齋藤彰英
Akihide Saito
《移動すること》構造線と塩の道
太古の記憶が刻まれた糸魚川静岡構造線。私達はこの険しい地形を巧みに利用し、移動を続けてきました。その移動は縄文期にまで遡ることができます。また、長い時間の中で道は信仰や文化を作り出しました。私は、この道を移動し、追体験することで、私達の体に刻まれた始原的な記憶を掘り起こしたいと考えています。
04 《移動すること》構造線と塩の道 ④
■ 秋葉山の歴史

世界から注目を集める「秋葉原」。この地名の由来となったのが、火伏の神を祀る「秋葉山」(静岡県浜松市天竜区)である。現在、この秋葉山の山頂には秋葉神社(あきはじんじゃ)と、そこから少し下った山中に秋葉寺(しゅうようじ)がある。この二つは、明治期以前までは神仏習合の形をとっていた。また、戦国時代の動乱に巻き込まれ一時は衰退していたが、徳川家康の命によって復興がすすめられ、全国的な信仰と分社建立が広がった。その証に、秋葉山を中心に東西南北に連なる「秋葉街道」が整備され、東海道をいく伊勢参り同様に秋葉参りが流行した。この秋葉街道の南北の連なりは、「塩の道」と重なっている。その為、「塩の道」リサーチとして昨年末12月15日に秋葉山秋葉寺でおこなわれた「火まつり」のリサーチへと向かった。

この火まつりは、秋葉寺、秋葉神社ともにおこなわれる。しかし、塩の道との関係を考えた際、秋葉寺の火まつりを見る必要があった。なぜなら、明治維新以降の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動によって本来山頂にあった寺は廃滅し(明治13年、現在の場所に再建)、同場所に残った秋葉神社が火之迦具土大神(ひのかぐつちのかみ)を祀る秋葉山総本宮として信仰を引き継いでいる。しかし、元は「大登山」とよばれていた秋葉山は、行基(ぎょうき)によって西暦718年に大登山霊雲院(後の秋葉寺)が建立され、塩の道沿いに連なる秋葉・光明・竜頭・常光寺・熊伏山に白山・熊野山岳信仰が流入し栄えた場所である。そして、それらの修験者は、信州に生まれ修行の積み重ねによって烏天狗へと変化し全国を飛び回った三尺坊を信仰の対象としていた。ここでは「秋葉三尺坊大権現」と呼ばれている。

こうした理由により、「《移動すること》構造線と塩の道」と題するフィールドワークにとって、地形と密接に関わり、塩の道を伝って南北から流入した山岳信仰の景色が残る秋葉寺の火まつりを見る必要があった。
■ 蘇る山寺

今回は山頂から秋葉寺へ向かうことにした。山道の途中、立派な山門が現れる。秋葉山は幾度か山火事に見舞われたため、この山門が唯一残る江戸時代の建築である。そこからさらに下ると、秋葉寺は現れる。寺は荒廃が進んでおり、特に台座だけを残し崩れたままの二つの常夜灯からは、この寺に来るものが滅多にいないことをうかがわせる。しかし、その台座は幅2メートル以上あり、かつてのその姿を想像すると、この場所がどれほど重要な信仰の場であったかを推測できる。
一方、山頂にある秋葉神社は大変立派な本殿や金色に輝く鳥居が象徴的で、それとを比べると、明治以降に苦杯をしいられた秋葉寺の歴史がさらに際立ってくる。秋葉寺には午後3時に到着した。ちょうどその頃境内では、50~70代と見られる7・8人の男性たちが火まつりの準備をおこなっていた。大量の薪が護摩壇用に積まれ、また結界のための縄が周囲を囲んでいた。彼らは縄や紙垂(しで)などの細かな調整を終わらせた。雑談をする彼らの輪に入れてもらうと、この祭の準備を指南するために長野県諏訪から来ていた80代の男性や、愛知県一宮から訪れていた男性を紹介された。修験道の祭事でこうしたことはよくあるらしく、各土地で開催される祭に助っ人として他の土地から集まるのだという。彼らは、火まつりの為に一週間以上も秋葉寺に寝泊まりしているようで、私はその宿舎として使われている本堂脇の母屋に招かれた。
お勝手口から案内されると、延べ床30帖以上はあろう土間が広がっていた。土間には古い釡戸や赤レンガの煙突、映画「千と千尋の神隠し」のような世界が広がっていた。この建物は明治期から使われており、床や建具はかなり傷んでいるものの、随所からかつての日本文化がリアリティーを持って語りかけてきた。
この広い台所以外にも、畳の敷かれた大広間が幾つかあった。しかし、私は小さな囲炉裏のある3帖ほどの部屋に通された。大広間よりも、こうした小さな部屋が一番暖をとれるのだと男性たちは口々に話す。部屋の横にある廊下は活気に溢れ、僧侶たちは祭事の準備、世話役の女性たちは寝床や夕飯の準備のために忙しなく行き来していた。しかし、普段は一人の管理人だけがここで生活をしており、とにかく寂しい山寺だという。そして、この火まつりの時だけかつての寺の景色が蘇るのだと聞いた。普段は火の気のない釡戸では、役目を取り戻した釡たちが活き活きとしていた。
そうした話をしているうち、彼らは食事の為に席をはずした。私も辺りを散策するために外へ出ると、境内では炊き出しが振る舞われていた。前回レポートした湯立神楽「花の舞」同様に、赤みそを使った五平餅と、豚汁が参加者の体を温めていた。しかし、まだ人の集まりは少なく、やはりこの祭も後継者や参加者不足に悩まされているらしいが、秋葉寺の若い僧侶たちの活動がみのり、ここ数年は参加者や炊き出しの支援などが徐々に増えているらしい。
■ 火まつり

