辻田美穂子
辻田美穂子
Mihoko Tsujita
故郷は文字通り、誰しもが持っている唯一無二の場所です。しかしそれは揺らぐことのない絶対的な存在なのでしょうか。16歳から19歳まで過ごしたオーストラリアでは自分が日本人であることを根本から否定されるような出来事がありました。生まれた大阪という土地で染み付いた風習を恥じ、土地柄はできるだけ隠して過ごしました。一方で、海の向こうから届く祖母からの手紙には、訪れることのできない遠い故郷の思い出が、大事に綴られていました。
他人と共有したい素晴らしい景色も、できれば隠しておきたい事柄も、写真として切り取られた「今」は、在りのままとして等価に写ります。たったひとつの場所を想い続けるということ。根を下ろさずに土地を移ろい暮らすとういうこと。2013年に北海道に移り住んで以来、これらの境界はだんだんと曖昧になりつつあります。日々の暮らしにカメラを持ち込み、全てを一旦並列にすることで、わからなさを解きほぐしていきたいと考えています。
まだ日も昇らない暗い雪道は、街灯が反射してキラキラと光り、歩くたびに、キュッキュと鳴く。そんな日の気温はマイナス10度に近いか、更に下回っているんだと感じる。気温が下がれば下がるほど、鳴き声は高くなるので、今日は何度かな、昨日より寒いな、そんなことを考えながら仕事へ行く。広い通りへ出るとすぐ眼下の街にはうっすらと雲海が見える。マイナス20度くらいになると、放射冷却で冷やされた空気が絹の柔らかいベールのようになり、街の上空に浮かぶ。冬至を過ぎたあたりから、日の出の時刻が毎日数分ずつ早くなる。これからどんどん日が長くなるかと思うと、冬はまだ始まったばかりなのにもう春のことを考えてしまう。1分や2分の差はわからないのだが、毎朝決まった時間に家を出ていると、10日分の太陽の高度の移動にはっとする。

2015年の春から、住み込みの季節労働をしている。必要最低限のものだけを段ボール箱1つ分に収めて、北海道内を転々とする。今までも、オーストラリア、アメリカ、東京と住まいを移して来たが、移動には、常に新しい発見と刺激が伴った。2年から3年という短いスパンでの移動を繰り返していたので、巡ってくる季節は、学校や仕事へと出かける毎日の忙しい生活の中に、ふと存在していた。冬の寒さはただ煩わしく、夏の湿度も不快きわまりなかった。その季節がまたやってくるというのは億劫だったが、同じ土地に長くはいないのでほんの少しの我慢ですんだ。ところが北海道に来てから、新しい季節がやってくるのが待ち遠しくてしかたない。重いコートを一枚脱いで、体が軽くなる春。半年もの間雪の下でじっとしている植物たちは、夏が来ると爆発するように生命の色をいっせいに放ち出す。短い夏が過ぎた頃に収穫期を迎える栄養たっぷりの秋野菜たちを堪能していると、ある朝、雪が窓の外の色や音のすべてを包み込み、辺りは凛とする。新しい季節が始まったことを喜び、長らく味わっていない次の季節を楽しみにしながらその時間を終える。そんなことをしている間に、辺りは4度目の雪景色になった。含水率の低い粉雪はとても軽く、枝につもってもすぐに風に飛ばされる。焦げ茶色のものさびしい枯れ木の林に、ふわりさらりとそれらが舞い、いくらか華やぐのを窓から眺めるのが好きだ。

そんな季節を毎日の中で感じられるようになったのは、富良野に来てからだ。ここでの暮らしはナージャがサハリンでしている暮らしとどこか似ている。人々の暮らしと自然がとても近い距離にあったり、街の人同士のつながりが密である。困っていると手を差し伸べてくれるが、幾分かは懐疑的に、そして用心深く見られているというのも感じる。移住者への風当たりが強いのは、その個人に対する誹謗とは限らない。そもそも、オーストラリアで目の当たりにした対アジア人差別は、中国人による空き家の買い占めが原因だった。その地域に暮らす子供たちが優先して入れる進学校の周りの空き家を、まだ小学校にもあがっていない子供が将来通えるようにと、中国本土に暮らしながら購入する人が多数いたのだ。アメリカで聞いたメキシコ人に対する差別の一因も、収入に困った違法移民たちが仕事を占拠してしまうというところにあるという。排他的になるのは、元来人間に備わっている防衛本能かもしれない。生まれてから死ぬまでの間ずっと向き合っていかなければならない紡がれた時間は、その人が向き合うすべての世界だ。そんな自分たちの日常が脅かされるのはすごく怖い。

