太田エマ
Ema Ota
脱領域化を考える
当たり前だが、グローバル時代は脱領域の時代と言われる。世界中の流通、移動、文化発信、発展、及び破壊はある特定の土地から切断されてきただろう。ドゥルーズ&ガタリを始めとして、ラクラウ&ムーフ、ネグリー&ハート、多くの理論家・政治学者はこのコンセプトを異なる角度から解釈し、多様な分野に適応してきた。家庭、地域、市、国、大 陸、世界、様々なレベルの「領域」がある。ある領域は権力者を成立させるとともに、そうではないものを排除する。「パブリック」や「コミュニティ」を取り組む時、領域化、脱領域化、再領域化を意識せざるを得ない。この循環は世界中で起こり、場所があるvs場所がないとの奮闘の象徴になったと言えるが、場所づくり、町づくり、公共空間を取り戻す、occupyまたはアーティスト・ラン・スペース、アート・センターの動きにおいてこのプロセスはどのように働いているだろうか?共有するために領域の境界線を区画し、ある「土地」を所有することが必要だろうか?この現象は、10年間続いてきた「ディスロケイト」の核心にあるので、アートというレンズを通して、今まで扱ったテーマ:コモンズ、ジェンダー、労働、発言の自由、と脱領域化についてここで検討していきたいと思う。
01 パブリックと領域 
場所を持つことはパブリックを不可能にするか?
 これを告白するのはあまり好きではないのですが、私はイギリス出身なのです。ちなみに私は「イギリス人」とは絶対に言いません。小学3年生(7歳くらい)から残るなまなましい記憶があります。ビクトリア朝を勉強した時、クラスの生徒に世界地図が渡されました。そして赤い色鉛筆でその地図の3分の1を塗りました。その世界中に広がっている赤色は大英帝国でした。「こんなに大きい国だったのに、今はこんなに小さく、無意味なものになった」と、無知だった子供の頃の私は思いました。どの国にも歴史教育の問題があると思いますが、戦争の勝者としてイギリスもその当時、暗い過去に体裁のいいごまかしを付けていました。高校を卒業するまで、正式な教育の中では一度さえもイギリスの「罪」に触れられることはありませんでした。ただ、中学の時に歴史の先生が追加情報として「植民地で強制収容所や拷問もあったのだよ」と教えてくれたことで、迫害者の子孫である私は「領域」(territory)の暴力を始めて知りました。
 土地として「領域」を考えると分かりやすくなるかもしれません。人文地理学者のロバート・D・サック※1 によると、「領域」は「地理的な区域を区切る、ないしはそこへの管理を主張することによって、人々・現象・関係に影響を与え、それらを制御しようとする個人や集団の試み」ということです。境界を定めることで支配できる対象が認められると同時に、その内部にあるものの特権や義務、そのものの存在自体が定義され、また「外」のものが排除され、非権利者に格下げされるという暴行を働かせることで国家が成立し、また帝国はある領域を占領することが可能になります。

領域化がこのような暴力を働くことなら、「脱領域化」(deterritoriallization)は対義語としてその解決になるのではないでしょうか?脱領域化というコンセプトは複雑で、さまざまなスタンスがありますが、すでに古い議論と思われているかもしれません。しかし、まだまだそのフリクション・葛藤が現代社会において続いていると思います。ジル・ドゥルーズ※2 &フェリックス・ガタリ※3 の「アンチ・オイディプス」や「千のプラトー」では、脱領域化はある特定の場所・空間から根こそぎにする(uproot)/されること、また境界線を削除すること、領域と関係なく移動することとされています。それはグローバリズム、資本主義の基本的な姿で、文脈や境界と関わらず、絶えず流通するもので、永遠に脱領域化と再領域化(reterritoriallzation)との間で循環しています。一方、このような移動は領域による支配から逃げ出す戦略でもあり、ある種の抵抗の方法として捉えています。ドゥルーズ&ガタリは脱領域化の象徴である「ノマド」を理想化し、自立性が最も高い現象として解釈しました。世界中の難民の危機、ホームレス、追放、ディアスポラの問題に圧倒的に直面している現在では、このような「ノマド」は妥当性があるかどうかという疑問もあり、「完全な脱領域化」は神話(myth)とも批判されていますが、それは現代社会のパラドックスを反映しているのでしょう。このような分析はよくネット時代初期の評論家に使われ、ネットワークの、分散化された、中心がない構造が可能にする自由(天国)と、同時にいつでもどこでも管理される(地獄)、相反する面が浮かび上がります。

