太田エマ
Ema Ota
脱領域化を考える
当たり前だが、グローバル時代は脱領域の時代と言われる。世界中の流通、移動、文化発信、発展、及び破壊はある特定の土地から切断されてきただろう。ドゥルーズ&ガタリを始めとして、ラクラウ&ムーフ、ネグリー&ハート、多くの理論家・政治学者はこのコンセプトを異なる角度から解釈し、多様な分野に適応してきた。家庭、地域、市、国、大 陸、世界、様々なレベルの「領域」がある。ある領域は権力者を成立させるとともに、そうではないものを排除する。「パブリック」や「コミュニティ」を取り組む時、領域化、脱領域化、再領域化を意識せざるを得ない。この循環は世界中で起こり、場所があるvs場所がないとの奮闘の象徴になったと言えるが、場所づくり、町づくり、公共空間を取り戻す、occupyまたはアーティスト・ラン・スペース、アート・センターの動きにおいてこのプロセスはどのように働いているだろうか?共有するために領域の境界線を区画し、ある「土地」を所有することが必要だろうか?この現象は、10年間続いてきた「ディスロケイト」の核心にあるので、アートというレンズを通して、今まで扱ったテーマ:コモンズ、ジェンダー、労働、発言の自由、と脱領域化についてここで検討していきたいと思う。
03 70代以上の女性:どうやって働いてきたのでしょうか?
東京の杉並区。日本ではお年寄りの人口率が最も高い地域の一つであると言われています。また日本の中で100歳以上の方が一番多いエリアであるということは確かです。杉並区の西荻窪・善福寺でも全国が抱えている高齢化“問題”がどんどん可視化されています。一人暮らしの高齢者が多く、孤独死の件数も少なくありません。また表面ではあまり見えないのですが、高齢者の中には貧困問題もあります。(今年新幹線で焼身自殺をした70代の男性は西荻窪に住んでいました)現在日本の社会は深刻な問題に直面していますが、簡単な解決策がありません。社会そのものの在り方を変えないといけないですから。多くの方が年を取ると医療問題や介護問題が起こり、そういったサービスを提供する場所・人手が足りないので「外国人材」を活用しようという動きがあるのですが、より根本的な変化が必要ではないかと思っている人は西荻窪でも少なくもありません。その状況の中でディスロケイトはこの地域に定着し、根付くことができました。

ある地域には自由に出入りできる高齢者の交流の場がたくさんあり、それぞれが連携しネットワークを通して様々な世代と交わりながら、シニアの方が安心して暮らせるような環境を作ろうとしています。
■ゆうゆう善福寺館

善福寺で活動し始めるきっかけの一つがゆうゆう善福寺館の存在でした。幅広く、様々な年齢の方と交流したいと思ったのですが、初めて訪ねた時は、ドアを開けたとたんにスタッフの方が現れ、「失礼ですが、65歳以上の方ではないとここには入れません。」と言われました。最初はもうここで何か協働することは無理だと思いましたが、数ヶ月後運営団体が変わり、もう一回お伺いしたら雰囲気が完全に変わりました。とても熱心なスタッフに温かいウェルカムをいただき、これからのゆうゆう館のビションとして子どもから高齢者まで多様な世代が集まる場所として新たな活動を目指したいという話しがありました。ゆうゆう館ではストレッチ体操、パソコン教室、映画の上映会、英会話から手話ダンス、フォークダンス、カラオケ、手芸、書道まで幅広い活動が利用者によって自主的に企画されています。
2012年、ディスロケイトを初めて善福寺で開催した時、レジデンスにお招きしたラオスの映像作家さんも2ヶ月の滞在期間中よくゆうゆう館に通うようになり、最後には紹介ビデオを作ってくれました。「ラオスではこのような施設がないのでお年寄りの方でもこんなに活発になれる場所を紹介したいです」という想いとともにカメラを持ちながらスタッフや利用者と仲良くなりました。その後、個人的に私は月一回国際交流サロンをゆうゆう館で開催し始め、また翌年は、子どもたちと高齢者のコラボ、ビデオワークショップも実現しました。

