最終的にそうなったらいいんだけど、まず僕らのためじゃん。

本当にそうですね。みんな別に強制されて来るわけでもなくて、来たくて来てるわけじゃないですか。その差は大きいと思います。僕、いま仕事もしてないし学校も行ってないんですけど....

— ....ニートだね(笑)

そうです(笑)外国でニートやってるという(笑)でも本当にこういう場所を日本でも作りたいので、すごく良い経験をさせてもらってます。特に皆でアイディアを出し合って、こうしたらもっと人が来るんじゃないかとか、こうすればもっと良くなるとか。手作りのプロジェクトに参加出来てる感じがあって。それがすごく楽しいです。

(聞き手:大谷 悠)
■ 窮屈で退屈な公共空間

近年、公共空間の使いづらさや問題点が指摘されています。禁止事項だらけの公園や、「安全性」を担保するために遊具が撤去された遊び場、誰のために整備されたのか分からないような遊歩道やオブジェクトなど、「なんか変な公共空間」として思い浮かぶものは数多くあります。まちなかは広告のディスプレーと広告の音楽で溢れている一方で、露天やフリーマーケット、パフォーマンスなどは規制され、市民が行う路上ライブの歌声が聴けないというのも、公共空間を市民の税金で整備していることを考えれば変な話です。

都市空間、特に公共空間が退屈で窮屈であるということは、都市に住む全ての人々の生活にとって致命的な損失です。しかし公共空間を「つくる=設計する」のは一部の人々に任されていて、一般市民である私たちはなかなか関わりようがありません。近年公園づくりワークショップや遊び場づくりワークショップなどが行われていますが、実際ははじめから「落とし所」が決められていて、行政とコンサルが書いたシナリオに市民を立ち会わせて了承を得た体にするためのものになりがちであり、名前だけの「市民参加」という印象が拭えません。建築家の馬場正尊が著書『Re:PUBLIC – 公共空間のリノベーション』(2013)で、

「公共空間は、行政が管理する空間のことではなく、より開かれた使い手のためにある空間のはず。それが混同されていることが問題である」

と端的に指摘しているように、もっと直接的に、使い手である私たち市民・住民が都市の公共空間を豊かにするにはどうすればいいのでしょうか。2013年に北九州市小倉で行われた「風雲!小倉城」は、まさにこのことをテーマとしたアクションでした。


■ 決行!「風雲!小倉城」

「風雲!小倉城」は北九州リノベーションスクールの「公共空間活用コース」として開催されました。このスクールは2011年夏に「空き家などの空間資源を活用し、地域の諸問題を解決する」ことを目的として始まったもので、福岡県北九州市で年に2回のペースで行われています。2014年春に初めて「公共空間活用コース」が設けられ、市内の公共空間をいかに魅力的に活用できるかということを考え、実行するという課題が課せられました。企画・運営を任された私たちライプツィヒ「日本の家」が出した答えが「風雲!小倉城」だったのです。
▶「小倉城」を攻め落とす!

「風雲!小倉城」は2014年の3月21日と22日の二日間にわたって行われました。その1日目に行われたのが「城攻め体験!大運動会」でした。
小倉城は小倉のまちの真ん中にある、小倉を代表する公共空間です。春には花見客が集い、観光客や地元の人々がのんびり散歩しているような平和な場所です。しかし歴史的には九州の武士たちが築き上げた要塞であり、幕末には高杉晋作率いる奇兵隊と幕府軍の戦いの舞台にもなった「戦いのための空間」でもあります。そびえ立つ石垣、鉄砲狭間、大手門から続く急斜面、攻め手を迎え撃つための高台などがそのまま残り、戦いのために合理的に設計された空間であることが今でもよくわかります。
鉄砲狭間からパラシュートを発射し、子どもたちがキャッチする
「城攻め体験!大運動会」の目的は、教科書や展示を見ているだけではわからない「戦いのための空間」という小倉城本来の性質を、子どもたちに「城攻め」を通じて体験してもらうことでした。鉄砲狭間から発射された「うまい棒」つきのパラシュートを受け止め、急斜面を大玉を転がしながら駆け上がり、死角に潜む忍者をかわしながら進むと、その先の高台には忍者の化物が口を開けて待ち受けている….という具合に、5つのステージが用意され、最後に忍者に囚われていた小倉城のマスコット「とらっちゃ」を助け出して小倉城を無事取り戻す、というストーリーでした。
photo: Naoto Kakigami
当日は70人ほどの子どもたちが集まり、次々に現れるステージに大興奮しながら挑みました。参加した女の子が地元テレビのインタビューに「お城にはよく来ていたけど、こんな風に楽しめるならまた来たい!」と話してくれたのがとても印象的でした。
地元テレビ局のインタビューに応える参加者の女の子
▶「まちなか」でRPGをやってみる!

2日目に行われたのが「まちなか体験!リアルRPG」でした。RPGとは「ロール(役を)・プレイング(演じる)・ゲーム」の略で、ドラクエなどのテレビゲームを思い出す人が多いと思います。これを実際のまちなかでやってみたらどうなるだろう、というアイディアから「まちなか体験!リアルRPG」が生まれました。小倉のまちは中世の城下町の構造を今に残し、名所や文化施設、商店街などがギュッとコンパクトにつまっていて、歩いて見て回るのが楽しい、まさにリアルRPGにうってつけのまちなのです。
リアルRPGのマップ
当日は家族層を中心に約70人の参加者たちが地図を頼りに小倉のまちを歩きまわり、5箇所に仕掛けられたミッションに挑戦し、そのあと小倉城の最終ミッションに挑むことで「全クリア」を目指しました。各ミッションはシーボルト、ザビエル、森鴎外、松本清張といった小倉ゆかりの偉人たちと小倉に関するエピソードが関連付けられていています。例えば松本清張がよく買い物にきていたという旦過市場には、「現代に迷い込んだ清張を市場に隠されたヒントをもとに探しだそう!」というミッションが、200年前にシーボルトが渡った常盤橋では、「現代の小倉図鑑を編纂するシーボルトを手伝おう!」というミッションが仕掛けられました。
photo: Naoto Kakigami
ある参加者の方は「長らく小倉に住んでいますが、ここが『長崎街道』という歴史ある道だったと始めて知りました。」とおっしゃっていました。このコメントが象徴するように、参加者の方々は普段何気なく通り過ぎているまちにもたくさんの歴史的なエピソードがあったり、知らない道があったりすることを新たに発見することができたのです。
旦過市場で松本清張の大好物を探すミッション。小倉の名物「カナッペ」がよく売れた.
■ 「空間」と「人のつながり」というまちの資源