続けていかなければならない日々と定住することとは、私の中でとても近い意味だった。生活する上での様々な支払いや、近所との付き合いなど、拠点をもつことで自分の行動は制限されると思っていた。それはとても窮屈で、生きづらくなると感じていた。
ある年、住み込みの仕事を急に辞めたことがあった。住んでいる場所もすぐに出て行かなければならない。困って連絡したのが、富良野で両親のように慕っている知り合いだった。困っているんだったらおいでとすぐに呼んでくれたが、そうなった経緯を話しているうちに、「根無し草はどこにも行けない」と言われた。全く意味がわからなかった。根無し草であるからこそ、すぐにどこにでも行けると信じて疑わなかったからだ。「お前に背負っているものはあるのか」そう言われた時に、後頭部を叩かれたような気持ちになった。そんなものは、皆無だからだ。関係を作るということを放棄して、その世界から離脱してしまうことは簡単だ。もうそこに行かなければいい。だけど、必ず後ろめたさが伴う。
オーストラリアで感じた行き場のないどうしようもない悲しみは、「わからない」の渦にのまれたまま、約10年もの間、暗い水底にずっと沈殿していたような気がする。そしてその悲しみはいつしか、どんなことにも向き合う覚悟のない自分自身の後ろめたさとなって自分に取り憑いていた。そういう状況を避け良い状態だけに触れ合って、同じ場所にとどまらないということは、人との関係も続けていくことができない。良い部分はもちろん嫌だなと感じる部分も、向き合わなければいけないのは他人との関わりあいから生まれるものだけではなく、自分自身もだ。それは時間もエネルギーもいることだと思う。だけど、もうこの後ろめたさを見て見ぬ振りしたくない。私はここにいる、と胸をはりたい。
近頃は、近所のスーパーに行くと知っている人にばったり会うことも増えた。「春になったら山菜採りに連れて行ってくださいね」などと言うと「じゃあお互いのしょうゆ漬けを交換しよう」という話になったりする。ひとつの場所に暮らしていても、できることや、周りの人たちと共有する体験が増えていくのが、今はとても新鮮だ。

住所が変わるたびに、祖母からふとしたタイミングで手紙が届く。手紙のやりとりは、オーストラリアにいた頃から10年ほど続いている。内容は、最近でかけた場所や、出会った人、家族のこと、時折季節ごとの樺太時代の思い出も書かれていたりする。ある日の手紙には、「夏の終わりには家族で山へ行って、かごいっぱいのフレップを採ってきて、ジュースやシロップ漬けにしました」と書かれてあった。「フレップ」とはアイヌ語で「赤い実」という意味らしい。サハリンへ初めて行く前からその単語は何度も聞いたことがあり、他の樺太生まれの人たちにとっても故郷を思い出す懐かしい味なのだという。祖母によるとフレップはブルーベリーだそうだ。しかし、ある人によるとそれはこけももだったり黒すぐりだったり、証言はまちまちで、一体「フレップ」が何を指すのかずっとわからないままだった。しかし、もしかすると「フレップ」はベリーの総称なのかもしれないとふと思ったのは、富良野で2度目の夏を迎えた時だった。7月頃からハスカップ、ラズベリー、黒すぐり、山ぶどうと野山のベリーたちが順々に食べごろとなる。「今週末は雨が降るから、その前に急いで採りに行かないとね」などという会話もあちらこちらで聞かれる。同じ亜寒帯に属しているので、植生もよく似ているのだろう。永続的に繰り返す季節の巡りの中にも、発見があると知った。
この春で住み込み生活を終えて2年ぶりに住所を持つ。ナージャや祖母のように、目の前にある日々を肥やしにしながら、ひとつの土地に暮らしてみたい。
写真の学校で出会った恩師は、8×10(エイトバイテン)という大型のカメラで、様々な土地に出向いては、そこで暮らす人々を写していた。知らない人に話しかけて、写真をとらせてもらう。その行為は私が最も苦手とすることを短い時間にぎゅっと詰めこんだ作業だった。初めて出会う人に声をかける。自分がなぜカメラをもってそこに来たかを話す。写真を撮らせてとお願いする。その場限りになることもあるけれど、その接点が一点でも、一瞬でも、話しかけた瞬間から何らかの関係ができてしまう。その一連の行為は、在学中も卒業してもできないでいた。オーストラリアでの体験から、人と向き合うという行為がなかなかできなかった。
学校で最初に貸し出されるのは、28ミリの単焦点がついたフィルムカメラだ。画像を確認することもできないし、広角レンズなので、物理的にその対象物に寄らないと、画面一杯に写らない。入学した最初の年には授業の一環で、街中を歩いてスナップをした。捉えかたによっては盗撮になるような行為かもしれない。そんな怖さが頭から離れず、自分の認識の外側へいくことができないでいた。あがってきた写真には人がぽつんとフレーム内に収まっているだけで、その人がわかるような魅力などは何も写っていない。被写体に寄ることが魅力を引き出すことの全てというわけではなく、それ以前に本当に何も写っていなかったのだ。人や街は写っていても、その瞬間に決定のシャッターを切ったときの自分自身が、わからなさの恐怖のまっただ中で、混乱して、向き合っているものが見えていなかった。思い通りに写らなかったり、意図したフレーミングからずれてしまう差異が、写真にはある。しかし、そんな粋でおもしろがることのできる差異ではない。私の写真にはただただわからないが写っているばかりだった。