■かがやき亭

安く、安全で健康的な料理を提供するコミュニティ・レストランは、食べ物の味より人と人とのコミュニケーションを大切にしています。一人暮らしの高齢者が多い西荻窪で、かがやき亭は家を出るきっかけになっています。お店に入ると大きなテーブルでいつも何人かが食事をされていますが、知らない人でも声をかけて、すぐ会話に入るという雰囲気です。食事が終わったら毎日囲碁、手芸、コーラスや絵葉書などのアクティビティに自由に参加できます。決まったメンバーのサークルではなく、いつでも出入りできるような集まりなのでとても気楽に参加できます。定期的にコンサートや上映会も開催しています。またスタッフもそれぞれのお客さんを大事にし、常連さんが急に来なくなったら何かがあったのかを確認し、見守っています。
■けやきの見える家

創立されてからもう1年が経ちましたが、ゆうゆう善福寺館を運営している「NPOおでかけサービス」の代表である樋口陽子さんは、最近新たな活動としてご自身のリビングを毎週木曜日に開放し、ボランティアのチームによって毎週違うプログラムを開催しています。「オープン・リビング」という副題で定期的に30人くらいの近所の方(主に65歳以上の女性の方)が集まり、音楽の演奏を聴いたり、マジックショーを見たり、何かを作ったりしています。高齢者が主な対象となっていますが、よくお子さん連れのお母さんなどもいらっしゃって、子どもたちのエネルギーも感じることができます。
■きずなサロン

賑やかなオープンカフェのように地域の方々がふれあい、交流し、お茶を飲みながらお話をしたり、情報交換をしたり、趣味の活動をしたりする、杉並区社会福祉協議会が運営する場所です。地域住民のコミュニケーションを育むことを目的として、おしゃべりを通して近所の中で新たな人間関係を構築しようとしています。


■ケア24

ケア24は杉並区が運営を委託している高齢者の総合相談窓口で、区内20箇所に設置されています。医療施設やケアサービスと連携しながら、介護、保健、福祉、患者権利などについてアドバイスを提供します。またいくつかの老人ホームで交流サロンを開いたり、地域のレストランで食事会を企画したり、特別講座なども実施しています。最近ケア24善福寺が東京女子大学の近くに引越し、交流・イベントスペースも提供しています。

「徒歩で行き来できる小さな地域の中で住んでいる方や働いている方が、何らかの方法でもって繋がりあい、声をかけあい助け合いながら生活していける、そんな地域になるような仕掛けづくりをいつも模索しながら業務をしています。」(杉並区地域包括支援センター ケア24善福寺のHPより)


■ペイシェント・サロン善福寺​

今にもつぶれてしまいそうな商店街の奥にある「リゾートカフェ・オクターヴ」では毎月の第二日曜日にペイシェント・サロンというイベントが開催されています。患者の方・介護している方、ときにはお医者さんや他の医療専門家も集まり、非常にフランクに、正直な不安、不満、心配などを話し合います。個人が生活の中での困っていることはただのプライベートな問題ではなく、誰でも関わってくる問題、ある種の公的な問題であるということがこの場ですぐわかってきます。この会を通して86歳の元森さんと知り合うことができ、元森さんは定期的に「あなたの公-差-転」で開催するディスカッションイベントに参加してくださっています。
上記の例の中では利用者・運営者の多くのが女性の方で、女性がいきいきする場として見られます。昨年にディスロケイトが主催したイベント「60年代の働き方・暮らしぶりと現在」では、一人の70代の女性の方が「ちゃんとしたキャリアが持てなかったということを非常に後悔している」という話しを、また「働く女性の全国センター」と一緒に企画したイベントでは、また違う70代の女性の働き方について話し合う機会があり、それがきっかけで70代の女性がどのように働いてきたのか直接お話しをお聞きしたいと思いました。
戦中生まれ、終戦直後の混乱の中で育てられ、様々な変化を見てきた70代の女性たち。この世代は子どもの頃からすでに女性が選挙権を持っていて、1955年から1970年まで労働人口の女性就業者数が2倍増え、500万人から1千万人までに上達した状況の中で自分の将来を心に描き、第二波のフェミニズムの時代も過ごしていました。いわゆる女性社会進出の大きな(でももちろん足りない)ステップを目撃した一方、まだ性別による役割分担や分業が多く、職場でも差別が珍しくない時代も経験したかもしれません。6人の70歳以上の女性の「仕事」に対する想いを聞いてみたいと思いました。
最近安倍政権は「かがやく女性」というキャンペーンを展開していますが、女性は様々な意味でもうずいぶんかがやいているのではないでしょうか?
人間社会の専門家の堀芳枝氏が批判するように、政府は本気で女性権利などにコミットせず、ただ経済的な都合で女性を外国人材と同じように「活用」することを必要としています。