このように、「風雲!小倉城」は2日間で参加者合計150人ほどの小さなイベントではありましたが、小倉ならではのオリジナリティをもった内容であり、参加してくださった方々に小倉の歴史と文化を身近に感じてもらい、まちに興味を持ってもらうことに成功しました。特に「まちをつかって遊びまくる」という点にインパクトがあったようで、地元テレビやラジオにも取り上げていただきました。この試みが成功した背景には、「空間」と「人のつながり」という2つの地元の「資源」がありました。
「空間」:まちの歴史は、資料館や教科書で知識として勉強することが多いものです。しかしまちを丁寧に観察してみると、そこには歴史や文化を表す空間的特徴が必ず残されています。「風雲!小倉城」では、現在に残る都市の空間的な特徴を読み解き、それを人々にわかりやすく体験してもらうという点を大切にしました。
お城の空間が「戦いのため」の空間として設計されていること、戦災を免れた市場の空間が迷路のように入り組んでいること、高度成長期に計画された道路開発が人口減少期の今でもなぜか続いていて、歴史ある街道沿いがアスファルト・ジャングルに変わりつつあることなど、その視点は様々で時に批判的です。こういったまちの特徴や変化に対し、空間的なイベントを仕掛けることで、歴史・文化・都市問題などを文字通り体で感じてもらうことを目指しました。
これは特に、まちの将来を担う子どもたちにとって重要です。まちの歴史を、体を使って汗をかいて体験することは、本やスマホで得た知識よりも子どもたちに染み込み、創造的な思考を養う大切な糧になるのです。
城攻めのリハーサル風景。自分たちでやってみながら大玉を転がすタイミングやルールを決めていった。
「人のつながり」:リノベーションスクールを運営しているのは北九州家守舎という地元の建築家、起業家、研究者らがチームを組んで起こした地元企業です。家守舎は北九州市をはじめ、地元のまちづくり会社、商店会、住民団体、不動産オーナーなど非常に幅広いネットワークを地元に形成しています。この公私入り乱れる人的なネットワークがあったからこそ、従来行政が縦割りで管理してきた公共空間で「風雲!小倉城」のような挑戦的なイベントが可能となりました。特にお城は小倉のシンボルであり、今までなかなか思い切った使われ方はされてきませんでした。しかし小倉城の指定管理をしていたまちづくりNPOの方と家守舎の建築家の方の個人的な信頼関係が起点となり、このようなイベントが実現しました。
リノベーションスクールを通じて、地元でめっぽう顔の効く「キーパーソン」と巡り会えたことも大きな幸運でした。使用許可をもらう際や、材料集めや人集めの際、地元のネットワークにアクセスできることはとても重要でした。
「公共空間活用コース」のメンバー。家守舎、地元のまちづくりNPO、行政職員、建築家、学生、会社員、自営業などが集まり、うち小倉在住・出身者が約半数だった。
■ 素人が仕掛けた公共空間のお祭り

このイベントの最もチャレンジングな点は、外から有名な芸術家を呼んだわけでもなく、イベント業者がいたわけでもなく、大手のスポンサーもなしに芸術祭をやったという点です。限られた予算内で自分たちで考え、やりくりしなくてはなりませんでした。しかしだからこそ、その場にあるものを使って必要な物を新たにつくりだすクリエイティビティが生まれたのです。
のぼりを作成中。文字も手描きで書いていった。
作業場となった元デパートやその近所の空きビルにあったモノ、拾ってきたりもらったモノなどをあつめ、ダンボール、新聞紙、ビニール、木材、生地などを組み合わせ、なるべく新品を買わずに、のぼり、ハチマキ、パラシュートと発射装置、巨大忍者のハリボテ、刀からはんこに至るまで必要なモノを作っていきました。忍者や袴、着物などの衣装も家守舎や関係者のネットワークで各所から借りることができ、大玉や玉入れの玉などは地元の小学校から借りてきました。元学校の先生に文字をお願いしたり、以前ゼネコンに勤めていた人が率先してハリボテを作ったり、作業場の隣の焼き鳥屋さんが着付け役をかって出てくれたりと、こちらも地元の人々のネットワークによって準備が進んでいきました。
忍者の親玉を作成中。口が「パクパク」するように工夫した。
また忍者、侍、町娘などの「役者」を担ったのも受講生とサポートスタッフたちでした。彼らは、行政職員、学生、商店主、サラリーマンなどで、ひとりとして演劇のプロはいません。ほぼ全員が経験ゼロのことで、最初は少し恥ずかしがっていましたが、一度コスチュームを身にまとい、まちに繰り出すと段々と役になりきっていくもの。特にイベントの宣伝のためにちんどん屋風にまちを練り歩いたときにはいつの間にかオリジナルの曲まで出来上っていました。衣装や音楽によって、普段の自分という殻を破り、タガが外れて役にのめりこんでいったのです。
photo: Naoto Kakigami
このように、芸術祭といっても仕掛ける側・作る側の主体となったのが、地元の商店主、行政職員、学生や若者など、あくまで一般市民の人々、いわば「素人」だったことが「風雲!小倉城」の最大の特徴でした。久しぶりに手を動かしてモノを作ることや、いつもとは違う「人格」でまちに繰り出すことで、「あ、自分たちにもこんなことが出来るんだ!」と仕掛ける側・作る側の人々がポジティブに変わっていったのです。
■公共空間で「あそびまわる」ことから始まること

