坂田太郎
Taro Sakata
土地通い
ひとつの土地に通っている。神奈川県横浜市。観光客で賑わう臨海部から南西へ15キロ。内陸部の郊外住宅地のなかに、ぽっかりと空地のように広がる直径1km、円周3kmの円形の土地がある。その土地へ、隣接する幼稚園に子供の送迎のため通っていた父親は、いつしか気まぐれにカメラで記録するアマチュア写真家となり、偶然の出会いから素人の家庭菜園家となる。その後、土地の「返還」という大きな出来事を前に、美術家3人に声をかけ小さな活動を始めると、彼・彼女らと通うなかで、コーディネーター、資料収集家となり、土地にまつわるささやかな資料室を開設する。
ひとつの土地に通うなかで、そこでの労働のかたちが、横へ横へとずれていく。ずれるなかで、その土地の別の様相が見えてくる。7-8年が経過しただろうか。進行形ではあるが、このドリフトが残した跡をふりかえり、この土地で見たこと、感じたことに、自分なりに言葉をあててみたい。
01 土地通い1
1
U.S. NAVAL PROPERTY
UNAUTHORIZE USE OF THESE ROADS EXCEPT BY AUTHORIZED FARMERS IN THIS AREA IS STRICTLY PROHIBITED AND PUNISHABLE BY JAPANESE LAW NO DUMPING ALLOWED AT ANY TIME


此処は米海軍用地に付き此等の道路の使用は固く禁じます。又、侵した者は日本の法律により処罰されます。但し、此等の地区にて農作業の許可をされた方々は除外されます。基地内への護美の投棄も禁止されています。
(境界線に立っていた看板の警告文 *原文ママ)


円形の土地の境界線には、柵もフェンスもなく、看板だけがあった。看板は日本語と英語で書かれていた。その土地は米海軍に管理され、正式名称を「深谷通信所」という通信施設だった。幼稚園はその土地の南西部に隣接していた。
看板の内容は物騒だったが、横には踏み固められてできた道があり、それは土地の奥へと通じていた。周囲に住む人々は、その道を生活道路と呼んで、日常的に使っていた。幾つもの生活道路が、その土地をショートカットするように貫通していた。
子供の幼稚園の下見で、私ははじめてその土地を訪れた。妻が見つけてきた幼稚園だった。自宅から少し遠く、自転車で20分ほどの距離だ。私はここに米軍基地があることを知らなかった。それから仕事前の時間のあるとき、子供を自転車で幼稚園に送り届けるのが私の役目になった。
 
基地には米兵はおらず、敷地内をパトロールする2-3名の日本人従業員がいるだけのようだった。境界線はゆるやかだが、中央にはフェンスで厳重に管理された立入禁止の一角があった。出入り用のゲートがあり、その前を通るとき、何ともいえない威圧感があった。
その一方で、電波干渉を避けるために設けられた通信アンテナ間の空地は、休閑地となり、様々な活動に使われる「余地」となっていた。
例えば、フェンスのエリアをぐるりと囲むように、どこまでも広がっているのは、大きさも形も様々な無数の家庭菜園だ。菜園ごとに畝の配置、作物の選択、支持体と手入れの仕方、物置小屋の構造などが異なり、これまでの創意工夫の積み重ねが独自の表情を与えている。菜園間の小道に一歩足を踏み入れると、見飽きることがない。菜園を耕作しているのは周囲に住む住民たちだった。荒れ地を彼・彼女らが自ら開墾したこと、そして各区域の「班長」に相談すれば無料で借りられ、自由に菜園ができることを知った。
また、天気のいい週末には、ここは野球の聖地になる。横浜市泉区、戸塚区を本拠地とする小学生、中学生の野球チームが、それぞれ各所にホームグラウンドをもち、理想的な環境で練習と試合に励む。あらゆる米軍基地の例にもれず、ここ深谷通信所も、かつて米兵が余暇のための野球場を整備したようだった。2、3面だったそれは、その後、熱心な父母たちの手によって、ひとつ、またひとつと増えて行き10数面に増えていった。
もちろん、この土地の使われ方は、耕作や野球などのスポーツに限らない。虫とりに興じる子供たち、大人たちも散歩をした。何をすると決められていないが好きに訪れることができる、そういう余地がそこにはあった。
通いはじめて2、3ヶ月が経った頃、基地の象徴だった送信用アンテナ28基の撤去工事が始まった。すでに日米間で返還の方針は合意されていた。