「安倍首相の言う「輝く女性」の真の狙いは、女性を資本蓄積のために、子どもを産むという能力…と労働力資源をいっそう収奪することにあるのではないでしょうか。」(「安倍政権の女性政策をどのように評価しますか。」日本平和学会

ウーマノミクスのおかげで働く女性が100万人増加してきたはずなのですが、その多くの女性は派遣やパートとして仕事し、不安定雇用の問題と労働環境の問題を見落とすことはできません。社会的公正とジェンダーの平等がビジネスガイドラインだけで成立されるとは思いません。保育問題、マタハラ、非正規雇用、一人暮らしの女性(男性も)の貧困問題がまだまだ続いています。

その現状の中で上の世代の女性から、何を学べるか考えていきたいと思いました。
私たちの働き方
◼︎樋口 蓉子さんの場合(元杉並区の区議会議員)

1943年生まれの樋口さんは1950年から小学校に入学し、まだ日本がアメリカに支配されていた時代に民主主義の教育を受けました。その中で男女同等より、男女同権ということがよく強調されました。大学に進学し、社会学を専攻しました。その当時はまだ、大学に行く女性が比較的少なかったのですが、あまりその辺は意識していませんでした。ただ、中学校・高校の頃から「社会の中で変なところがある」という感覚はありました。結婚し、子どもを産んでからは、夫の母親の介護もあり、専業主婦として家庭が世界のすべてのような生活し始めましたが、どうしても違和感があったそうです。
「将来のキャリアを築いて、周りの人に認められたいというわけではないのですが、ただ、今の生活よりも、もっと外の世界に出て行きたいという願望はありました。」
と樋口さんは語ります。
その願望から出発した地域活動で、児童館のサポーターを始めました。大学では児童文化研究会のメンバーだったのでその知恵も活かしながら、児童館の図書室の担当として10年以上活動しました。図書室の本を選んだり、本を紹介するディスプレイを作ったり、子どもに本を読んだりすることで、子どもはもちろん、多くの近所の親たちや児童館職員と知り合い、コミュニティへの所属感が少しずつ芽生えてきました。より積極的に地域に参加したいと考えていた時、ちょうど生活クラブ生協の方が訪ねてきて、活動に誘われました。主に安全な食材や環境問題を扱っているグループで、樋口さんはあまりその問題について深い関心を持っていなかったのですが、とにかく外に出たいという気持ちが強かったので関わり始めました。その後、生活クラブ生協の理事になり、大変責任ある役職なのですが、完全にボランティアとして、無償でやりました。さらに区議会議員の選挙が近づいた時、杉並 ・生活者ネットワークから樋口さんに「立候補しませんか?」という打診がありました。結果、樋口さんは当選し、議員になりました。生活者ネットワークは市民の政治団体で、「生活を支えていくのは政治だ」という思想を持ち、政治の主体は市民であり、議員は市民の「代理人」として、生活の中からの提案を出していくために議会に参加していく、そんなふうに政治を考え3期12年活動しました。樋口さんが当選した年より以前は、女性の議員が非常に少なく、50議員のうち3~4人しか女性がいなかったのですが、当選した年には7~9人になりました。現在杉並区で女性は三分の一まで増えました。樋口さんは議員として、一所懸命に福祉、環境、子どもと障害を持つ方のためにさまざまな側面で活動しました。