イベント終了後、普段は小倉の商店街で働いている受講生の一人が、「文化祭をやっているみたいで本当に楽しかったです!」と興奮冷めやらぬ様子でおっしゃっていたとおり、まさに「風雲!小倉城」は、仕掛けを考え、作り、演じるということを全部自分たちでやってみる、という「大人が真剣に取り組んだ文化祭」でした。このような経験は「自分のまちは自分で変えられるんだ」という確信を生み、様々なかたちで人々がまちに参加する契機となっていきます。
実際に、このイベントをきっかけとして集まった地元市民の何名かは、その後のリノベーションスクール「公共空間活用コース」にも参加していて、商店主や行政職員からなるまちのイベントを担う市民のネットワークを形成しています。またあるサポートスタッフの方は、イベント後に夢だった移動式カフェの活動を始め、今では小倉を始めとした様々なイベントに参加してこだわりのコーヒーを振舞っています。かれらは『風雲!小倉城』の成功体験をきっかけに、まちに関わることの楽しさに気づき、自ら実践を始めているのです。
「公共空間で存分にあそびまわること」が子どもたちにとって貴重な体験になることはもちろんのこと、仕掛けをつくる大人たちにとっても「まちづくり」や「地元のお祭り」に改めてコミットするきっかけとなる、そんなことを「風雲!小倉城」は示しているのです。
結局このお祭りを一番楽しんだのは、仕掛ける側のメンバーだったのかもしれない。
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■産業遺産と「社会的問いかけの力」

2015 年7月、長崎県端島炭鉱、通称軍艦島を含む「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」がユネスコの世界遺産として登録され、大きな話題になりました。その少し前の5月に私は軍艦島を訪れました。国内初の鉄筋コンクリート住宅や、島を覆い尽くした無機質な建物群に人が暮らしていた有機的な構造が垣間見えた点など、非常に感銘を受けた一方で、大きな違和感も感じました。それは軍艦島自体にではなく、軍艦島の「見せ方」に対してです。
フェリーの船内や軍艦島上陸中も当時の写真や資料が適宜提示され、軍艦島がどのようなものだったのか説明がありました。しかしそれは「日本の近代化にいかに貢献したか」「採炭技術がいかに高かったか」「島の暮らしがいかに近代的だったか」というような、いかにも聞こえの良い上辺だけの情報ばかり。折しも軍艦島において強制労働があったのではないかとの議論が活発になされていた頃です。その議論に直接言及する必要があるか否かは置いたとしても、少なくともこの島の採炭業が国策として作られ、様々な人間たちが入り混じり合いながら生活していたこと、どのような労働・生活環境で、どのような喜びと苦しみをもって人々が生活していたのか、というような生々しい記憶とのコンタクトは一切なく、単に「日本の誇り」あるいは「ノスタルジックで美しい廃墟」といった文句で覆い尽くされていました。
言うまでもなく、国策として進められてきた産業化・近代化は常に光と闇を抱えてきました。日本の近代化が軍艦島の歴史抜きでは語れないというのであれば、日本の近代化が抱えている矛盾や問題点も軍艦島に凝縮しているはずです。だからこそ「近代化遺産」として軍艦島を残す意味があるのではないでしょうか。産業遺産は、近代化の歴史を紐解き、先人たちの成果と過ちから学び、ひいては今の私たちの社会と暮らしを見つめなおすためにあります。決して他の誰かに自慢するためのものではありません。
軍艦島
社会学者の荻野昌弘は著書『文化遺産の社会学』のなかで、工場跡地や炭鉱跡地といった空間が文化的な価値を認められて綺麗に保存される過程で、過去の社会的な葛藤や負の歴史が覆い隠され、本来これらの空間が持っていた「社会的問いかけの力」が失われることを指摘しています。「軍艦島を世界遺産へ!」を掛け声とした官・民・地元の「一致団結」が覆い隠してしまったのは、まさに軍艦島の「社会的問いかけの力」なのです。
産業遺産から「社会的問いかけの力」を引き出し、人々と共有し、現在の暮らしとその地域の未来を考えるきっかけとするには、具体的にどんな方法があるのでしょうか。私が渡独するきっかけとなった、ドイツの旧産炭地域ラオジッツ地方で行われていた活動は、まさにこの点に注目したものでした。
■ラオジッツ地方とIBA(国際建築展覧会)
ラオジッツの位置
ラオジッツという地方名を知っている人は少ないでしょう。ドイツの東部、ブランデンブルグ州南部からザクセン州東部にかけて広がる地域で、一部ポーランドを含む旧東ドイツに属していた地域です。ゾルブ人というスラブ系の人々が居住し、深い森と小さな村が点在した「クラバート」に代表される多くのお伽話の舞台だったこの地域に、1000 年ごろからドイツ系の人々が入植してきました。その後の近代化によって、この地域の様相は一変しました。古くからラオジッツには「燃える石」が埋まっていることで有名でしたが、この燃える石=褐炭が近代化を急ぐドイツにとって重要なエネルギー源であると認識され、19 世紀末以降、褐炭の露天掘りと発電所などの周辺施設が開発されていきました。人口が急増し、労働者のための住宅や公共施設、娯楽施設が次々と建設され、ラオジッツ地方はドイツ東部の重要な重工業地帯へと成長しました。
産業が興隆していた頃のラオジッツ地方のまち並み (c) IBA See
一方で広大な褐炭の露天掘りはその地域の環境と社会に対して大きな負荷を与えます。「神がラオジッツを創り、悪魔が褐炭を埋めた」というゾルブ人のことわざが示す通り、この地域に古くから住むゾルブ人たちを中心に、住民たちは炭鉱開発のため住み慣れた故郷を追われたり、粉塵や大気汚染などの健康被害に悩まされてきました。第二次世界大戦が終わり東ドイツに組み込まれると、東ドイツの経済成長を支えるため、炭鉱開発はピークを迎えます。しかし90 年に東西ドイツが統一すると、基幹産業だった褐炭産業は西側との競争に敗れ一気に衰退し、ラオジッツは瞬く間にドイツでもっとも衰退の激しい地域となりました。労働者は失業者となり、公共施設は次々と閉鎖され、若者は教育や仕事を求めて故郷を離れ、少子高齢化が進み、現在でも人口の減少に歯止めがかかっていません。空き家の目立つ街を通り過ぎると、褐炭の露天掘りが途中で放棄され、荒涼とした砂漠地帯が延々と続く風景が現れます。これが現在のラオジッツの典型的な風景です。
露天掘り跡地
この衰退地域になんとか未来の展望を開こうと2000 年にスタートしたのが、International Bauausstellung (略称IBA)でした。IBA は「国際建築展覧会」であり、もともとはドイツ国内の都市や地域が新たな都市開発モデルを示し、実際に建てて実現することを目的としたもので、1901 年にダルムシュタットで開催されたのが始まりです。1990 年代以降は、ルール工業地帯、ザクセン=アンハルト州、ハンブルグなどで、産業転換や人口減少、空き家問題などを抱える地域を再生する糸口をつかむため、10 年ほどの期間をとって都市・地域の再生プランを立案し、実際に実現することを目的に開催されています。IBA の運営はその地域の行政が出資する株式会社によって行われ、連邦政府やEU の助成金を得ながら行われます。ラオジッツ地方では2000 年から2010 年の間にIBA が開催され、褐炭の露天掘り跡地を湖として再開発する計画や、産業遺産の保全改修などが行われました。