そんなわからないのかたまりを少しずつほどいてきたのが、サハリンへいくという行為のような気がする。もうすぐナージャと出会って7年になる。同じ場所へ通い続ける時間と関係性が比例して積み重なっていくことは、見知ったはずの「今まで通り」の中にあった発見だった。それまで、人がいなくなったり、ものが無くなってしまったり、他の人に言われたことで「今まで通り」がなくなってしまうことが、極端に苦手で怖かった。そういった問題に向き合える強さがなくて、定着できずに、わからないままその世界から剥がれてふらりと新たな地へ飛んで行ってしまう。サハリンに通い始めて3年目の夏から、ナージャは私を家に泊めてくれるようになった。その生活を写させてもらう時は、いつもどこか申し訳ない気持ちでいっぱいだった。だけど、次の年も、また次の年も、つたないロシア語でナージャに「泊まりに行ってもいい?」と電話をかけても、一度もニエット(ノー)と言われたことがない。帰る日が近づくと必ず私の腕をとり、「次はいつ来るの?」と聞いてくれる。私はずっと勘違いをしていた。キッチンの他に、二部屋しかないそのうちの一つの部屋を貸してくれること、ベッドを譲ってくれること、糖尿もちのナージャには食べられないケーキを用意して私を待っていてくれること、不自由な足で散歩についてきてくれること。そのすべてが、最大限のナージャのもてなしで、私に全力で向き合っていてくれているということだったのだ。そのことに気がついたのは、昨年の写真を見返していた時だった。

ナージャと過ごす時間は、もう異国での非日常ではなくなってきていた。朝起きて、ナージャの用意してくれたごはんを食べる。お茶を飲んで、家事をするナージャを眺めたり、手伝ったり。昼になってまた食べる。そしてお茶を飲む。ベランダに出て山を眺めたり、その辺をほっつき歩いている階下の野良犬を観察したりする。5階の部屋は日当りがとても良くて、充分に暖められたソファベッドの上でまどろんでいると、ナージャもいつの間にか横になっていて、ひまわりの種をかじりながらテレビを見ていたりする。なんでもない時間の連続の中でふとした瞬間にナージャにカメラを向ける。ナージャ、と呼びかける以外特に発する言葉もなく、写真を撮り終えるとナージャもまた、何事もなかったかのように自分の作業に戻る。まるで空気のように、その一連の行為がいつもそこに存在するかのように、ナージャは私とカメラを異質なものとして捉えない。その機会にしか行けない場所へ行ったり、常に特別なことを写したいとはあまり思わなくなったし、当初は滞在中の時間をめいっぱい使って私を外へ連れ出してくれていたナージャも、きっといつもそうしているように、ただ家で時間を過ごすようになっていた。カメラを持ち込むというのは、撮る側も撮られる側にも異質な行為であるけれど、それを呼吸のような自発的行為として両者で共有できたとき、その人との関係性が生まれるのかもしれないと今は思う。

ナージャの家にはいつも季節ごとに採れたものがある。春にはししゃもや行者ニンニク、夏にはこんぶや、ベリーのジャム、秋にはキノコの酢漬け。保存の利くものはたくさん瓶詰めにして親戚に配り、あとは冬の間、山の雪が無くなるまで、海の氷がとけだすまで、少しずつ大事に食べる。街を歩けば、誰かに声をかけない日はない。「ナージャ、元気かい?」みんなそう聞く。季節の移ろいの中にその暮らしはただありありと存在している。私がずっと避けてきた、蓄積された日々は、とてもまぶしく見えるようになった。
約半年もの間、雪に閉じ込められる北国の、湿気を十二分に溜め込んだ澱のような空気。長い間しまわれていた箱を開ける時のようなカビ臭さ。船が着くホルムスクの港も、飛行機で降り立つユジノサハリンスクの空港も、ホテルも駅もアパートも、一歩建物へ入ると、そのにおいがある。私にとってそれは、第一に感じられるサハリンだった。撮影を始めた頃は重く淀んだその空気が苦手であった。常に新しいものが作られ、時代にそぐわないものは壊され、そしてまた更地になるような、自分の暮らしていた大阪や東京では嗅ぐことのないにおい。2年半ぶりのサハリン渡航で、真っ先に思い出したのがそのにおいだった。記憶と嗅覚は直結していると聞いたことがある。もはや建物の中のにおいだけではない。バスで何時間も走る土埃舞う悪路、散歩するウグレゴルスクの並木道など、私の記憶の中のサハリンは、建物の外でさえも全てがそのにおいに包まれているような気さえした。サハリンへ降り立った瞬間、その空気を肺いっぱいに吸い込みたい。そんな密かな楽しみと共に、飛行機に乗り込んだ。