議員は最長3期で交替するという生活者ネットワークのルールに則り、次の人にバトンタッチしたのが、60歳でした。退職後はもう一度市民として地域に戻りたいと思いました。もうその頃には高齢社会の問題が大きくなり、おでかけサービス杉並というNPO法人を設立しました。高齢者の中では、孤独な状況の中で暮らしている方が多く、身体が不自由なので家から出かけることに困る人がいれば、退職後にどのように地域の方と交流したら良いか悩んでいる方もいます。特に後者には男性が多いです。今までずっと会社が自分の世界の全てだったのに、退職したら自分のアイデンティティが揺れてしまい、今まであまり地域に参加していなかった方にとってその繋がりを構築することが、最初のハードルとなります。おでかけサービスはその両方に取り組み、主に車が運転できる、定年退職後の男性に向けてドライバーを募集し、あまり自由に移動できない方を病院に連れていったり、医療施設などに送迎したりするサービスをしています。また医療関係以外でも「外出支援サポーター」を提供することで、一人で出かけることにあまり自信がない方に対して「私も行くから一緒に行きませんか?」と声をかけて、地域のイベント、交流会、趣味のサークルなどにより気楽に参加できるような状況を作ろうしています。
杉並区が今まで直接運営してきたシニアの交流施設、敬老会館が「ゆうゆう館」というネーミングになり、地域のNPOに管理を委託するという動きがあり、「おでかけサービス」は2005年からゆうゆう桃井館、2012年からゆうゆう善福寺館の運営団体となりました。運営団体が変わったことで、さらに年配の方のニーズを聞き、対応できるようになりました。行政と協力しながら安心で生き生きできるような環境を作りましたが、より個人レベルで何かできないかと考え、2014年に樋口さんはご自身のリビングを開放し、「けやきの見える家」を開きました。さらに他の地域グループと連携して子どもと年配の方を繋げることで、子どもの貧困問題に取り組もうとしています。おでかけサービスを設立した時と同じ精神で、「皆で力を出し合って、行政だけではなく、自分たちで何かをやる」という想いを持ちながら行動しています。またその意味では支える側と支えられる側の区別がないというか、お互い支え合いながら暮らしていくという捉え方をしています。その考えから、「ボランティア」という言葉に対して樋口さんは疑問も持っています。昔、「ボランティア」には奉仕という言葉が使われたのですが、私心を捨てて社会・国のために力を尽くすというニュアンスに違和感があるようです。サービスを提供する人は結局サービスの利用者になるので、その相互依存をいつも意識しています。
 最後に労働と仕事の違い、家庭の労働、いわゆるボランティアの活動、お金になる仕事の区別についてお聞きしたところ、樋口さんはこのように答えました。
「お金になる仕事、そういう意味では、ちゃんと仕事をした人間ではないのです。楽しく意味がある活動をしたいと思いました。有償の仕事の経験がないので、やってきたことを「仕事」としてできるかと言われると、自信がなかったかもしれません。逆にそれは、開き直るというか、経済的なモティベーションがないのでより自由に直接的に活動ができたとも言えるでしょう。とも言えるでしょう。私の過ごしてきた時代が、背景としてあったと思いますが、つまり性別役割分業の時代、それを突き破るほどの意識と行動力はありませんでしたから。今の時代はまた違ってきています。ただ、お金を稼ぐ仕事だけでない、地域の活動も大事なんだということは言いたいです。ライフステージによって、働き方や人生の過ごし方も変わって、それが選択できるようになりたいですね。」
◼︎九岡美知子さんの場合(AIDS患者のサポーター)