■失われたまちの同窓会とユルグ・モンタルタ氏

そのIBA の先進的な取り組みの一つが、露天掘り跡地に人々を招き入れ、その「過渡的な状態の風景」を人々に体感してもらうというものでした。露天掘りの跡地は、地下水と雨水をうまくマネージメントすると谷底に水がたまり、湖に生まれ変わります。しかしそのプロセスには10 年〜20 年ほどの時間がかかり、その間の風景はまるで広大な砂漠のどまんなかに水たまりができているという特別なものになります。その風景を楽しんでもらおうと、元炭鉱夫が露天掘り跡地を案内し、谷底でランチを頂くというウォーキングツアーや、ジープツアーがIBA によって行われていました。
ウォーキングツアー。谷底でランチを楽しむ参加者たち。
2003 年、「過渡的な風景ツアー」にたまたま参加したスイス人舞台監督のユルグ・モンタルタ氏は、ここで衝撃的な体験をします。グロースレーシェンという、小さな元炭鉱都市の露天掘り跡地で行われたウォーキングツアーには、ベルリンからやってきた好奇心旺盛な若者、元炭鉱夫、地元の人々など様々な人が参加していました。炭鉱夫は「このあたりで、毎日何万トンもの石炭を掘り出していたんだ!」と自慢気に語りながらツアーを進めていったといいます。そのとき突然、ある女性がはたと立ち止まり、「このあたりに私の学校がありました」と語りだしたそうです。楽しかったまちでの生活が、採掘による強制移住で一変してしまった、と話す彼女の目には、涙が溜まっていました。モンタルタ氏は、そこでグロースレーシェンの歴史の一面を知るとともに、露天掘り跡地には「労働者の誇り」と「今はなき故郷」という相反する視点が存在し、人々の想いが激しく交錯する空間であることを実感します。
このことに心打たれたモンタルタ氏は、IBA とグロースレーシェンの住人に対し「露天掘りのために失われてしまったまちの住人を、改めて谷底に集めてそれぞれの歴史を語ってもらう」という企画を提案し、2003 年10 月に実現しました。「全てを失った—全てを得た?」と題されたこのプロジェクトは、炭鉱夫、工場労働者、教師、主婦、神父など17 人の人々が自らの経験を観客に語るというもので、まるで失われたまちの同窓会でした。
「全てを失った—全てを得た?」立っている男性が思い出を語っている。(c) IBA See
準備段階で、はじめは過去を振り返ることをためらっていた住民たちですが、モンタルタ氏と発表の内容を組み立てているうちに、おさえていた感情が爆発し、堰を切ったように自分の体験を語りだしたと言います。モンタルタ氏はその人の体験の一番重要な点を制限時間10 分で効果的に話せるように原稿を一緒に考え、アドバイスしていきました。「露天掘り跡地が湖となり、風景が美しく回復したとしても、故郷を失い、仕事を失い、自尊心を失った人々の心を癒やすのは簡単ではありません。感情や経験を他者に語ることで共有するところから、アイデンティティや自尊心が回復するのです。」とモンタルタ氏が語るように、このプロジェクトの本質は「住民の心のケア」にあったのです。
実際にかつてまちがあった場所で行われた。(c) IBA See
特筆すべきは、これが実際の露天掘り跡地の空間を利用して行われたことです。10 分の1 の街の外形が谷底に描かれ、それぞれが住んでいた場所にそのとき使っていた家具を持って来て円形に座って話をするというシンプルな空間的しつらえですが、谷底の荒涼とした風景を「舞台」とすることで、「演者」となった人々の活き活きとした経験談とのギャップが、産業化・近代化に振り回された彼らの体験を効果的に演出しました。「谷底の同窓会」というプロジェクトを行うことで、露天掘り跡地が「社会的問いかけの場」となったのです。
白い線がかつての道を示している。(c) IBA See
■元工業都市にパラダイスをつくりだす — パラダイス・プレッサ