午後2時30分、バスはウグレゴルスクへ到着した。バスを降りると、ターミナルには家族の帰りを待つ街の住人がたくさんいた。その群衆の中に、ナージャの夫のスラバが立っている。ナージャに最後に連絡をしたのはこの街へ到着する4日前。「6日にバスに乗るから」とだけ告げた。州都のユジノサハリンスクからウグレゴルスクの街に着くバスは朝と夕方の1日2便。信号があるのは街の中心部を抜けるまでのほんの数キロの間なので、バスがひどく故障しない限り、毎日ほぼ同じ時刻に到着するのだ。
2年半ぶりに会うスラバは、いつものように表情を変えることなく、黒い革ジャケットのポケットに両手を突っ込みじっと立っている。北海道よりも数百キロ北へ位置するその街の寒さは、10月の頭とは言え、もう氷点下に近いのではないだろうか。私が「スラバ!」と手を挙げると、ごつごつとした右手を力強く差し出した。

バスターミナルから2、3分も歩けば、ナージャ一家が住むアパートがある。入り口の重い鉄扉を開けると、ちょうど西日が踊り場を照らしていて、建物の中はすこし暖かい。5階まで一気に階段を登ると、バックパックと背中の間に汗がにじみ出るのがわかった。49と書かれた部屋の呼び鈴を勢いよく押すと、電子化された「エリーゼのために」が軽快に鳴る。ナージャの足音が近づき、「ミホー」と笑顔でドアを開けてくれた。家に入るなり、「クーシェチ(食べなさい)」と言ってキッチンに私を連れて行き、大きなホーロー鍋にたっぷりと用意したボルシチを、スープ皿に注いでくれた。加賀谷ナージャは、樺太がソ連領になってからもこの地にとどまった日本人家族のひとりで、6年前に墓参団と共に初めてこの街に訪れた時に出会った。4年前から、ウグレゴルスクに滞在する際にはナージャの家に泊めてもらっている。今回の滞在中、ナージャは私と入れ違いでユジノサハリンスクへ泊まりがけで行く用事があったので、不在の数日間はスラバが相手をしてくれた。

ナージャが出かけた初日、スラバは友達に頼んで車を借り、海の方へ連れて行ってくれた。海沿いに点在する日本時代の遺構を訪れたり、浜辺をぶらぶらしたりしながら、特にこれといった目的のない2時間ほどのドライブ。その後、街の中心部で友人と別れ、スラバは買い物があるというので、一旦別行動をとることになった。思えばたった一人で街を歩くというのは、今まであまりなかった。ナージャがあっちへこっちへと私を連れ出していたからだ。街を東西に走る大通りには、いつの時代から使われているのかわからない郵便局の車がひっきりなしに走っていて、通りに面した小さな広場にはいつものように鳩の大群が、バーブシカのおこぼれを待ちながら日だまりでめいめいの時間を過ごしている。その時間は写真を撮るという目的を忘れて、まるでそれが日常かのように、ただ歩くのがとても気持ちがよかった。午後に差し掛かった斜陽は、もう数日もないであろう褪色した紅葉の間から、漏れてきらめいている。その下の歩道を、目的のある人は確かな、軽快な足取りで、そうでない人たちは晩秋の陽光を慈しむように、ゆっくりと歩いている。その景色はとても美しかった。ふと道路の反対側に目をやると、スラバがゆっくりと追いついてくるところだった。こちら側へ渡って来たので、今度は二人でゆっくりと歩いた。スラバが公園のベンチに腰掛けた。3年前に事故で痛めた膝の調子がよくないと言って、すこし休憩をした。革ジャケットの内ポケットから、ウォッカの小瓶を取り出した。先ほどの買い物とはこれだったようだ。「ナージャに言うなよ」と言って、やっとの思いでオアシスに辿り着いた砂漠の旅人のごとく、瓶の半分ほどごくごくと流し込んだ。それから、おう、と思い出したように、私にチョコレートバーをくれた。少し要るかと尋ねたら、全部お前が食べなさいと言った。そのまま二人で、目の前の土管工事の様子をながめた。黒い犬が近づいて来た。その犬は、食べ物を欲しがるわけでもなく、私たちがそこに座っているから来たのでもなく、あたりを一心不乱に嗅ぎ回っている。彼もまた、いつものように日常を送っているだけのようであった。
公園を離れて再び歩き出すと、以前立ち寄ったことのあるスラバの友人のアパートの下を通りがかった。サーシャは元気かと尋ねると、「心臓発作で死んだ」、と思いがけない応えが返ってきた。昼間からスラバと二人でウォッカをあおり、気を良くし古い写真を引っ張りだして、自分の娘の話を聞かせてくれたサーシャ。4階のアパートを見上げると、人の気配が消えた空っぽの窓が目に入った。

