瀬尾夏美
Natsumi Seo
旅するからだ:ことばと絵をつくる
大津波のあと、岩手県沿岸の陸前高田というまちに暮らすようになりました。私はそこで日々働きながら、見聞きさせてもらうさまざまを誰かに渡したいと考えて、絵や文章をつくっていました。私は大津波も見ていないし、以前のまちの姿を知っている訳でもありません。ただ歩いて辺りを眺め、そこに居る人に話を聞き、私自身がかろうじて見えたもの・聞けたことを形にしていくのみです。だから、何かを精確におこすことは出来ません。けれど、わからないからこそ生まれるイメージのブレのなかに、受け手の居場所をつくることが出来るのかもしれない、とも思うのです。作家の身体は旅人である時にこそ機能するのではないか、そんな問いが私のなかにあります。たとえば、そこに暮らしながらも旅人であるということ。一時的にそこに居合わせて、誰かを看取ること。うつくしい風景をうつくしいと言い切ること。この場所では、実際にさまざまな土地を訪れながら考えた旅についてのあれこれを書いていきたいと思います。
04 架空のまち|誰かに旅をしてもらう
自分が選ばなかった道はいったいどんな未来に繋がっていたのだろう?という疑問を持つことは、きっと誰にでもあるのではないかなと思う。自分や誰か、または架空の人物が「こんな状況にいたら」「あんな世界でこう生きていたら」という具合に、自分が暮らしている現実のすぐ横に、物語の世界はふと顔を出す。その多くは定着することなく消えていくけれど、現実の横にはいつも物語の世界があって、必死に生きる毎日に息継ぎの間を与えてくれる。そう考えると、物語は、逃れることの出来ない現実を歩くための杖として私たちの手元に添えられる相棒のようなもの、と考えることが出来ないだろうか。
今回は、2015年に書いた『二重のまち』という物語と、これから書くかもしれない物語のことについて、記していきたいと思う。
ここに暮らす
2015年の秋に、『二重のまち』という文章を書いた。そして、「2031年、どこかでだれかが見るかもしれない風景」という副題をつけた。この文章は、大津波で洗われた土地の20年後の様子を、復興工事の末につくられた“あたらしいまち”で暮らす4人の人びとによる一人称語りの形で綴った短い物語である。
どうしてこの物語を書きはじめたのかといえば、2012年から暮らしてきた陸前高田で復興工事が本格化し、風景が日々激しく変化するようになったからだ。その様子を間近で見ていた私はいろいろなことがわからなくなってしまって、どうにか冷静になる方法が欲しいと思い始めた。
流された市街地の痕跡のうえに積み上げられていく大量の土砂、そのために削られていく青かったはずの山々、いくつもの直線で組み上げられた茶褐色で直線の風景。かつてのまちの手触りのようなものは、日々失われる。しかし、この巨大土木工事は復興の過程であるはずで、「それならば仕方がないこと」なのかもしれない。津波で流された集落を丸ごと弔おうとおばちゃんたちが丹念に手をかけた大きな花畑も、「復興工事の邪魔をするのは自分たちの本意ではない」と言って、おばちゃんたち自らの手によって解体されていった。復興工事は、確かに希望であるはずだ。でも、この直線と茶褐色の風景は、弔いの所作が宿るにはほど遠く感じられて、未来を考えるための筋道を見えにくくしているようにも思えた。
陸前高田市高田町(2015.12.5)
目の前の風景は、ただ一枚ひらの視覚的な情報ではない。幾重にも絡まりあった文脈を負い、さまざまな人たち(ここで暮らす人、これから生まれる人、ここを去った人、そしてここで生きた今は亡き人)を抱え、自然と折り合うことへの葛藤と無関心が交錯し、信じるに足る安全や安心を「どのように手に入れるのか」という問いを絶えず投げかけてくる。とにかくとても複雑だ。
まちの人たちはこの風景を目の前にしながら、自宅再建やこれからの働き方など、それぞれの暮らしにとっての大きな選択をしなくてはならない状況にあって、私が感じるよりもずっと切実で逼迫した複雑さを目の当たりにしている。そう思うと、何かを感じて自分のことばを発するということすら、私にはとても難しくてたまらなかった。
複雑な風景と、私はどのように対峙しよう。目の前にある風景は、これから出来てくるまちとかつてあったまちを繋いでくれる大切なものに代わりないはずだから、なんとか逃げずに記述しておきたい。と言っても、ただ直接見ていると混乱してしまうから、何かしらの方法を考えなくてはならない。