「失われたまちの同窓会」プロジェクトが成功に終わると、IBA とモンタルタ氏は次なる取り組みに着手します。それが2010 年のIBA 最後の年に行われた「パラダイス2 」です。これはラオジッツ地方の7ヶ所の都市・村でそれぞれの住民がそれぞれの都市空間を用いて芸術祭を行うというものでした。筆者は「失われたまちの同窓会」プロジェクトとモンタルタ氏の活動に非常に興味をもち、2010 年の5月に大学院修了とともにドイツに渡り一年間IBAで研修を行い、「パラダイス2」に参加しました。筆者が企画運営に参加した「パラダイス・プレッサ」についてここで紹介します。
プレッサはラオジッツ地方の北に位置する、人口3000 人ほどのとても小さな都市です。この街には、現存するヨーロッパ最古の褐炭発電所が遺産として残されています。50 才以上の住人の多くは、かつて発電所を始めとした褐炭産業に従事しており、現在では失業者となっています。若者は故郷をあとにし、高齢化が進み、空き家が増え、20 年ほどで見る影もなく衰退していきました。
プレッサの風景。街のどこからでも発電所の煙突がみえる。
「この街に、もう一度『パラダイス』をつくろう」、それがモンタルタ氏の最初のアイディアでした。かつて産業が栄え、たくさんの労働者たちが集い、繁栄を謳歌していた時代はもう戻ってきません。しかしプレッサに残された空間を使って、もう一度、一日だけ、この街でしかできない豊かなお祭りを作ろうという企画です。
私たちIBA の運営チームは週に一度プレッサを訪れ、住民を集め、一緒に本番当日のアイディアを練っていきました。モンタルタ氏が司会を務め、ミーティングの進行を行っていくのですが、これが非常に興味深いものでした。まず彼は参加者を円形に座らせます。これはお互いの顔がきちんと見えるようにするためです。話し合いにはいくつかのルールがありました。

1. ミーティングを始める前に全員で一分間目を閉じて集中力を高める。
2. 話すのは必ずひとりずつ。他の人の話を途中で遮らないこと。
3. 人のアイディアを否定せず、アイディアを「足す」発言をすること。
4. お金の話、実現性の話はしないこと。
5. メモはとらず、聞くこと・話すことに専念すること。

モンタルタ氏が行うミーティングには毎回微妙な緊張感がありました。そこで話すことは、全ての参加者から注目され、まるで「舞台に立つ」ような感覚になるのです。モンタルタ氏はここでも舞台監督としての自身の経験をこのような住民参加のミーティングに応用していたのです。
ミーティングの風景。一番右がユルグ・モンタルタ氏
モンタルタ氏は、住民たちが問題を指摘して批判するだけでなく、具体的にどうすれば良いのか、住民達が自ら考えるようにリードします。はじめの頃は大変シャイで発言するのをためらっていた住民の多くも、話し合いを重ねるごとに次第に自らのアイディアやまちに対する思いを積極的に話すようになり、お祭りのコンセプト、具体的なアイディアが練られ、自発的に作業グループを作るまでに至りました。モンタルタ氏自身が自ら物を作ったり提案することはありません。大きなコンセプトと最終的なイベントのクオリティを保つこと以外は、デザインや内容にはほとんど口出しません。モンタルタ氏の役割は、話し合いを通じて人々のモチベーションを高め、コミュニケーション可能な状態にしてアイディアが生み出される土台を作ることだったのです。こうして本番を迎え、人口3000 人のプレッサに、5000 人以上の人々が集まりました。
「パラダイス・プレッサ」で作られた花壇。住民らが花を持ち寄ってできた。(c) IBA See
文化会館前でコーラス。(c) IBA See
光の道を参加者と一緒につくった(c) IBA See
いつもは閑散としている道が人々でうめつくされた。(c) IBA See
ライトアップされたかつての褐炭発電所。(c) IBA See
■「音」でつながった私とプレッサ