スラバは、「ターニャのマガジン(売店)に寄ろう」と言った。ターニャとは誰だったか。記憶をたどったが、なかなかピンとこない。店に入ると、中には従業員の女性が二人いた。ターニャはいるか、と聞くと、一人がバックヤードへ消えた。すぐに朝鮮系の男性が表に出てきて、あっと思った。ターニャは、ナージャの“ムスメ”時代からの友人で、4年前に写真を撮らせてもらったが、私はそれっきり会っていなかった。彼はターニャの夫だった。「こっちに来い」というスラバを追って、裏口からバックヤードへと入った。ターニャの夫が、「ミホコ」と言ったので、私の名前を覚えていたことに驚いた。間もなく、ターニャが現れた。やはり、「ミホコ!」と開口一番に言った。小さい女の子を抱いていた。どうやら孫娘のようだ。ミラーナというその女の子は2歳になったと言っていた。私の名を呼びながら、ロシア人の青年がどこからともなく現れた。彼のことは思い出せなかったが、青年は私の顔を見て終始ニコニコしていた。奥から更に見覚えのある女性が出て来た。ターニャの娘、ミラーナの母親だ。彼女も私の顔を見るなり、元気か、と尋ねた。今も札幌にいるのか、結婚はしたのか、仕事はどうだ。バックヤードはとても賑やかになった。帰る時、ターニャは手土産にと、店の陳列棚からブルーベリーのマフィンをとり、持たせてくれた。

翌日、スラバは友達の家に行くと出かけてしまったので、一人で街に出た。ふと思い立って、以前歩いた川沿いの道をぶらぶらと歩いていると、木柵のむこうから獰猛な犬に吠えられた。咆哮を制止する男性の声がしたので、思い切って「ズドラーストヴィーチェ(こんにちは)」、と呼びかけると、見たことのある立派な白い眉毛の年配の男性が扉を開けてくれた。なぜか、まず自分が不審者ではないことを伝えようと、「以前、畑、おばさん」と知っている単語を必死に思い出しながら口にすると、「ずっと前に、チリムシャをあげたよな」と男性は言った。2年前の春、すぐ側のダーチャでチリムシャ(行者ニンニク)を分けてくれた女性の夫だった。中を見てもいいか、と聞くと、どうぞ、とダーチャに招き入れてくれた。ダーチャとは、自宅とは別にある家庭菜園付き別荘のような場所だが、この辺りは別荘という響きから想像しうる華美なものではなく、あくまで畑仕事をする傍ら休む小屋という感じのものが多い。おじさんのダーチャはとても丁寧に手入れされていて、コンパクトな敷地内にはきちんと区画整理がなされた畑用スペースや、ドラム缶でできたペチカ(火をおこすところ)、小さくかわいらしい花壇などがあった。獰猛な犬は、スキさえあれば噛み付いてやろうとばかりに私を睨んでいたが、家主に大声で一喝されると、素直に自分の小屋へ戻って行った。ダーチャを奥へ進みながら、畑を指差し、ここにはなにが植えてあるの、と片言のロシア語で尋ねると、説明してくれたが、聞き取れたのはカルトーシカ(じゃがいも)とマルコーフカ(にんじん)だけだった。それでもうなずいていると、おじさんは身振り手振りひたすらしゃべり続けた。
その翌日、何の気なしにベランダに出てみると、ダーチャのおじさんがアパートの下を歩いているのが見えた。「ジャージャ!(おじさん)」と呼びかけると、「プリヴィエート!(やあ)」と手を挙げてくれた。

午後2時を過ぎた頃、スラバが「ナージャ、ナージャ」と言って部屋に入ってきた。今日はナージャがユジノサハリンスクから戻ってくる日だ。5階のベランダからは、バスターミナルが見える。どうやらバスはまだ到着していないようだ。5分ほどしてスラバは再びベランダに出た。私にちらりと目配せをしたので、ベランダへ出ると、真っ赤なジャケットを着たナージャがこちらへ向かって歩いているところだった。しばらくして「エリーゼのために」が家中に鳴り響いた。相変わらず笑顔のナージャが、「ミホコーゲンキー?」と尋ねた。キッチンに入ってきたスラバをちらりと見て「ノンベエ、サケ、だ?」と言った。ナージャは冗談半分に、時々酒好きの夫を、ノンベエ、と呼ぶ。留守中にスラバが酒を浴びるほど呑んでいたのはすでにお見通しなようで、その答えに一瞬ひるんだが、約束を思い出して「呑んでなかったよ」と言うと、ナージャは大声で笑い出した。