そんなとき、物語を書くことを思いついた。想像力を少し遠くの未来へポンと飛ばしてみて、その地点から振り返るように現在を眼差してみたら。目の前の風景をどう位置づけられるか、どのように捉えることが出来るのか、簡易な判断を用いることなく冷静に考えられるかもしれない。
地底に咲く
『二重のまち』の舞台を大津波から20年後の2031年にしたのは、かつてのまちに暮らした人たちと、あたらしい地面のうえで生まれた人たちが同居しているタイミングだろうと考えたからだ。両者は、亡くなった人たちとどのように“ともに暮らしている”だろう?彼らの目を借りて、未来の風景を見渡してみる。そして、そこに宿る弔いの所作を想像し、手を動かしてみる。すると、2031年の未来にいる彼らの様子から、翻って、現在からそのときまでの道のりを浮かび上がらせることが出来るかもしれない。この場所に宿る未来には、きっと希望の依り代がある、そう思えるようにと願い、書き進める。手法としては、『あのまち』という、2013年に書いた文章(陸前高田で聞かせてもらったことを一人称語りのかたちでまとめたもの)に出てくる人物やその周縁にいる人びとの2031年の姿を描くという方法を取り、『二重のまち』というタイトルをつけた。この物語は、私が現在の風景を眼差すための杖となる。これなら歩き始められるかもしれない、と思えた。
この身勝手な物語は幸いなことに、読んでくださった方から感想をいただくことがあった。幾人かで輪読をしたり、陸前高田の女性に朗読をしていただく機会まであった。来春には、ダンサーの砂連尾理さんの公演の中で、大阪の高校生らによってダンスの作品にもなるという。彼女の声で聞いたり彼らの動きを見たりすると、『二重のまち』は確かに私が書いたものなのに、私には知る由もなかった色味がこんなに含まれていたのかと、いつも驚かされる。この物語のことをよくわかっているのは私ではなくてもっと別の誰かかもしれない。いや、と言うよりも、誰かの身体を介することによって、物語のなかの人物たちがそれぞれ微妙に違う人格を持って語りを始めるために、見えてくる風景がブレるのだ。さらには、聞く人によって、またその人の状態によって、どの部分を見たいかが変化するから、その時々によって多様な細部が見出されていく。物語とは、語る人聞く人という複数の身体を行き来することによって“豊かなブレ”を生み続けていく運動でもあるかもしれない。書き手がすることと言えば、そのきっかけを縁取ることに尽きるのだと思う。
私の現実を支える杖であったはずの物語が、さまざまな人に語られることによって、誰かの現実の伴走者ともなる。物語は、私の現実でも誰かの現実でもない・触れていながらもはみ出した場所に立ち上がるように思う。それはまるで、それぞれの現実と現実の間に現れる“空き地”のようだ。だからこそ、どのように眼差しても語ってもよい、という自由さを持つことができる。
ここにのこる
さて、いささか唐突なのだけれど、先日初めて広島に行った。関西からの夜行バスで降ろされた早朝の広島駅前はわりあいとにぎやかで、どこにでもあるチェーン店が立ち並んでいる。広島については、71年前に原子爆弾が投下され10万余もの人たちが亡くなった場所だということは知っている。ただそれは教科書で習うような文言の知識で、私は情けなくもそれ以外のことを知らなかった。ただ、大学生の頃、幾人かの友人が原爆のことをテーマに扱って作品をつくり発表していた。誤解を恐れずに言うと、当時の私は、70年ほど前の出来事をなぜ同世代の彼らが扱うのか疑問でさえあった。被爆何世ということばを知ってはいたけれど、その細部への想像力も聞く耳も持とうとしなかった。そのことがずっと気にかかっていた。あの大きな出来事から71年の時間が経った広島はいったいどんなまちなのだろう。私の浅はかな問いに、早朝の広島駅前は、何万通りのうちのひとつの答えを呟いてくれているようだった。