午後8時、8名ほどの僧侶による読経が本堂で執り行われる。野太い声で読み上げられるお経は、荘厳さと迫力をもっていた。次に、本堂から離れた三尺坊が祀られる小さなお堂に向かう。僧侶はそこでの読経を終えると観衆に向かって幾本かの御幣を投げ入り、観衆は暗闇の中で御幣を奪い合う。時に、奪い合いが白熱することもある。この御幣の投げ入れは、同時刻に火まつりをおこなう秋葉寺分社へ三尺坊が舞向かうことを意味している。また、僧侶が神道の道具である御幣を振ることは、この土地が神仏習合であったことを思い起こさせる。(同じく、本堂にはしめ縄が結ばれている。)またこれが終わると、大黒が安置される別のお堂で同じく読経と縁起物の「餅」が撒かれる。この頃になると少しずつ人が集まり、幼い子供も見受けられた。その後、法被を着た地元住民の男女5・6名が纏(まとい)を突き上げながら、結界の周囲を掛け声とともに2周ほど練り歩く。そして、いよいよ火まつりのメインである護摩壇がはじまる。
暗闇の中、母屋から白装束をまとった7・8人ほどの山伏と、僧侶たちが現れた。まずは本堂脇で山伏たちの持つ松明に火がつけられる。立ち上った炎は険しい山伏の表情を照らし出し、それによって私は私を母屋に案内しくれた男性たちが山伏であったことに気づいた。私は狐に摘まれたような思いをした。どこの町にもいそうな中高年の男性たちが、私の持つ山伏に対するイメージとはリンクしていなかったからだ。しかし、かえってそれは古美術でしか見たことのない山伏を、身近に感じさせた出来事でもあった。
山伏たちは護摩壇の中へ手に持つ松明を差し込み始めた。しかし、その薪の中央には白い布のような何かを頭上に抱える山伏が一人立っている。それでも周囲の山伏たちは次々に火をつけ、次第に大きな炎が立ち上がる。いよいよ炎が腰丈まで迫ると同時に、その山伏は頭上に抱える何かを手放した。その瞬間、それは燃え盛る炎の熱を受け雄大に舞い上がり、3メートル四方の大きな凧になったのである。また、それは結界の支柱となっていた4本の竹と繋がれており、竹を山伏たちが操ることで、さらに高く高く昇っていくのである。凧は熱を受け右往左往した後、一人の山伏の合図によって観衆のもとに引き下ろされる。すると、御幣同様に観衆はそれを奪い合い、引き千切っていく。これは天蓋(てんがい)と呼ばれるらしく、彼らはその断片に1年の泰平を願う。
ちなみに日本に於いて凧は、願いを込めたお札を天空に飛ばすことが始まりで、この天蓋もまたそうした意味を持つ原始的な凧の形と見られる。
天蓋がおろされ山伏の読経が続く中、護摩の炎はますます強くなり、周囲は猛烈な炎の熱に取り囲まれていった。その熱によって私のカメラは壊れてしまったほどである。
次第に落ち着き炭の上を這うようにして炎が波打ちはじめると、4人の山伏は火に向かって刀を振り下ろしながら九字(くじ:臨兵闘者皆陣列在前)を切った。また、1人の山伏が太長い竹を巧く使い、まだ所々に炎が上がる炭を散らし満遍なく均していく。最後に、山伏たちは東方にあたる護摩壇の一辺から、まだ火が踊る炭を素手で3度掬い上げ、山伏が最初に火をつけた場所へとそれを納めた。こうして護摩壇は一連の行事を終える。