この街へ来るのは、これで7度目になる。懐かしさにひたる心地よさよりも、私を温かい気持ちにさせたのは、この街の住人との再会だ。ナージャやスラバはもちろんのこと、マガジンのターニャ、その家族や従業員。行者ニンニクをくれたダーチャのおじさん。他にも、毎回街でばったり会う日本語を話す朝鮮人のおばあさん、クリルへ行こうと以前誘ってくれたラリッサ。バスの運転手としてこの街で暮らすスラバの弟、オレグ。たった数日の滞在で、偶然にも自分の知っているほとんどの人たちに出会えたのだ。
初めてこの街へ来た時、自分が何者で、ここへ何をしにきたかということを説明しなければならないと思っていた。そう説明する間もないすれ違う人々の視線はとても気になったし、一人で街を歩いていると、「日本人か、朝鮮人か」と急に声をかけられることもあった。極東の田舎、陸の孤島とさえ呼ばれるこの街に、日本からの墓参以外で訪れる外国人など滅多にいないからだろう。いつも何かを気にしながら歩くサハリンは、窮屈で辛かった。しかし、あの人、あの人と、その面々を目に浮かばせながら街を歩いていると、その漠然とした不安な気持ちがなくなっていくようだった。属しているか否かを決めるのは、その土地の住人でもあり、自分自身でもあり、そして、そのどちらでもない。土地や国や人種といった大きな枠に自分を閉じ込めていたのは、自分自身なのだと思う。容易にぬぐい去れない過去を受け入れたり、勝手の違いに理解を示したりするのではなく、目の前の事象にただ抗わずに向かい合うことができたとき、初めてその場所が心地よいと思えるのかもしれない。そしてそう思わせてくれる最も大きなきっかけは、そこに暮らす人だ。
この街には、私の名を呼び、笑ってくれる人がいる。だからまた来たいと思う。私にとってのサハリンは、祖母から聞いていた「異国になった遠い街」ではなくなっていくような気がした。

2年半ぶりのサハリンは、ずっと心地がよかった。この時間が終わってほしくないとも思った。今回の滞在中、以前はどこにでもあったあのサハリンのにおいはかぐことができなかったが、もしかするといつの間にかその空気を吸っていたのかもしれない。それはもう、淀んだ重い異質なものではなく、そのフィルターが取れたサハリンとして体の中に取り込まれ、血液に乗り全身に巡っていたのかもしれない。そんなことを考えていると、新千歳空港の到着ロビーのドアが開いた瞬間、はっとする空気があった。管理された空調の生温さ。隅々まで掃除の行き届いた場所からは本来するはずのないにおい。しかしそれもすぐに気にならなくなった。
2010年8月、祖母と共にサハリンへ渡った。祖母にとっては終戦後の引き揚げ以来、62年ぶりの帰郷だった。当初は私一人で日本からの墓参団について行くつもりだった。「ロスケは何しよるかわかれへん」二十歳そこそこの私は、恐怖よりも好奇心の方が強く、祖母の制止は気にもとめず黙々と準備を進めていた。すると、ある日突然「私も行こうかな」と祖母が言い出したのである。あれだけロシア人に対して否定的なことを言っていた祖母の気の変わりようが少し気になったが、それ以前にまさか一緒に行けるとは思ってもいなかったので、とても嬉しかった。

サハリンへ渡る前日、初めて北海道最北の街、稚内を訪れた。8月というのに涼しく、乾いた空気に漂うバラに似た香りが心地よかった。港付近を散歩していると、それがハマナスだということがわかった。一緒に歩いていた祖母がその実にまじまじと見入るように手を触れた。その日はよく晴れていて、防波堤からもくっきりと43キロ先にあるサハリンの島影が見えたが、それがどのくらい遠いのかも近いのかもわからなかった。翌朝、国際ターミナルより船に乗り込んだ。乗客は300名定員のところ、私たち墓参団と、大きな荷物を持ったロシア人を合わせて40名ほどだった。航行を始めてしばらくすると、船内に国境を越えたというアナウンスが流れる。甲板へ出てみると、濃い霧で前が見えず、水分を含んだ空気は重い。2000トンの船は、いつの間にか群青色になっていた海原を北へ北へと荒々しく掻き分けて進んだ。

