齋藤彰英
Akihide Saito
《移動すること》構造線と塩の道
太古の記憶が刻まれた糸魚川静岡構造線。私達はこの険しい地形を巧みに利用し、移動を続けてきました。その移動は縄文期にまで遡ることができます。また、長い時間の中で道は信仰や文化を作り出しました。私は、この道を移動し、追体験することで、私達の体に刻まれた始原的な記憶を掘り起こしたいと考えています。
01 《移動すること》構造線と塩の道 ①
私は2011年から、日本列島誕生の際に生まれた「フォッサマグナ」、特にそれの西縁に位置づけられている「糸魚川静岡構造線」をリサーチし、写真作品を制作・発表してきました。そこでは、長い時間をかけて形成された地形、束の間に消え去る現象、そして私達の体や生活に目を向け、カメラを通してそれらを重ね合わせることで、始原的な形を掘り起こそうとしてきました。
言葉の通りにその始原的な形とは、複雑化した社会の中で見えづらくなった私達のルーツです。近代社会によって生み出された価値観の中で私達の個人としての確かさを取り戻す為には、不確かながらもあるそのルーツを掘り起こすことが重要だと感じています。

そうした活動の中で強い興味を持ったのが「塩の道」です。
山間部で塩の生産ができない日本では、かつてから海岸沿いの土地で海水を炊くなどの手段で塩が作られました。その塩を海から山間部まで運んだのが塩の道です。塩の道は、全国の各土地に存在しますが、前述したフォッサマグナ、糸魚川静岡構造線と深い関わりを持つのが、長野県塩尻市から新潟県糸魚川市を繋ぐ「千国街道」と、塩尻市から静岡県牧ノ原市を繋ぐ「秋葉・伊那街道」です。千国は北塩、秋葉・伊那は南塩と呼ばれています。

街道の歴史は、先史時代にまで遡ることができ、紀元前3000年前の縄文後期には塩と、八ヶ岳周辺で採れる黒曜石の物流が生まれていたであろうと推測されています。また、南塩「秋葉街道」の由来でもあります秋葉山が文明2年(1470年)に開山され、秋葉信仰来目※1の道としても発展しました。

秋葉街道について特筆すべきは、街道が通る地下で中央構造線と糸魚川静岡構造線※2が交わっていることです。太古より続く大地の変動を足下にしながら形成されたこの道は、幾度となく大規模な災害の影響を受けてきたことでしょう。それでも尚、この道は先史時代から脈々と受け継がれ、他地域との交流・物流・産業・信仰を育んできました。

しかし、慶長8年(1603年)に徳川家康が江戸幕府を関東に設置する為に真っ先に指示した東海道の大規模整備を筆頭に、明治22年(1889年)新橋ー神戸間の鉄道開通、昭和44年(1969年)東名高速道路の開通などによる大規模交通網が発達します。さらに、明治38年(1905年)の明治政府が施行した塩の専売制(1997年廃止)によって、自由な塩の生産と売買が禁じられ、国によって管理されることになりました。塩の専売制は、国の安定的な財源確保と、山間部などへ満遍なく塩を分配することで国民の生活環境・健康状態を確保する為の二つの理由がありました。塩は、私達の体の中にある老廃物を体の外に出す為にとても重要な役割を持ちます。当時の山間部の僻地では、塩の不足による衛生・健康面の困窮が問題となっておりました。明治期に日本を旅したイザベラ・バード(英)の「日本紀行」には、その様子が随所に記述されています。これを解決する為に、当時の政府は塩の専売制を全国に敷き、日本全体の健康状態の改善を図りました。

そうした変動によって、個人や村単位で使われていた秋葉街道は使われる機会が薄れていきます。今では人が通らなくなったことで街道の難所である青崩峠は荒廃し崩落によって通行が困難な状況になっています。さらに、ここ数年の活発な地殻変動から考えてみると、この秋葉街道が山深い谷の中に消えていくのも時間の問題に思えます。

消えゆきつつある存在ではありますが、先史時代の人々が深遠なる山々の中に分け入り、幾度も踏み固め、連綿と続いた日本の歴史を記憶するこの塩の道は、別の手段を手にした現在の私達にとっても深い繋がりと、始原的な形が隠されているように私には思えます。変動とともに息衝き文化を育んだこの道を追体験し「塩の道」に見える地形・現象・営みをここに掲載していきたいと思います。





《おぞい道/弔いの記憶》

私の出身が静岡ということもあり、塩の道フィールドワークは相良にある街道の起点から北へのぼっていくことにしました。しかしながら、起点から数百メートルのところでさっそく道を見失ってしまいました。というのも、国道150号「南遠道路」の真新しい大きな橋脚が街道を横切り、街道は草陰と紛れてしまっていたからです。
水田の手入れをしていた地元の農家の方に街道の場所を尋ねると、ご年配の女性は「あ〜、あのおぞい道だよ。」とうっすらと窪んだ草陰を示してくれました。
牧ノ原市相良の水田
塩買坂付近の塩の道古道
塩買坂付近の塩の道古道
「おぞい」とは静岡の方言で、「悪い・粗悪」といった意味です。私は久しぶりに聞いた静岡の方言に何とも言えない懐かしさを感じ、道中で写真を撮る度に何度もその言葉をかみしめ、つぶやいていました。
また、興味深いことに「おぞい」は信州街道の終着点である長野でも同じ意味で使われています。つまり、方言「おぞい」は、構造線による地震によって荒廃を繰り返す地理的状況と、街道が紡ぎだした文化的意味合いの両方において「秋葉街道」を端的にあらわした言葉でした。