当時全くドイツ語が喋れなかった私は、最初コミュニケーションに大変苦労しました。同僚とモンタルタ氏に本当に色々と助けられつつ、言葉ができない自分でもどこかに入り込めるところは無いかと画策し、見つけたのが「音」の分野でした。
プレッサは小さな街であるにも関わらず、炭鉱夫や市民たちによるブラスバンドやコーラス隊があり、今でも盛んに活動しています。私は彼らと一緒に、光の道のBGM を作りました。演奏スキルは決して高くなく、プロの音楽家は一人もいない、という状況の中で知恵を出し合い、光の道の雰囲気に合い、かつ演奏可能なBGM を一緒に考えて作っていきました。当日のアンサンブルには子供からおじいちゃんまで参加し、とてもすてきな風景で、私もリコーダーで参加しました。
プレッサの人達による合奏(c) IBA See
発電所の中の音響も担当しました。何か音楽をスピーカーで流せば良いのではないかと工場のオーナーに言われていたのですが、それだけでは面白くないなと感じ、発電所の巨大なダクトを叩いて鳴らす事を思いつきました。1.5m ほどの太さをもったメタルのダクトをトイレの「すっぽん」を改良したばちで叩くと、聞いたことのないような図太い重低音が発電所内中に響きわたりました。これがオーナーや地元住民に非常に気に入ってもらえて、実現することができました。本番では「発電所の心音」をコンセプトに、地元の若者2人とともに30 分ほど叩きつづけました。このドラミングは地元の人々と参加者の反応も大変良く、「斬新だ」「発電所の力強さを音で表現している」と多くの反響がありました。
ダクトを叩く筆者。手の皮がむけて大変だった。(c) IBA See
一方、ある女性からは「当時の機械音を流したい」という意見がありました。彼女は東ドイツ時代に発電所で長らく務めていた方で、自らの仕事場を心から愛し、工場のすべてを熟知していました。私は「発電所はもう動いていない。動いていないものを動いているように『偽装』するより、発電所が動かなくなったからこそ出来る、この空間の新たな可能性を音で提示したい」という旨のことを伝えて話し合いました。最終的に私のアイディアは理解してもらえましたが、これは発電所の空間が彼女にとっては「慣れ親しんだ仕事場」であり、私にとっては「魅力的な産業遺産」だったという2つの視点が交錯した瞬間でした。
このように、私は音楽のおかげで、なんとかプロジェクトに関わり、住民の人々とつながり、一緒に考え、思いや記憶を共有し、新たなことを提案することが出来ました。
地元紙に取り上げられた「パラダイス・プレッサ」での筆者とモンタルタ氏
■「アート」と「空間」で産業遺産の「社会的問いかけの力」を引き出す

今回紹介した産業遺産におけるIBA とモンタルタ氏の取り組みは、「アート」と「空間」がキーとなっています。産業遺産はいわば、空間として残された近代化・産業化の記憶です。この記憶は人によって異なり、時にぶつかり合います。IBA とモンタルタ氏は、その「空間」に敢えて人々を招き入れ、それぞれの記憶や想いを打ち明ける発表の機会を創りました。このときにアートは、空間を介して人々をつなぎ、住民、元労働者、観客としてくる外部の人々、子供たちからおじいちゃんおばあちゃんまで、それぞれの人々の感性に訴え、それぞれの記憶と想いが共有されるようにするという、極めて重要な役割を担っていました。ラオジッツにおいて産業遺産の「社会的問いかけの力」が単に違う立場の人々のぶつかり合いを招くのではなく、人々に「共有」される形で引き出されたのは、そこにアートという感性に訴えるコミュニケーションがあったからなのです。
「失われたまちの同窓会」プロジェクトに参加した元住人たちとモンタルタ氏 (c) IBA See
この経験でもう一点実感したことは、アートは決してアーティストだけのものではないということです。 プレッサにおける花壇、テーブルデザイン、蝋燭や松明、音楽、全て住民の人々とIBA のメンバーによる手作りで、いわゆるアーティストや業者などのプロは入っていません。「何か面白いことを、新しいことをやりたい」という人々の意欲が、このクオリティとクリエイティビティを生み出したのです。自分たちで考え、自分たちで作るということがポイントであり、人々が「遊ぶ」感覚で参加できることが重要です。誰もが構えずに、自分の出来ることを生かすことで参加できること。「アートでまちづくり」の決定的に大事なところはまさにこれであり、著名な芸術家を街に呼んできて何か作ってもらってありがたがることは全く異なるのです。この経験から次回ご紹介する「風雲!小倉城」のアイディアが生まれていきました。
■ライプツィヒと「空き家」の魅力

皆様はじめまして、ドイツのライプツィヒというところに住んでおります大谷と申します。これから5回にわたり「まちに『あそび』をつくりだす」というテーマでお話ししたいと思います。初回の今回は、(連載初っ端から我田引水が過ぎるようで恐縮ですが)私がここライプツィヒでやっておりますライプツィヒ「日本の家」という活動についてお話しします。
まず私たちの都市、ライプツィヒについて少し説明します。ライプツィヒはドイツ中部に位置し、古くから交易の拠点として栄え、産業は出版、鋳鉄、紡績などが盛んで、文化的にはバッハやメンデルスゾーンなどの音楽家ゆかりの都市です。近代化で一気に都市の規模が拡大し、1930年代の人口は70万人を超え、ドイツ帝国内でベルリンに継ぐ大都市へと成長しました。しかし第二次大戦後に東ドイツに組み込まれると徐々に人口が減り始め、1990年に東西ドイツが統一すると基幹産業の衰退によって雇用が激減し、10年間で約10万人の人口減を経験します。2000年の人口は47万人ほどで、ピーク時の約3分の2まで都市が縮小し、市内の空き家率は25%を超えていました。
私がライプツィヒを初めて訪れたのは2011年の年明けでした。1915年に建設された荘厳な中央駅から少し歩くと、窓ガラスが割れ、屋根には雑草が生い茂り、今にも崩れそうな廃工場や集合住宅が立ち並んでいる風景が広がります。これには正直びっくりしました。しかし一方で、非常にワクワクした気持ちにもなりました。「このまちなら思いきり遊べそうだ」と思ったのです。これだけ空間があまっていれば、きっと私みたいなカネもコネも権力もない人間でも何かできる、そういう直感がありました。
ライプツィヒ名物といえば空き家
個人的な話になりますが、「まちで遊びたい!」という欲求は子供のころの体験と結びついているようです。東京の杉並区で生まれ育った私の少年時代は、常に遊び場を得るために大人たちとの「戦い」に明け暮れる日々でした。住宅の立て込むまちなかに設えられた公園や緑地は管理が行き届いており、秘密基地だのゴム鉄砲で遊ぼうものなら管理人やら近所の大人やらが飛んできて追い出されてしまいます。唯一「自由」に遊べたのは空き家の敷地や空き地でした。そこは大人の目が届きにくく、木材やら鉄パイプやら工作の材料も放置されていました。こういう都市の隙間のような空間で遊んでいたときが、少年時代のなかで一番幸せでした。そんなこともあって、空き家や廃工場をみると今でもワクワクします。ライプツィヒはそういう点でとても魅力的な都市だったのです。
空き地、こちらもライプツィヒ名物
■ドイツの空き家を「日本」で再生する