当たり前なのですが、クロード・ラフェスタン※4 が次に述べたように領域は物理的な空間だけではありません。地図には目印をつけられないものもあります。

領域性は,ある社会がシステムの諸資源を考慮しながら、可能なかぎり最大の自立性を獲得するという見通しで,そのさまざまな欲求を満たすために複数の媒介(装置、技術、提示など)の助けを借りて,自己自身のみならず、外部性および他者性と維持する関係の総体として定義できる。※5

この「領域」は社会構造、そのものとしても捉えられ、ある力の範囲、抽象的な「政治」の空間という意味も含まれます。この目に見えない領域を脱領域化し、再領域化することも可能で、思想の世界の中でもこのプロセスは何回も繰り返されています。その中ではラフェスタンが語った通り「自立性」が目標とされ、自分のスペースを要求することで、他者から切り離すという動機が働いています。従来の権力を不安定にさせることで、もう一つの権力を成立させてしまうことになります。

この問題を所有の問題としてアプローチしてみたいと思います。領域を計ることが財産や所有物を画定する(demarcate)ということなら、社会契約(社会の一個人としての権利と義務)という文脈の中の、「所有物があることで主体になる」という論法が浮かび上がります。ジョン・ロックの所有論によると、「自分自身の体を持つ(所有する)」ことによって、人はその所有主であると特定され、社会の一員(市民)であること、個人の存在を証明すること、そして人権そのものが可能になります。ロックの理論を結論づけると、「所有」の確保のために国家は不可欠な境界の指標になります。国の概念は「所有」することへの帰結となり、「所有すること=存在する」という条件が成立、それは資本主義、ネオリベラリズムの夢、ヘゲモニーを可能にします。

一方、「自分自身を持つ(所有する)」ということは、複数性、表現の多様性を守るデモクラシーの象徴の一つでもあります。社会的・政治的な働きかけ(agency)は、「アイデンティティ」と深く関連し、主体性が属する「グループ」を形成します。ある領域を定めること、ある領域に入ることで所属感がもたらされ、ある基準が固定されます。多数派(従うべきのモデル)と少数派(モデルを持たない)との葛藤においてマイノリティはマジョリティになろうとして脱領域化し、また再領域化する過程が多いという意見もあり、従来の「アイデンティティ」から逃げ出すためにまた新たな「アイデンティティ」を構築しないといけないというシステムになっています。これは例えばよく同性婚の認定の中で起こる現象です。 ドゥルーズは、この、まだ固定ができていない存在を「生成変化(devenir)」と呼びますが、その逆の方向、固まったアイデンティティから非-所属化する・非-存在化する可能性も探る必要性もあり、何も所有しないまま自分の存在をどのように顕在化することができるかという課題も早急に考慮する必要があります。ジュディス・バトラー※6 とアテーナー・アタナジウ※7 "Dispossession: The Performative in the Politica"は、この問題に様々な側面から取り組んでいますが、その中にはこのような分析もあります。

主体性は他者を非主体化するプロセスを通して構成され、このプロセスを逆転するためには容認できる・されるアイデンティティが解決になるというわけではなく、脆弱性の地平を構築する制御的な理想を不安定化させることが重要である。※8

植民地主義、帝国主義、所有主義と同じ価値観を再現しないように主体性とものを持つことを非植民地化する方法があるでしょうか?

人間は何も持たなくても、足元には地面があるという考え方もできますが、ロヒンギャの難民※9 の状況はそれとかなり齟齬があります。自分の「国」の中でも「外」のものとして定められ、権利を食い荒らされ、土地も所有できず、収容所での生活を強いられるだけで十分奪われた状態になっていますが、さらに彼らはそこから脱出するために船を乗って、タイ、マレーシア、インドネシアに難民として入ろうとして、入国を拒否され、3ヶ月近くずっと海で漂流しました。強烈な例なのですが、このプレカリアートの問題が世の中でますます増え、領域を画定することで場所がない、権利がない、実際の存在が認められていない人が次々に見えて(見えなくなって)きます。パリ・コミューンの「所有することはすべて“犯罪”だ」というキャッチコピーは少し強すぎると思いますが、所有することによる破壊、領域・脱領域化の被害者はここに明らかです。

