坂田太郎
Taro Sakata
土地通い
ひとつの土地に通っている。神奈川県横浜市。観光客で賑わう臨海部から南西へ15キロ。内陸部の郊外住宅地のなかに、ぽっかりと空地のように広がる直径1km、円周3kmの円形の土地がある。その土地へ、隣接する幼稚園に子供の送迎のため通っていた父親は、いつしか気まぐれにカメラで記録するアマチュア写真家となり、偶然の出会いから素人の家庭菜園家となる。その後、土地の「返還」という大きな出来事を前に、美術家3人に声をかけ小さな活動を始めると、彼・彼女らと通うなかで、コーディネーター、資料収集家となり、土地にまつわるささやかな資料室を開設する。
ひとつの土地に通うなかで、そこでの労働のかたちが、横へ横へとずれていく。ずれるなかで、その土地の別の様相が見えてくる。7-8年が経過しただろうか。進行形ではあるが、このドリフトが残した跡をふりかえり、この土地で見たこと、感じたことに、自分なりに言葉をあててみたい。
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横濱開港150周年 深谷通信所跡地利用 アイデアコンペ
事前登録 09.6/22(月)締切
作品受付 09.8/3(月) ▷ 09.8/24(月)
横浜から始める首都圏の環境再生
直径1km円形(日産スタジアム11個分)の空間活用アイデアを募集します!


趣旨:深谷通信所は、2004年に日米政府間で返還方針が合意された横浜市内の米軍施設です。返還後の跡地利用について、直径1km円形形状(面積約77ha、全域国有地)という特徴を活かした、首都圏における貴重な大規模空間資源にふさわしい創造性あふれるアイデアを広く求めます。

(深谷通信所跡地利用 アイデアコンペ チラシより)
園庭の奥に二階建ての木造の園舎があった。中には吹き抜けの広場があり、それを小さな教室が囲んでいた。ある夏の午後、円形の土地が良く見える教室に、父親十数人と子供たちが集まった。一枚のチラシが回された。横浜港の開港150周年を祝う記念祭の一環で、円形の土地を対象にアイデアコンペが開催され、跡地利用について広く意見を募るという。これまでも、そしてこれからもこの土地は子供たちの大事な遊び場だった。
「親父の会で参加したいと思うんです」
夜間高校で家庭科を教える父親が音頭をとった。奥から麦茶を手に園長が現れた。
「未来の子どもたちにとってこの場所がどうなったらいいでしょう」

園長は大人にも子どもにも率直な小柄の女性だった。40数年前に彼女がこの地に赴任してきた頃、周囲で宅地開発が進むのとは対照的に、田畑に谷戸川、松や楢の林など、ここはかつての面影を色濃く残す場所だった。朝の通勤時、現在の倍はあった雑木林を前に、彼女はショスタコービッチの『森の歌』を口ずさんだ。ロシアの森とスケールは大きく異なるが、それを想起させるほど、緑深い風景がここにはあった。春の芽吹きの時期は本当に美しかった。
ある日、林に丸太が転がっていた。彼女と子どもたちはその丸太に乗って遊んだが、そこが資材置き場になるのにそう時間はかからなかった。どこからかダンプカーがやってくるようになった。廃材や資材を山のように積んだ荷台を傾け、走り去る。しばらくして重機が運び込まれ、土地を真っ平らにする整備が始まった。この光景は数年にわたってここの日常となり、その周囲に住む誰もが目に焼き付けた。次第に子どもたちがお弁当を食べた林は薄くなり、小川は用水路に、芹が自生していた田んぼの畦は平らになった。子どもたちは積まれた廃材や資材に登った。大雨の後、増水した用水路はザリガニでいっぱいになった。園とPTAは米軍に陳情書を書いた。
「ほら見てリスがいる!」
突然窓の外を指差して彼女は言った。
「そこそこ。いつも3匹で来ているんだけど」
親父の会の面々は、製造メーカーに技術者として勤める者、橋脚の建設に従事する者、塗料の研究者……、あいにくコンペのテーマである「首都圏の環境再生」を専門的に考えられる者はいなかった。「新たに公園を整備する、施設を建てる、そうしたアイデアはどうも賛成できない」「子どもたちの原っぱのような今の状態を次の世代に残せたら」 それぞれの思いを語り合い、それを申請書類に描き込んで提出した。コンペは国内外の大学研究室、プランニング会社から応募が集まる本格的なものだった。一次審査で落とされたが円形の土地への興味が失われることはなかった。コンペが未来への関心を呼び覚ましたからだ。ここが通信基地として必要な時代はとうに過ぎ去っていた。正式返還は近く、数年すればここの風景は一変する。

横浜の臨海エリアは開港祭で賑わっていた。正式名称は開国博Y150。150年前の横浜の開港の記憶は開国の記憶と重ねられ、それは「国家の記憶」を喚起する一大イベントとなっていた。その一方で、この一大コメモレイションが実施したコンペは、遠く横浜の辺境にある一つの土地についての、記憶を巡る小さな議論を喚起した。コンペ入選者と審査員によるシンポジウムのレポート記事を読んだ。さまざまな意見が出される中、審査員と入選者のいくつかの発言に目が止まる。
審査員A「あの場所は昔から国有地ではなく、農家の方々が昭和12年に旧海軍から僅かな額で強制的に譲渡を迫られるという無念な思いの残る土地であることを、利用にあたって真剣に考えなければなりません」
入選者B「鉄塔はシンボルタワーとして残し、米軍施設があった土地の記憶として活かせればと思います」
審査員C「鉄塔の活用と歴史が分かる施設の併設を望みます」
土地接収は地元の町内会長の発言だった。私は彼の話から園庭にひっそりと立つ記念碑を思い起こした。

生協住宅の建設に奔走したのは、1905年に朝鮮の端川で先祖からの土地を奪われた農家の子どもだった。彼は満州を経由して東京へ、戦時下の日本で労働者組合運動に参加し、戦後の横浜で横浜生協を創立。日本の消費者流通に大きな影響を与えた。労働者の要望に応えようと住宅造成の候補地を探した結果、彼はこの土地に辿り着く。東アジアを横断する、もう一つの土地を奪われた者の話を、誰かが残した小さな記念碑が語り継ぐ。
日本軍による接収の記憶、土地を奪われた無念の記憶、米軍基地の記憶、これら一つの土地に交錯する幾つかの記憶は、未来の想起に向けてどのように形象化されるのか。発言にあったような、シンボルの保存、歴史館の建設がなされるとして、それは誰によって、またどのような判断のもとに。

立入禁止区域の正面ゲート脇の掲揚棒から、いつのまにか星条旗と日の丸が消えていた。
私は暇を見つけては一人土地に通い、歩きまわって写真を撮るようになっていた。
参考文献
『深谷通信所跡地利用 アイデアコンペ 報告書』(横浜市、2010年)
『ある人間像—菊田一雄と日本の協同組合運動—』(編集刊行委員会、生活ジャーナル、1988年)

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