5時間半の航海を終え、やっと辿り着いたサハリンはすでに夕方だった。その日は街までバスで1時間ほど走り、早めの夕食を終えて翌日に備えた。祖母の生まれ育った恵須取(えすとる、現ウグレゴルスク)までは州都の豊原(現ユジノサハリンスク)からバスで更に6時間ほど北へ行ったところにある。アスファルトが敷かれてあるのはユジノから1時間ほどで、それからは未舗装の悪路が続く。北には炭山もあり、採掘された石炭を運ぶトラックの往来が激しく、それらが巻き上げる粉塵はすれ違い様にどこからか車内へ侵入し、土埃の舞う車中では息をするのもやっとだった。途中昼休憩にと立ち寄ったカフェではトイレが流れず、外からバケツリレーで水を運び片付けた。何時間も続く車の振動と土埃で体はどっと疲れていて、大量に盛られたマッシュポテトには手をつけられなかった。そこからあと2時間ほど走ると目的地である恵須取だが、疲労と緊張でいつの間にか眠ってしまった。

「煙突や!」と言う祖母の声が遠くから聞こえてきた。はっとして起きると、バスの最後尾に座っていた祖母が座席につかまりながら、ガタガタと揺れる車内をよろめきながら私のいる前方へ移動してくるところだった。「煙突や!王子の煙突や!」私をゆすり起こして叫ぶ祖母の視線の先には、遠くからでもはっきりと4本の煙突がそびえ立っているのが見えた。1929年(昭和4年)に曾祖父母は樺太へ渡った。広大な森林のおかげで豊富にある木材、四方を囲む海からとれる鮭や鰊などの海産物、さらには立派な炭山がいくつも見つかり、三菱や三井といった財閥が次々と炭鉱を開いた。その豊富な資源に着目した王子製紙が、現地の製紙工場を吸収合併しながら、大正から戦前にかけて樺太に9つの工場を築いた。そのうちのひとつ、恵須取工場に就職した曾祖父は、渡航から2年後、祖母を授かった。そんな曾祖父が勤めた王子の煙突は、62年間、同じ姿でずっとそこに立っていた。「ああ、戻って来たんだ」煙突を見た祖母があとで私にぽつりと言ったその一言が忘れられない。

それから4日間ほど、他の参加者と共に思い出の地を巡った。生家が建っていた場所、通った小学校、墓地、病院跡。同じ建物は残っていなかったが、川や山の位置は変わらないので、地形から判別して、当時のことを思ったに違いない。ひとつひとつ何かを確認するように、祖母の顔つきは日を追うごとに確固たるものへと変わっていった。
恵須取を去る日、バスの中から4本の煙突をじいっと祖母は見つめていた。眉頭は寄り、目尻が垂れ下がる。その目に涙はなかったが、ものすごく愛おしいものを見るように、遠ざかる街と煙突をいつまでも見つめ続けた。祖母の顔は清々しく、私はその表情にシャッターを切らずにはいられなかった。気がつくと、カメラの背面が涙で濡れていた。私の知らない祖母の表情。自分の暮らした家の跡だけではなく、さらにその先の何かに見入っていた視線。
私は見たかった。その時、祖母には見えて私に見えなかったものを。それから6回、いつか見えるのではと、その想いにすがるようにサハリンへ通い続けた。

2016年、8月も終わりに差し掛かったある日、サハリンへ電話をかけた。自分の携帯電話から、ウグレゴルスクに住むナージャという女性にだ。ダイヤルアシストで自動的に海外の電話に転送される。初めてサハリンを訪れた6年前からすると、随分簡単に連絡がとれるようになった。10回ほどの呼び出し音のあとに、「アロー?」と低い女性の声。「ナージャ?」「ダー(イエス)」「ミホコだよ」「ダー、カクジュラー?(元気か?)」元気だ、10月にサハリンに行くよ、というと「ハラショー、ハラショー(わかったよ)」とナージャ。昨年ナージャが札幌を訪れて以来1年ぶりの会話だったが、久しぶりの連絡に特段驚くわけでもなく、淡々と話し続けている。私はあまりロシア語が話せないので、知っている単語を並べ、用件を伝える。ナージャも同じく、片言の日本語を返してくれる。たった5分ほどの短い電話だったが、ウグレゴルスクへ着く日は伝わったようだ。「エストル、着く、テレフォン、ナージャかける」バス停に着いたら電話をよこせと言っている。そこにナージャがいなくても、昼間に着くバスは1本しかないので、歩いているうちにどこかで出会うだろうと、あまり心配もせず「パカパカー(またね)」と電話を終えた。2年ぶりのサハリン渡航まで1か月をきった。
ある日夢をみた。