九岡さんは、ほとんど西荻窪の周辺の学校で教育を受けました。「おんなだから…」といったことは一切言われなかったのであまり男女の区別・差別を意識していませんでした。ちゃんとした就職活動はしておらず、卒業してからご両親の会社に勤め始めましたが、あまりプライドを持つ仕事ではなく、いつも頭を下げて働きました。
結婚後は、4人の子どもが生まれ、子育てで本当に手がいっぱいになりました。九岡さんのご両親は当時身体が弱っていたので、あまり育児を手伝ってもらうことはできませんでしたが、妹さんが手伝ってくれたそうです。肉体労働として考えれば、夜も寝られないし、いつも何かをやらないといけない状況でしたが、それよりも子どもたちの進学の時のほうが、心理的に苦労が多かったと言います。家庭以外の仕事として、ボランティア活動をしていました。千葉の団地に住んでいたのですが、幼稚園が足りなかったので近所の方々が集まり、自分たちで作ることになり、九岡さんもボランティアとして運営に加わりました。入居者は新しく引っ越してきた方が多かったので、とても民主的な雰囲気があり、言いたいことが言え、皆で相談できるような状態で、地域の偉い人が指示するわけではなく、皆で協力し合う環境でした。
上のお子さんが中学校に入った頃、ご主人の仕事の関係で、家族みんなで名古屋に引っ越しました。九岡さんは、ここで初めて性と出身地による差別を感じる出来事にあいました。PTAや地域活動のグループの中ではもちろん女性のメンバーが多かったですが、代表はいつも必ず男性で、多くの場合その人は地元有力者の家族のメンバーでした。代々の土地関係を持ってないと排斥されるという事実にも直面したそうです。
2年弱名古屋で暮らし、静岡に引っ越した九岡さんは、「もっと意味があるボランティア活動をしたい」と、子どものヘルプライン・サービスという電話相談のサポーターになり、不登校の子ども、いじめを受けている子ども、病気を抱えている子ども、様々な問題に関して子どもや親から相談を受けるようになりました。ちょうどその頃、ご主人のご両親も歳を取り、薬を間違えてるようなこともあったので、毎週静岡から東京に通うことになりました。当時は介護保険がなかったので、家族で24時間のサポートを提供しないといけない状況で、その役割の多くは九岡さんが担いました。4~5年後、ご両親は亡くなりましたが、その後、今度は九岡さんの母がパーキンソン病で食べられなくなり、西荻窪に毎日来る必要がありました。お母さんが亡くなられた後も、ご主人の弟が病気になり、介護が続きました。
「自分の両親の介護をすると、いつまでそれが続くか予定が立てないのですよ。長く生き続けるのが一番良いですが、だんだん具合が悪くなっていつ終わるか分からないわけです。」
と、九岡さんは言います。介護生活が落ち着いたある時に、「ゆっくり休むより、逆にそのスキルをレベルアップして、社会の中でその経験を活かしてはどうか」と考えるようになりました。学校で介護を勉強し、その後仕事として世田谷区でのケアヘルパーになりました。
ヘルパーの資格を持ち、静岡で電話相談ボランティアもやっていた経験から、いろいろな悩みを相談できる電話相談サービスを始めました。中でも、AIDSについての相談を受けました。その頃はあまりAIDSについて詳しくなかったので東京都のAIDSボランティア看護協会に参加しました。当時AIDSに関する理解がほとんどなく、また医療があまり進んでいなかったので、AIDSの患者の健康状態はすぐに悪化し、若くして亡くなる方が多かったです。AIDSはアメリカ、海外から輸入されてしまった変な病気として捉えられ、近づくだけで移るのではないかという風に誤解している人も少なくありませんでした。(1997年に新しい薬などができ、少しずつ状況が改善され、今では患者さんも長生きができるようになりました。しかし薬が見つかったことで、逆にAIDSの問題を忘れがちになり、ちゃんと予防しないケースが増えているようです。)
当初、あまりAIDSのことを知らなかった九岡さんですが、勉強することで、もっとサポート活動に関わりたいという気持ちになり、AIDS患者のバディになりました。その当時、AIDSに対する福祉は十分でなく、ちゃんとした治療もなかったので多くの患者さんが苦しい状況でした。介護の資格を活かして、何人かの患者さんの日常をサポートし始めました。お亡くなりになったかたもいらっしゃいますが、今までずっとサポートしている方もいます。
この20年間で、何が変わってきたかとお聞きしたところ、
「現在では理解がより深まりましたが、まだ差別も残っています。AIDS患者の高齢化が進んでいることで、これから老人ホームなどの共有施設に入っていくと思われ、まだそのスティグマがあるかもしれないので、高齢社会の中でもAIDSとどうやってliving together(一緒に暮らしていくこと)ができるかという課題も大きくなるでしょう。」
という説明いただきました。