さて「空き家で何かしたい!」という全くもって具体的内容のない状態からスタートしたのですが、当時ドレスデン(ライプツィヒのとなりの都市)に住んでいた私は二人の仲間たち、建築家のTさんと画家のKさんと出会い、その後で後輩の建築学生、Sくんが「手伝いますよ!」と留学先のベルギーから飛んできてくれ、この4人を中心に具体的なプランを練っていくことになりました。集まったメンバーが全員日本人だったので、「『日本』をキーワードに『空き家』をクリエイティブな『家』に再生する」ということをコンセプトに「日本の家」というプロジェクト名にしました。空き家を単に空間的に再生するだけでなく、その空間を舞台にしてアート、子育て、文化、学術などに関するさまざまな活動を行うという、空間と活動を同時に生み出していくことを目指していました。
「家」という言葉には少しこだわりがあります。日本とドイツの文化交流なるものはよく行われているのですが、そこで表現されている「日本」がどうもよそ行きで胡散臭いものであることが多いのです。ドイツ人と日本人がお互い愛想笑いを浮かべながら寿司を食べるというような、当たり障りなく設えられた国際交流という感があり、これに非常に違和感がありました。もっと普段着の、庶民的な、私たちの日常である「日本の生活」をドイツに持って来て現地の人と共有したい、そういう考えがありました。画家のKさんがつくってくれた「日本の家」のロゴのイラストは、2人の人が寝そべりながら本を読んだりせんべいを食べています。こんな感じで、自分の「家」のように来る人がリラックスできる、生活感のある場所をつくりたいということがここには表現されています。
「日本の家」のロゴ
企画書にこれらのアイディアをまとめ、立ち上げのための助成金探しと物件探しが始まりました。3月にライプツィヒにある「ハウスハルテン」という空き家を仲介してくれるNPOに企画書を送ったところ、翌日に「ぜひやってよ!」と返信をいただき、ほぼ同時に日独の交流支援を行うJaDe財団からの助成金も決定し、善は急げということですぐにライプツィヒで立ち上げることにしました。借りた空き物件は駅からほど近く、家賃無しで使え、かつ現状復帰もいらないという、私たちの活動にうってつけのものでした。このように「日本の家」がライプツィヒにできた理由は、私たちのような「アイディアはあるけどお金も場所もない」人々に空き家を仲介してくれる仕組みがあったからなのです。(ハウスハルテンについては こちらに詳しく書きました)
この地上階部分を借りて「日本の家」が始まった。ハウスハルテンの物件であることを示す黄色い垂れ幕がかかっている。
■ライプツィヒ「日本の家」始動!

物件が決まり、いざ本格的に始動しようというときに2011年の東日本大震災と原発事故が起こります。3月中はずっと頭が真っ白な状態で、「私はドイツまで来てなんてお気楽なことをやっているのだろう」となんとも煮え切らない気分でいっぱいでした。そんな時、あるチャリティイベントをきっかけにライプツィヒ在住の建築家ミンクス典子さんが「震災で大変な被害を受けている地域のために何かやりたい」と連絡をしてきてくれました。ミンクスさんはその後私と共に共同代表として「日本の家」の運営をしていくことになります。その他にも、震災をきっかけに「自分もなにかやりたい」と「日本の家」に関わってくださった方が多くいました。
2011年5月から空間づくりの作業が始まり、廃墟のような空き家に泊まりこんで全て手づくりでつくっていきました。夜まで作業していると近所の人も通りがかりに覗きに来たり、腕に覚えのあるおじさんが手伝いに来てくれたりとだんだん人の輪も広がっていきました。
自分たちで空間をつくっていく
2011年7月、ライプツィヒ「日本の家」無事にオープンの日を迎え、その後多岐にわたるイベントを行ってきました。
オープニングパーティー
展覧会
こどもたちと和綴じワークショップ
盆栽マスターの講習会
原子力とエネルギー問題を考える映画上映会
オタクの日ではオタクの部屋を再現した
まちの空き家に残された家具や建具を用いて新しく椅子をつくったり、古い建具を再利用してバーカウンターやローテーブルをつくったりと、なるべく新品を買わずその場にあるものを最大限利用しています。
古い窓を利用してつくったローテーブル
時には「家」を飛び出して、まちなかでイベントをすることもあります。自転車発電をつくり、その電力でキーボードとベースアンプを鳴らして中心市街地でコンサートをしたたときは、まちゆく人が不思議そうに眺めていました。「日本の家」の宣伝にもなるので、こういったイベントを積極的に行っています。
自転車発電コンサート
本来は2011年夏の3ヶ月で終わる予定だった「日本の家」ですが、活動を行う中で多くの方の支援と声援をうけ、延長に延長を重ねて今に至ります。中でもライプツィヒ大学の日本学教授のリヒター先生は、立ち上げ当初から私たちの活動を大変熱心に応援して下さっており、今では月々の家賃を寄付金として援助して頂いています。
■衰退地域への引っ越しと「ごはんのかい」