2
……氏はまた多忙な日常活動の中にあっても幼な子たちをこよなく愛し、尊ばれました。この地に生協なかよし幼稚園を創立するため尽力されたのも、このような氏の人柄と切り離しては考えられないことは明らかであります。
(園庭に建つ記念碑に刻まれた献辞より)

円形の土地と幼稚園の境界に一本の大きな桜があった。その下には小さな記念碑が建っていて、裏に献辞が刻まれていた。
幼稚園を含むこの一帯は、「生協団地」と呼ばれている。1961年、若者労働者の間で「安い土地を自分たちで手に入れよう」という運動が起こり、横浜市生活協同組合(横浜生協 *当時)が、電気も、ガスもなかったこの地にひとつの理想郷を作ろうと開発したものだ。団地内には、松、柳、桜の並木道が通り、子供たちの広場、お店、診療所づくりなど、住民の運動によって町づくりが行われた。幼稚園もその一環で、住民たちの手で設立されたものだった。
園から借りた創立30周年記念誌に、宅地造成当時のことが書かれていた。越してきた人々が当時、この土地、この地域一帯に対してどのような眼差しをむけていたのか、それを端的に伝える表現に目が留まる。

「横浜のチベット」

横浜にチベット? 住宅地が広がる現在の風景と、荒涼とした山岳地帯、チベット仏教の聖地ラサの風景が、どうしても重ならず不思議な感覚に陥るが、当時移り住んできた人々にとってこの土地は、遠路はるばるやってきた、つまり「辺境」と言いたかったのだろう。
都市部から離れ、松や楢など林、田、畑、谷戸川が広がる自然豊かなこの土地に理想郷をつくる。高度経済成長期、この「横浜のチベット」に多くの人が流れ着き、彼・彼女らが自らの手で、必要なものをつくり、少しずつ現在の風景がかたちづくられてきたに違いない。
 
子どもの送迎を続けながら、風景に圧縮された様々な時間に少しずつ興味を持ちはじめる。
撮影日:1961(昭和36).08.26 撮影:国土地理院   「地図・空中写真閲覧サービス」(国土地理院)
撮影日:2004(平成16).10.15 撮影:国土地理院 「地図・空中写真閲覧サービス」(国土地理院)より
[土地の略年表]
明治13年頃 1880頃
松や楢など林、田、畑、谷戸川が広がっていた。[*1]

昭和16年 1941年9月-1943年7月
東京通信隊送信所用地として直径1km、円周3kmの円形の土地の用地買収と整地が行われる。[*2][*3]

昭和19年 1944年3月15日
東京海軍通信隊戸塚分遣隊 開隊。[*2]

昭和20年 1945月9月
通信施設が連合国進駐軍に接収される。在日米海軍通信本部の送信基地となる。正式名称:深谷通信所(Fukaya Communication Site)[*4]

昭和37年 1962年8年
戸塚区和泉町の生協団地への入居が始まる。[*5]

昭和40年 1965年4月
生協なかよし幼稚園が開園する。[*5]

平成11年 1999年10月
基地司令官を配置せず、在日米海軍厚木航空施設司令部へ管理が移管される。[*6]

平成16年 2004年9月
日米合同委員会において、返還の方針が合意される。[*7]

平成23年 2011年
日本人従業員が0名。[*8]

平成26年 2014年6月30日
全域が返還された。[*7]

平成27年 2015年4月1日
暫定利用始まる。野球、ゲートボール及びグラウンドゴルフ、これまで利用して来た広場、市民生活上必要な通路に関して、横浜市が国より承認を受け、立入りが可能となる。[*9]

[*1]——国立研究開発法人農業環境技術研究所、歴史的農業環境閲覧システム http://habs.dc.affrc.go.jp/
[*2]——『郷土いずみ 第16号』(泉区歴史の会、2010年)
[*3]——『地図で読む 戦争の時代 描かれた日本、描かれなかった日本』(今尾恵介著、白水社、2011年)
[*4]——『横浜市と米軍基地』(横浜市総務局渉外部、1989年)
[*5]——『学校法人 生協なかよし幼稚園 30周年記念誌「なかよし」』(生協なかよし幼稚園、1995年)
[*6]——『神奈川の基地と米軍再編 調査レポート』(日本共産党神奈川県委員会、2005年)
[*7]——『横浜市と米軍基地』(横浜市政策局基地対策課、2015年)
[*8]——『横浜市と米軍基地』(横浜市政策局基地対策課、2012年)
[*9]——『旧深谷通信所の状況について』(横浜市政策局基地対策課、2015年)

*本略年表は資料や書籍より2016年6月坂田作成

記事一覧