私の肌は白く、髪はくすんだサンディーブロンドで目は水色だった。学校には友達もたくさんいて、日常は何の問題もなく過ぎていった。しかし目覚めて朝一番に見た鏡の中には、肌が黄色く、髪も目も黒い自分がいた。オーストラリアの高校に通っていた私は、渡豪からまもなく1年が経過するというのに、学校でなかなか居場所を見つけることができずにいた。学年の約半数がアジア人、そしてそのうち三分の一が留学生という中で、私は私である前にひとりのアジア人にすぎず、私たちはまとめて”FOB”と呼ばれていた。”Fresh Off the Boat(「舟から降りて間もないもの」)”、つまりその土地へやって来てまもない移民のことだった。

どうしたら仲間として認めてもらえるのだろう、とそのことばかり考えていた。しかし短い足にスキニーパンツを合わせてみても、髪をオレンジ色にしてみても、現地人の仲間にはなれなかった。アジア人に生まれた時点で、初めから自分にそのような資格はないとまで思うようになった。私は私だと胸を張る自信もなく、故郷に対する思いもいつの間にか恥に代わり、ついにはそんな自分を自身で受け入れられなくなった。とにかく寂しくて、不安だった。

そんな時、祖母から手紙が届いた。祖母は樺太というところで生まれ、終戦後の昭和23年までそこで暮らしていた。それは北海道よりもずっと北にある島だった。戦前は中学校がなかったので、進学のために海を渡り、一時的に北海道の親戚宅に住まわせてもらっていた。時代も時代だったので、親戚は自分の子の世話でいっぱいいっぱいで、祖母は肩身の狭い思いをしたという。どれも初めて知る内容だった。そんな祖母の過去を読みながら、自分の状況が当時の祖母とどこか重なる感覚を覚えた。海を越えて知らない土地で生活をしていた祖母の不安な気持ちを、とても近くに感じた。

樺太に行こう、と最初に思ったのは写真の専門学校に入ったときだった。それまでは行ってみたいな、という気持ちはおろか、行けるのかな、という思いさえもなく、たとえそれが祖母の故郷であっても、樺太は樺太として、知識のひとつとして、ただそこに在るというだけだった。それが行ってみたいと急に、しかも強く思ったのである。写真学校の先生が「絵は自宅で座っていても描けるけれど、写真は現地に行かないと撮れない」と言った。それまでただ存在していた「樺太」と「私」の間にあった透明な脈に、血が流れ出した気がした。

祖母は23歳で大阪に嫁いでから、しばらく樺太の話を禁じられていた。古いしきたりやしがらみがまだ色濃く浸透していた大阪の農村では、北海道から嫁をもらうというのはただでさえ噂の的だったが、ましてやそれより北の「樺太」から嫁をもらうなんて、一体どこの熊ををもらうのだ、などと隣近所から噂されないためだったそうだ。しかし私が生まれて物心がついた頃には、祖母は家族の誰も知らない言葉を話すということを認識していた。英語教師の母親ですらわからない言葉が話せる祖母が、とてもかっこよく思えた。料理の手伝いをするかたわら、「じゃがいもはカルトーシカ、キャベツはカプースタ」などと教えてくれた。たくさん言葉を覚えて、母親に自慢したい。もっと教えて、と言うたびに、30年以上秘めていた思いを、次第にぽつり、ぽつりと語るようになった。

16歳で生まれた家を離れてから、私は常にエイリアンだ。国内外のあらゆる土地で暮らすということは、いつまでも外部からきた者ということで、その暮らしの中で感じるうら寂しさは心の片隅に在り続ける。しかしそれは、10年前にオーストラリアで感じた出口のない悲しみとはまた異なる。樺太に通い始めるようになり、6年がたった。自分がどこから来たのか、というルーツ探しではなく、故郷を追われてもなおひとつの土地を強く想い続ける祖母の想いに惹かれているからだ。また、その想いを辿って渡航を重ねるごとに、「故郷」と「帰属すると感じる場所」の間に存在していた自分自身のわだかまりも、少しずつ溶け出しているように思える。ただただ漂流を続け、たまたま着岸した場所に住処を持とうとしているわけではない。自分が自分を見捨てないために、足を踏み入れた土地にカメラを向けながら、このわだかまりを見つめたい。
1988年大阪生まれ。2012年ビジュアルアーツ大阪卒業。現在は北海道に住むが、これまで国内外の様々な土地に生活拠点を移している。2010年に日本からの墓参団に同行し、祖母の故郷であるサハリンを訪れる。数度に渡って訪れたサハリンで撮りためた写真は、「カーチャへの旅」(2016年、Kanzan Gallery)で発表されたほか、テキストとともにウェブサイトにも掲載されている。
http://mihokotsujita.com/Sakhalin.html

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