さてハウスハルテンから借りていた物件は、200㎡ほどあるうえに隙間風が入ってくるような有様で、冬の暖房代がべらぼうな額になってしまいました。これでは続けられないので、2012年秋に現在の場所であるライプツィヒ東地域の衰退商店街「アイゼンバーン通り」の空き店舗(約80㎡)へと引っ越しをしました。
ライプツィヒ東地域は移民系住民と生活保護受給者数の比率がライプツィヒ平均の倍以上あり、「ドイツ最悪の通り」というテレビ番組がアイゼンバーン通りを特集したほど一般的にイメージの悪い場所でした。今でもぼろぼろの家が立ち並び、空き家率は35%ほどです。一方で安い家賃に惹かれてやってくる若者とさまざまなバックグラウンドをもつ外国人が同居していて、独特の多様性をもつ地区でもあります。引っ越しをきっかけに「日本の家」の性格も少しずつ変化し、地元の地域団体や行政と密に結びつくようになり、「地域のまちづくり拠点」としての性格が強まってきていきました。
空き家が目立つアイゼンバーン通り
その一例が、2014年春から友人の旅人KさんとアーティストUくんと共に始めた「ごはんのかい」です。「ごはんのかい」は、最初は内輪で友達たちと料理をつくって食べるような小さなパーティーでしたが、徐々にお客さんが増え始め、ほかのイベントとセットで行うようになり、今では毎週60人から多い時で200人ほどの人々が集まるようになっています。お客さんの顔ぶれもさまざまで、学生や研究者、旅人、アーティスト、近所に住む人々、家族連れ、移民や難民まで、年齢も社会階層も国籍もいろいろです。
ごはんのかいの様子
最近では日本料理だけでなくアフリカや中東、韓国、メキシコなどの料理もそれぞれの出身の人々に教えてもらいながら一緒につくっています。この多国籍料理の「ごはんのかい」は、まさにインターナショナルなこの地域だからこそできることです。ごはんのかいを切り盛りするUくんの腕も上達し、日本料理とさまざまな国の料理を独自に組み合わせる料理が評判になり、彼のホスピタリティあふれるキャラクターも手伝って今では近所の有名人になっています。一緒に料理をつくると仲良くなるので、どんどん新しいネットワークが広がっていくのです。
日本とアフリカ(ニジェール)のごはんのかい
ごはんはきちんとした価格をつけない投げ銭制で、料理の前にお金を入れる鍋を置いておきます。一応これくらいは入れてください(2.5€)という価格は表示しますが、財布に余裕がある人はできれば多めに、無い人は少なめでいいよ、という具合です。また食べ終わった食器は食べた人に自分で洗ってもらいます。レストランのようにサービスを提供する人と受ける人をきっちり区別せず、一緒につくって一緒に食べるということを大事にしています。こうすることで、だれもが肩肘張らずに楽しめる場所になっているのです。
近所の人たちと一緒に餃子づくり
「日本の家」は外国人とドイツ人の双方にコンタクトがある稀有な存在となっています。なかなかドイツ人ばかりいる場所に外国人が入っていくのは難しく、逆もまたしかりです。私たちは外国人でありつつまちに開いた活動を行っているので、他の外国の人々とドイツの人々の双方が気軽に来られます。
このように、一緒につくって一緒に食べるというあらゆる人が楽しめることから始めて、それを広げていくことが、国や文化や社会階層の違いを越えていく最初のきっかけをつくることを、私たちは現場で毎日実感しています。多様なバックグラウンドを抱える人々が住むライプツィヒ東地域のようなところでは、なおさらこんな取り組みが重要になってくるのではないかと思っています。
トークイベント×ごはんのかい
■「まちの遊び場」としての「日本の家」

「日本の家」を立ち上げたときから一貫していることは、まず自分たちが楽しむことです。もちろんこういう活動を行う上で、コミュニケーションや文化の違いが問題になったり、些細な原因で仲間割れすることもあります。お金になるわけでもないわりに手間がかかり、場所柄ちょっと面倒なお客さんが「ごはんのかい」に乱入することもしょっちゅうです。それでも活動が続いているのは、やっていて楽しいという「遊びの感覚」をここにいる人々が共有できているからだと思います。自分たちのためにつくっていた遊び場が広がっていって、だんだんいろんな人が入ってきて、いつしかまちの遊び場になっていった、そんな感覚です。
熊本在住のアーティストの上妻利弘氏と一緒にぶんぶんゴマをつくる会。大人たちも夢中。
ドイツ語には「Spielraum」という言葉があります。Spielは「遊び」、Raumは「空間」なので、「遊び場」という意味ですが、一方で「余裕、ゆとり、余地、あそび」という意味もあります。「日本の家」はまさに、都市の中にある「Spielraum」です。そこはまちの人々のための「遊び場」であり、同時に都市空間の「あそび」でもあります。このようにみんなの想像力を活かせる自由な場所を保つことが、都市にとってじつは決定的に大事なのではないか、そんなことを考えながら活動していますが、まだ道半ばです。ライプツィヒは現在人口が増加していて、この「あそび」の空間をどうやって維持していくかという次のステージに移行しつつあります。(詳しくは今後お話します。)今回はここまで。長い文章にもかかわらず最後まで読んでいただきましてありがとうございました。ドイツにお越しの際は、ぜひライプツィヒの「日本の家」に寄っていってくださいね。
「日本の家」は衰退商店街にできた遊び場だ
大谷 悠 (おおたに ゆう)

2010年千葉大学建築学科修士課程修了。大学院卒業と同時にドイツに渡り、ラオジッツ産炭地域の地域再生公社にて褐炭露天掘り跡地の再生計画と住民参加型芸術祭「Paradies 2」の運営にかかわる。その後2011年5月ライプツィヒの空き家にて「日本の家」を立ち上げ、2012年2月より同登記社団共同代表。2012年夏から日独の都市再生と空き家・空き地問題に関する交流・提案・実践のワークショップ「都市の『間』」を行っている。2012年9月よりライプツィヒ大学博士課程所属。日欧の市民のボトムアップによる地域再生と都市コモンズをテーマに研究中。

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