■村山弘子さんの場合(シングル・ワーキング・マザー)

村山さんは高校を卒業してからすぐ就職し、会社員として働き始めました。その当時、今のような集団的な就職活動がなく、学校が仕事を紹介してくれたので、スムーズに就職先が決まったそうです。しかし、残業が多く、会社以外のことが考えられなくなった時期があり、アルバイト勤務に変更しました。その後、結婚を機に退社し、二人の男の子が生まれ、子育てに集中しました。下のお子さんが2ヶ月の時にご主人が松本まで転勤することになり、社宅に住み始めました。二人の幼い子どもを持って、知らない場所で生活するのは大変なことでしたが、社宅に住む多くの家庭には子どもがいたので、お互いを助け合うことができたそうです。
2年後、今度は茅ヶ崎に転勤することになり、ご両親と一緒に住むようになりました。子どもの小学校ではPTAの係員になり、お父さん、お母さんたちと役割分担しながら、子どもと地域を繋いでいく環境を作ろうとしました。同時期に、会社を辞めて自営業を始めたご主人を手伝ったり、お友達のご主人のレストランでは料理の準備のお手伝いとしてアルバイトすることも始めました。
結局子育てをしながら何らかの形で働き続けていましたが、若くしてご主人が急逝されました。精神的、感情的に大変な中、経済的なプレシャーにも直面し、またフルタイムで仕事を始めました。
その時から30年近くずっと働いてきましたが、
「仕事の達成感というよりは、生活のためということがありましたから。自分がその仕事をやりたいと思ってやった仕事ではありません。」
村山さんは言います。ただ、最後に出会った「出版会社の写真を整理する仕事」は、会社の役に立ったという感じることができたそうです。会社に意見を求められるようなことはありませんでしたが、ヒエラルキーも強くなく、楽に働けたそうです。
村山さんが60歳の頃、高齢になった母が病気になり、1ヶ月入院しましたが、「どうしても家に帰りたい」と言うので、村山さんは全てを手配しました。家に戻った後のサポートをケアヘルパーと二人の姉妹と介護を分担し、94歳まで看取るまで、仕事と両立しながらお母さんのお世話を続けました。
現在村山さんは70代半ばです。4年前に退職し、やっとゆっくりできるという感覚を持ちながら、ボケ防止のためなるべく頭を使うよう、囲碁とコーラスに参加、かがやき亭にも良く来ています。
■大井妙子さんの場合(ももの会の代表)