このジレンマをパブリック(公共空間・公共圏)のコンテクストに適用すると様々な矛盾が見えてきます。パブリックという様々なレベルにある空間は「皆」のもの(所有物)、「皆」のスタンスを表現・象徴するという理想があります。政治学者の齋藤純一は、パブリックを「オフィシャル」、「コモン」、「オープン」の3つに分けており、ハンナ・アーレントの視点からみると、パブリックを機能させるのは「アクション」(活動)と多様な立場という複数性(多元主義)で、シャンタル・ムフの闘技的民主主義を引用すると奮闘することがパブリックを可能にします。しかし、パブリックは結局権力が認定された人のもの、ある領域によって作られているもの、自治体や国が舞台になり、その中で存在感や所属を与えるだけの構造に縮小されます。物理的な空間、所有物、帰属意識によってパブリックを定義したら、場合によっては、パブリックの持つ本来的な複数性がなくなり、領域の境界線が「皆」のものとして機能できなくなります。80年代・90年代イギリスで始まった“Reclaim the streets”(街を取り戻せ!)という運動、または経済危機や「アラブの春」で出現した“Occupy”はラディカルなデモクラシーを主張していますが、“reclaim”“occupy”という言葉が示すように、政治的・社会的な存在を強調するためにそのパブリックを所有物や占領地として捉えられる恐れがあります。結局、植民地主義(colonialism)や資本主義と同じような言葉を使ってしまい、政府や企業の管理からパブリックという物理的な街の空間とその概念的・対話的(Dia logical)な空間を再領域化してしまうという批評もあります。トロントやメキシコの“(de)occupy”の運動が証明するように、既に占領されている植民地の継承の中で“occupy”が顕われているという矛盾もあります。もしかすると、カリフォルニア州のソノラ砂漠にある“Slab City”やカラカスの“Tower of Davi”の“Squat”が示す「パブリック」は、この罠にはまらないかもしれません。“Squat”は、しゃがみ込むという意味も持つ言葉で、座る、横になる、決められた場所の中で位置付けるのではなく「立つ・座る位置」を通し、その場所を自分自身の「所有物」とはせず、その空間を定義しないまま、その地点で過ごす状態です。カタロニアの建築家イグナシ・デ・ソラ=モラレス・ルビオー※10 の「テラン・ヴァーグ」(terrain vague)というコンセプトもそれと近いかもしれません。都市空間の中で明確な機能がない土地・地区は廃れた空間と言っても、実際に定義がないこそ、制限がない空間として無条件の可能性があるという概念はここでヒントになり、またハキム・ベイ※11 のアナーキストのマニフェスト「T.A.Z. 一時的自律ゾーン(Temporary Autonomous Zones T.A.Z)」のようなある種の脱領域化と繋がります。結局、パブリックは皆のものになるために誰もが持たない存在にすることが必要です。

アートとパブリック性を考えるプロジェクトの ディスロケイトは名前通り、8年以上場所を持っていませんでした。毎年違う会場でレジデンスやワークショップ、ディスカッションイベント、パフォーマンス・アクションを行いましたが、根がないというわけではありません。移動式なので不安定、一時的、仮の存在として解釈されたかもしれませんが、その立場こそ長く、深く存在できる可能性があると思います。あるイベントでアートセンターについて話す機会がありましたが、そこで「アートセンターが何かの中心にある機関ならば、ディスロケイトは遠くの周囲にあるテントだ」というように説明しました。しかし、昨年の秋から「あなたの公-差-転」(パブリック・クロッシング)www.kosaten.orgとして部屋を借りることになり、初めて「住所」があり、地域の中できちんとした拠点ができたのですが、嬉しいというか、複雑な気持ちがあります。場所を持つことでこのプロジェクトの存在に光が当てられたかもしれませんが、そのことで活動に対する正当性が高められるでしょうか?逆に、あの小学生のときの、7歳の植民地主義者に戻ってしまったではないかという疑問もあります。場所を持つことで敷居ができて、それを跨ぐことができる人、そうではない人が分かれてしまいます。パブリックスペースとして機能させたいという想いがあっても、場所を仕切ることで本来のパブリックは成り立たたないのではないかという問いもあります。ジャック・デリダのホスピタリティ論の通り、「おもてなし」(hospitality=hostil-pitality)、自分の「領域」に他者を誘うことで必ず確執・敵意が現れるため本来のホスピタリティは不可能ということです。
最近、オルタナティブ・スペースやアーティスト・ラン・ギャラリーが増え、従来のアート界、階層制、規定などという領域から脱領域化しようとしている立場も多いと思いますが、そのスタンスが再領域化を促し、また同じ問題が繰り返されているという批判もあるでしょう。ジェントリフィケーションの問題が示すように文化帝国主義は美術館や大きい機関の動きだけではなく、オリンピックのスケールで巨大なスタジアムをどんと都市の中に置き、「皆のために」という旗印のもとに、元々そこに住んでいた人、利用した人を排除するという行為は実際に小規模のレベルで何回も再現・重複されているのではないかという恐れもあります。
「ドア」をつくることで誰かが入れるようになると同時に、誰かが締め出されるでしょう。
その中の「パブリック」の「皆」のための壮大な大聖堂(競技場)を築くことはどれだけ矛盾になっているでしょう。大聖堂やたくさんの小さなドアをつくるより、いろいろなところでしゃがみ込む(squat)のほうが良いのではないでしょうか。
まずは、地図と色鉛筆を捨てましょう。