ただ、なぜそんなおぞい道を通って重い塩を運んだのか?という疑問も同時に生まれます。それには運搬に用いた動物が一つの要因であり、そこにおぞいことの重要性があったのです。
塩の道では馬と牛が荷物の運搬に使われていました。特に牛は馬よりも多く活用されました。牛は遅いものの持久力・脚力が当時の馬よりも長けておりました。さらに牛は道草を食べたために道中に食料の確保が不要でした。強靭な脚力を持つ牛を使用する際、大きな街道沿いを歩くよりも、道草が多くある細い脇道を通る方が好都合だったというのです。
実際に道を歩くと不思議にも思えてくるそのおぞさは、かつての日本人が様々な環境を巧みに利用した痕跡でもありました。
牧ノ原塩の道沿いの馬頭観音
正林寺法物 開基今川義忠公自作像
正林寺本堂内の記録写真
正林寺本堂内の記録写真 正林寺外観
そんな塩の道沿いには、多くの馬頭観音が祀られています。民間信仰としての馬頭観音は馬の神とされ、旅の安全を願って造られますが、旅路で馬が死ぬとその弔いとして安置された側面があります。その為、街道沿いに見る馬頭観音の数だけ、そこにはかつての人の営みの物語が刻まれているのです。

馬の命を弔う為の馬頭観音同様に、菊川市の塩買坂(塩の道)には山寺「國源山 正林寺」があります。ここもまた街道に刻まれた弔いの形です。正林寺には約500年前の駿河を統治した守護大名今川義忠が弔われています。応仁の乱時に東軍に加わっていた義忠は、東軍内での反乱を企てた武将との戦に出ます。義忠は敵武将を討取りましたが、その戦からの退陣の際に塩見坂で残党によって命を奪われたとされています。正林寺は、義忠の御霊を供養するため、没後41年に嫡子氏親によって開山されました。

そうした伝承の一方で、実際にこの「おぞい道」を歩いて気づくことがあります。それは、「なぜこんな細道を通って退陣したのか?」という疑問です。勝利した武将が小川に沿う細道を歩くのでしょうか。この景色を見たとき、私には勇ましく悠々と歩む武将の姿は見えてきませんでした。
「牛と道草」と同様に、そのことについて改めて調べてみると、これまでの通説とは異なり「義忠自身が幕府に反抗した張本人であり、周辺の武将との戦に敗れ逃げる途中に残党に討たれた」という説が提唱され始めています。

私には、500年前のこの山中で起った出来事の真相を知ることはできません。しかしながら、鬱蒼とした小川にひっそりと差し込んだ光は、おぞい道に刻まれた敗走する武将の記憶を浮かび上がらせているように見えました。
正林寺境内を通る塩の道
※1 秋葉信仰--- 火防せの神。明治期以前は神仏合祀。この秋葉山までの道を秋葉街道といい、様々な土地からの秋葉街道が存在する。
※2 中央構造線--- 九州地方から関東までを東西に貫く世界最大級の断層帯。
   糸魚川静岡構造線--- 2000万年前に日本列島を東西に分断したフォッサマグナの西縁。長野県の分杭峠周辺で、糸魚川静岡構造線に引き上げられるように中央構造線が褶曲し交わっている。


参考資料
書籍
「ものと人間の文化史 7『塩』」(平島裕正著、財団法人 法政大学出版局、1973年)
「博学紀行 静岡県」(福武書店、1983年)
「塩の道」(宮本常一著、講談社、1985年)
「図録 天竜川」(浜松市博物館、1986年)
「塩の道ウォーキング」(静岡新聞社、2000年)
「図録 正林寺【解説部】」(該当部著者:久保田昌希、発行元:田中良昭(正林寺 28世住職)、2002年)
「しずおかの文化 2006年秋号『しお・塩・鹽』」(財団法人 静岡県文化財団、2006年)
「塩の道ウォーク」(日外アソシエーツ株式会社、2007年)
「豊田市郷土資料館特別展『塩の歴史と民俗 -三河の塩生産と交易- 』展覧会図録」(豊田市郷土資料館、2009年)
「イザベラ・バードの旅『日本奥地紀行』を読む」(宮本常一著、講談社、2014年)

webサイト
「信州遠山郷」制作:遠山郷観光協会
「白髪閑人の足跡」制作:白髪閑人
「日本シームレス地図」制作:産業技術総合研究所 地質調査総合センター

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