大井さんの小学校時代は、戦争で親を亡くしたり、怪我を負ったご家族を持つ子どもも多く、貧困と混乱の時代でした。裸足で学校に来る子や、お弁当を持っていない子どもおり、生きるために助け合わなければならない状況でした。先生は自分のお弁当を子どもにあげたり、それぞれの大変さを少しでも楽にしようとしていたそうです。そうした姿に影響を受け、皆で困難に立ち向かうための一歩を踏み出すという大切さを学びました。
また、大井さんにとってお母さんも大きな存在で、大きな影響を受けました。戦後、教育が大きく変わり「国のために」という思想が、「それぞれの個人とために」へと変わりました。また憲法が成立され、女性も初めて選挙権を得て、法律的に男女平等の時代になりました。戦争に対する反省も原因の一つかもしれませんが、お母さんは教育と普選運動熱心で、よく小さい頃から大井さんに、
「これからの女性は男性に判断を任せるではなく、自分で判断できるように学んで生きていく必要がある」
と、女性の自立性、女性の権利の重要性を伝えました。大学を卒業したら結婚し、子どもができ、専業主婦になる道に進みましたが、子どもが成長すると様々な後悔が浮かびました。夫は会社で充実した仕事をしていて、子どもも自分の世界を持ち始めたのに、自分自身のアイデンティティがないということに気がついたからです。
「長く専業主婦として生活したので、これをやっていこうというものがなかったです。」
このまま受け身の生活を続けていても大丈夫なのかしら?、と大きな疑問が現れたそうです。
ちょうどその頃、一家で世田谷区から杉並区に引っ越しました。杉並区の市民運動は広く知られており、中でも『杉並区の女性史』という本が記録するように女性の活動家の役割がとても重要でした。たくさんの活発な女性に囲まれ、反原爆運動、人権問題、子ども支援、環境問題が身近になり、どの取り組みに関わったら良いか迷いましたが、生活で培った介護のスキルを生かしたいと思い、学校に行くことにしました。福祉と介護を勉強することで、改めてアイデンティティを構築し、本来の自分を取り戻す機会になりました。資格を得てからは、より積極的に地域で活動するようになりました。2000年には「ももの会」というNPO法人を設立し、少子化のため教室が空いていた桃井第三小学校で、“人と人とを繋ぎながら地域に根ざした福祉のまちづくり”を目指した高齢者在宅サービスセンター「桃三ふれあいの家」を運営し始めました。また2011年には「かがやき亭」というまちのレストランを開設しました。介護保険の対象にならない方のサポートを含め、デイサービスを安く提供し、気軽に集まり、趣味活動ができるような空間を作ることで認知症や孤独死を予防し、地域の中で個人と個人との間に新しい繋がり生み出しています。それぞれの個人の特徴を大切にしながら、新たなネットワークを作り、目の前の問題を取り込もうしています。
「認知症では他のことを完全に忘れても、人間性が最後まで残ります。性格はどこまで作られたか、人間の尊厳というか、すべて忘れても最後に残っているものは本当にすごいと思います。これは人間の本当の値打ち…。決して他のことが分からなくなっても性格を失うわけではなく、その人の優しさ、その人らしさ、礼儀、奥ゆかしさが根本的に存在します。認知症になっても楽しい気持ち、嬉しい気持ち、傷つけられた気持ちが生きています。それと同時にとても強い意志を持つ方もいます。気の毒な話しなのですが、自分の意志で断食をして亡くなった方もいるし、他の方法で自殺した方もいます。頭がしっかりしている方だったのですが、様々な理由でその道を選びました。そのようなことが起こらないようにそれぞれの人間性をもっと尊敬し、生きていく道を開きたいのです。」
大井さんお母さんは、大井さんの幅広い市民運動を見て時々戸惑うようなこともあったようですが、亡くなる前、自由学園の羽仁説子の言葉を引用しこのような手紙を送ったそうです。
「あなたの望むことが本当の望なら、時々消えたり、すいたり、明滅するかもしれませんが、あなたの望むことは皆の望むことでしたらきっと適うでしょう。続くのが大事です。」(羽仁説子)

デイケアを通して今まで2500人のお年寄りの方のサポートに関わり、様々な方の貴重なライフストーリーを聞いてきました。今では、「時間がある時にその物語を本としてまとめたい」と思うようになったそうです。変わっていくことより、人がここで生きて心に残したことを受け止めて、次に繋いで行くことは、街を愛するという意味では大事なことではないか。インタビューの最後に、大井さんはこういう言葉で表現しました。
「私が深く共鳴した、母の言葉があります。“生活は政治だ。政治は生活だ”」
■橋本しめ子さん(床屋)