※1 ロバート・D・サック Robert D. Sack 英語圏の代表的な人文地理学者。ウィスコンシン大学地理学教授。領域性を空間的な現象として捉え、集団や個人がその空間を通して社会的・政治的な目標を追求しようとしている。
参考:「ロバート・D・サック『人間の領域性―その理論と歴史』 部分翻訳にあたって」(山崎孝史著、2007、空間・社会・地理思想11、pp. 90-91.)

※2 ジル・ドゥルーズ Gilles Deleuze フランスの哲学者。著書に「差異と反復」「意味の論理学」他。

※3 フェリックス・ガタリ Felix Guattari フランスの哲学者、精神分析学者。著書に「分裂分析的地図作成法」他。ジル・ドゥルーズとの共著に「アンチ・オイディプス」「千のプラトー」などがある。

※4 クロード・ラフェスタン Claude Raffestin フランス語圏の代表的な人文地理学者。ジュネーブ大学人文地理学の教授。著書に「歓待を再発明する」(遠城明雄訳、2006年)、“Could Foucault have revolutionized Geography?”(「In: Space, Knowledge and Power, Chapter 14」、Translated by Gerald Moore)など。 領域性を関係的・流動的な存在として定義し、相互関係や構造的な文脈から発生するものにしている。

※5 原文:Territoriality is a “complex system of relationships linking individuals or/and social groups with territory (exteriority) and with others (alterity) by means of mediators (instruments, techniques, representations etc), in order to guarantee a maximum of autonomy within the limits of the system"
引用:『Pour une geographie du pouvoir』

※6 ジュディス・バトラー Judith Butler 哲学者、ジェンダー理論家。カリフォルニア大学バークレー校修辞学・比較文学科教授。著書に「ジェンダー・トラブル――フェミニズムとアイデンティティの攪乱」(竹村和子訳、青土社、1999年)、「触発する言葉――言語・権力・行為体」(竹村和子訳、岩波書店、2004年)など。

※7 アテーナー・アタナジウ Athena Athanasiou アテナのパンテオン社会政治大学(Panteion University of Social and Political Sciences)の教授。フェミニストの社会人類学者。主にジェンダー、フェミニズム、クイア理論、生政治、愛国主義などを巡って研究している。

※8 原文:「Subjectivity is constituted through and inhabited by processes of desubjectifyng others. What is needed is not the creation of tolerant and tolerated identities but rather the destabilization of regulatory ideals that constitute the horizon of susceptibility. 」
引用:『Dispossession: The Performative in the Political』

※9 ロヒンギャ族 ミャンマーに住むイスラム教の少数民族。ミャンマー政府はロヒンギャ族をベンガル人の不法移民と見なし、迫害してきた。政府は、彼らがほかの民族から暴力を受けていることを言い訳に、およそ14万人のロヒンギャ族を悪臭のする難民キャンプに押しこめている。
参考:「Rohingya boat people:Myanmar’s shame」(The Economist,2015年5月23日号)

※10 イグナシ・デ・ソラ=モラレス・ルビオー Ignasi Solà-Morales Rubió ヨーロッパを代表する建築史家、理論家。テラン・ヴァーグ(Terrain vague)という何からも放棄され、定義が曖昧で不安定な状態の都市空間を指す造語を中心として理論を展開した。
参考:「テラン・ヴァーグ:現代美術用語辞典 Ver,2.0」artscape

※11 ハキム・ベイHakim Bey アナキズムの著述家、評論家。著書に「T.A.Z. 一時的自律ゾーン」 (箕輪裕訳、インパクト出版会、1997年。)

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