そんな風に始まったほんの5日間の旅で、思いがけないほどいろいろな人に会って、恵まれて、たくさんの話を聞かせてもらった。広島出身で1度は関西や関東に出たけれど、地元が好きで戻ってきたという青年(彼のおばあちゃんは爆心地から数百メートルのところに暮らしていたという)。広島が気に入ってIターンで移住した人たち。広島でアートに携わっている人たち(地元出身者とそうでない人もいる)。被爆体験の語り部をしている人たち(反核運動のために被害の語りをする人もいれば、悲惨な体験を後世にという人もいるし、亡くなった親類を偲ぶ人もいる)。さまざまな性格の人がいて、さまざまな立場があり、さまざまな選択がある。そういう当然のことが、実際の土地に足を運ぶことでやっとすこし見えてくる。自分の想像力の貧弱さが心底情けなくなるけれど、優しい人たちは、「なんで広島に来たの?」という問いを根気強く投げかけながら、私に話をしてくださった。
この旅についてはいつか詳しく書きたいと思っているけれど、今回は印象に残ったひとつのことだけを書く。それは、平和記念公園で語り部をしているおじいさんが語った「一番聞いてほしいこと」だ。原爆投下時には1歳で、焼け野原で遊びながら育ったという彼は、私を追悼平和記念館にある地層の模型の前に連れて行って、話し始めた。
「これ見て欲しかったんよ。今じゃ平和公園はきれいでええですねぇなんて言われるけどな。でもここには家々が立ち並んで、おじちゃんの家もあったんよ。それが原爆で全部のうなった。あん時は機械も何もないからな、大きいもんだけ片付けて見える骨だけ拾うたら、1メートルくらいの高さの土で一面埋めてしもうて、そのうえに公園があるということなんよ。今また改修工事いうてあちこち掘っとるとな、瓶やら茶碗やら当時のものが出てくるんよ。70年経ったけど、70年しか経ってないとも言えるんよねぇ。じゃけえ、まだまだあん時のものも、あん時の思いも、すこし掘ってしまえば、出て来てしまうんよねぇ。」
かつての地層といまの地層——勝手ながら、陸前高田で書いた『二重のまち』と重なる。ふたつの地層を行き来しながら70余年の時間を繋げてくれるおじいさんはまるで、『二重のまち』の登場人物たちのようだ。彼の語りによって、かつての風景と現在の風景の繋がりが想起され、70余年の変遷の細部が見えてくるように感じられた。
一見すると分け隔てられた複数の地点。それらが繋がる、もしくは擦れるということが、物語が結ばれるきっかけとなる。いや、むしろそういう風に、“複数の世界”の存在を認知することによってしか、語りは始まらないだろう。わからない、隔てられているという前提と、でも語らずには居れないということ。引き裂かれながらも繋げようとする所作から、物語は生まれるのだろう(日常から離れた場所からやってくる旅人によって“隔たり”を認知することがあるために、物語が生まれる可能性もあるだろう、というメモも記しておこう)。
そんな経験を通して、ひとつの思いつきがあった。それは、物語を結ぶことを用いて、過去や未来の出来事に向き合うための方法である。まずは、向き合いたい出来事についてのリサーチを出来るだけ精密に行う。これは、自分の身体の中にぼんやりとひとつの風景を立ち上げていくような行為だ。そして、そんな風景の傍らに、ある(徹底的に設定された)人格をぽとりと落とすと、その人はまるで飛び飛びに落ちている石のうえを跳んで進むような様子で、向き合いたい出来事の付近から現在に向かって歩きはじめる。その軽やかな歩みは、リサーチでは決して埋まらなかった知識の穴や溝をも繋げてしまうだろう。物語のなかの彼らの身体を借りることによって、私が歩くことのなかった時代、環境、土地を旅する——彼らの知覚を通して、思いがけない解像度でその風景を見渡せるのではないか。更には、彼らの歩みを記述することで物語が結ばれ、それを“空き地”として誰かとともに使っていくことで、また豊かなブレが生まれ、さらに細やかに“わからない”ことに触れていけるのかもしれない。
見落としてきたこと、忘れたこと、選ばなかったこと、諦めてしまったこと。そういった、今はもう(まだ)“わからない”出来事たちはすっかりとなくなったのではなく、私のいる現実のすぐ横を併走しているような気がする。それらをもう一度物語という方法で縁取ることで、ゆったりと向き合える空き地をつくる。
“わからない”ことに向き合うための手法と実践を、と思う。
同じ場所に立つ(広島市本通/2016.11.28)

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