橋本さんは、昭和27年に福島から善福寺に引っ越してきて、床屋を開きました。その頃、近所の商店街に銭湯があったので、床屋を開店するには良い場所でした。始めは少なかったお客さんも、少しずつ町に人が移り住んできて、少しずつお客さんも増えました。3年後には、小さなお店ながら、5台の席を置き、6人のスタッフを雇うようになりました。
「常連さんがいるからやめられないのです。」
最近倒れて入院もしたのに、立てるうちは続けるという強い意志を持っています。他の床屋さんに髪の毛を触られたくない、橋本さんではないとだめだというお客さんも多く、
「あなたしか私の髪型がちゃんと切れないのですから、死なないでね」
と冗談を言う方もいます。4年前息子さんが亡くなり、現在1人で住んでいますが、毎日近所の方が訪ねてくれるので、安心で、寂しくない生活を送っています。
■井苅さん(清掃員)

ゆうゆう館の一番活発なメンバーと言われるいかりさんは、信じられないほどのパワーの持ち主です。参加しているサークルは6件くらいで、それ以外にも積極的にいくつかのグループに参加しています。二つのゆうゆう館にも通っているので顔も広くて、どこに行っても話しかけられます。カラオケから伝統的なダンスや民謡まで多様な文化活動されています。家では家族で経営している中華料理屋さんのお手伝いをします。朝5時からは、遠くにある児童館のお掃除もしています。
「疲れないですか」と聞いたら、
「疲れるなんて言ったらやらないだよ。ささいなことかもしれませんが、ちゃんと力を入れて、まじめにやろうとしたら、やっていることを誇りに思える」
とおっしゃいます。




上記のインタビューを見ると、30~40年前と現在の社会状況が変わってきたことが見えにくいところもあるかもしれません。インタビューをした方の多くは、結婚し、出産し、専業主婦になるという流れを当たり前のように経験されているのですが、そのことを疑わなかった場合もあるし、それに対する疑問から新しい行動に移る場合もあります。妻や母としてのキャリアは限られていましたが、その例外として、自分のビジネスを運営する方、コミュニティで重要な存在になった方、または仕事の定義とその価値システムを問いかける方もいます。一つの狭い地域の中から、6人の女性のインタビューを取りましたが、当然、それぞれの違う生き方、考え方、働き方、価値観が見えてきます。

2020年までに、女性議員を含め、指導的な地位に占める女性の割合を30%にするという政府の目標があったのですが、2015年12月に、その目標は7%にカットされました。現時点では女性管理職率は3.8%、衆議院議員が9%、参議院議員が14%、3割は程遠い目標だったようです。逆に、2020年に3割を達成するのが、65歳以上の人口です。政府はそろそろウーマノミクスを捨てて、高年齢者雇用に力に入れるでしょう。日本の人口が変動するとともに改めて様々な働き方、生き方、背景、価値を持つ人が共存できるような社会の必要性が益々見えてきます。それを実現するためには、社会の柔軟性と支援が必要です。上記の女性の何人もが「主婦」や「年金受給者」としてのアイデンティティを持っていますが、資本主義の側面からお金を稼がない存在は「非生産的な存在」としてされている中、そもそも「生産性」の概念それ自体を再検討しなければならないでしょう。日本の第二波フェミニズムの中心にいた飯島愛子は「モノの生産から命の生産へ」の転換の可能性を主張しましたが、これは少子化対策ということではなく、男でも女でも「モノを消費する環境」ではなく「生命を育てる環境」が作れるということではないでしょうか。この6人の女性の生き方から見えるように、直接的に経済と繋がる「仕事」ではなくても、市民活動、育児、介護などが社会を支えているので、無償の労働であっても大きな価値があるということは間違いません。これからどのような性別・ジェンダーであっても、自分なりの働き方・生き方で、自分なりの価値を生み出す必要があります。そのために家族の固定概念も変える必要がありますし、ジェンダーロールも壊すことも必要で、また飯島愛子が示したように自分たちがお互いの差別の加担者であるということを意識するべきでしょう。それは複雑な問題で、ここでは解決できませんが、過去に何があったのか、現在どのような状況があるか、それを考える時、これからどうしたいかが少し見えてくるでしょう。
 
現在社会に出ている女性も男性も、この6人の物語にこれからの働き方の多様な可能性を感じてもらえたらと思います。

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