しかし、信じがたい光景が目に飛び込む。山伏たちは、火を掬い上げた東の一辺から、西側に向かって素足でその上を歩き出したのだ。私は、この火まつりが護摩壇のみだと思っていたため、彼らが火を蹴散らし次々と火渡りをおこなう景色に度肝を抜かれた。さらに、周囲で見守っていた観衆を結界の中に招き入れ、幼い子らも含め彼らもまた次々と渡っていったのである。ある人は呼吸を止め一心に渡りきり、またある人は突き刺さる熱に歩行がままならず余計に脚を突っ込んでしまっていた。私も山伏たちに促されるままに火を渡らせてもらった。熱いというよりは、足裏を針で突かれたような感じがしたが、後で脚裏を確認するとちゃんと火傷をしていた。

全ての人が渡り終わると、山伏は一部の炭を母屋へと運び込み、残りを地元消防団が丁寧に消火した。こうして「秋葉寺火まつり」の全ての行が完了したのである。
火を渡り終えた観衆たちは、しっかりと靴を履きなおし、暗い山道の中へと消えていく。一方、大きな熱に包まれていた境内は消火による大量の湯気の中にかすみ、秋葉寺はまた静かな山寺へと戻っていった。
■ 秋葉寺が生み出した景色

1300年以前から使われる暗闇に沈んだ古道を帰る中、立ち上る炎と昇天する天蓋、それに照らされた山伏たち、そして佐久間でみた湯立ての景色は何であったのかを思い返した。
火まつりの中で、この疑問に対して一つの言葉を与えてくれた人と出会った。彼は、凧造り名人として有名な人物で、現在は山伏として富士の麓に自分の山寺を手作りしている。今年6月に完成するらしい。炊き出しを食べながら、先にあげた凧の話など色々な話を聞かせていただいた。
その会話の中で、「火まつり」や「湯立神楽」などのそれらは、「一つの見せ物として発展したのではないだろうか」ということだった。つまり、様々な信仰を民衆に広めるため、彼らは修行の様子を見せ、あるいは信仰の内容を歌や舞などに変えた。また、近代的な娯楽がまだなかった時代、祭事は一つの娯楽として民衆に提供されていたのだろう。できるだけ盛大におこなうことで、民衆はその景色を楽しみ、同時にその奥にある信仰を言葉ではないかたちで理解する。
実際に、佐久間の湯立神楽では「天岩戸伝説」を釡茹と歌によって再現し、夜通し続く舞手の苦しさを観衆は共有する。そして最後に釡の湯を全員でかぶり歓喜し、太陽と山の再興を願う。また加えて、佐久間の湯立てでは老婆や遊女に扮した4人の舞手が踊りながら、五平餅の赤味噌を観衆の顔に塗りたくる演目がある。このときの観衆の表情は笑いに満ちており、まさに喜怒哀楽を堪能できるエンターテイメントであった。
火まつりも同様に、御幣や餅、天蓋を手に歓喜し、観衆を取り取り囲んだ炎の熱を全身で共に受け止める。
そうした目線で見ると、辺境な土地の奇祭とし見られがちなこれらの祭は、現代と共通する身近な文化として感じられる。しかし一方で、個人的な消費に終わってしまう昨今のエンターテイメントとは異なり、自然環境を含めた壮大な群衆として強固な感覚の発生と共有を可能にしてくれる場所でもあった。

記事一覧