大谷悠
Yu Ohtani
まちに「あそび」をつくりだす ― 都市空間を私たちの手に取り戻すために
禁止事項だらけの公園に、人を排除する公共空間、止まらない大規模な再開発、なんだか最近都市の生活がますます窮屈になっています。事なかれ主義の行政や、利益至上主義の不動産開発業者たちを批判することも必要ですが、都市に生活する私たちが動くことで状況を変えることもできます。それは都市に「あそび」を作り出すこと。この「あそび」には2つの意味があります。一つは活動を通じて、まちの人々が参加できる「楽しい遊び」を仕掛けていくこと。もう一つは都市の中に「空間的なあそび」を作り、人々の交流や活動のベースとなる場所を維持していくこと。この2つの「あそび」を追求することが、都市空間をもういちど我々の手に取り戻していくことにつながるのではないか。そんな仮説をもとに、日本とドイツの5つのケーススタディを紐解いていきます。
01 「空き家」と「あそび」— ライプツィヒ「日本の家」
■ライプツィヒと「空き家」の魅力

皆様はじめまして、ドイツのライプツィヒというところに住んでおります大谷と申します。これから5回にわたり「まちに『あそび』をつくりだす」というテーマでお話ししたいと思います。初回の今回は、(連載初っ端から我田引水が過ぎるようで恐縮ですが)私がここライプツィヒでやっておりますライプツィヒ「日本の家」という活動についてお話しします。
まず私たちの都市、ライプツィヒについて少し説明します。ライプツィヒはドイツ中部に位置し、古くから交易の拠点として栄え、産業は出版、鋳鉄、紡績などが盛んで、文化的にはバッハやメンデルスゾーンなどの音楽家ゆかりの都市です。近代化で一気に都市の規模が拡大し、1930年代の人口は70万人を超え、ドイツ帝国内でベルリンに継ぐ大都市へと成長しました。しかし第二次大戦後に東ドイツに組み込まれると徐々に人口が減り始め、1990年に東西ドイツが統一すると基幹産業の衰退によって雇用が激減し、10年間で約10万人の人口減を経験します。2000年の人口は47万人ほどで、ピーク時の約3分の2まで都市が縮小し、市内の空き家率は25%を超えていました。
私がライプツィヒを初めて訪れたのは2011年の年明けでした。1915年に建設された荘厳な中央駅から少し歩くと、窓ガラスが割れ、屋根には雑草が生い茂り、今にも崩れそうな廃工場や集合住宅が立ち並んでいる風景が広がります。これには正直びっくりしました。しかし一方で、非常にワクワクした気持ちにもなりました。「このまちなら思いきり遊べそうだ」と思ったのです。これだけ空間があまっていれば、きっと私みたいなカネもコネも権力もない人間でも何かできる、そういう直感がありました。
ライプツィヒ名物といえば空き家
個人的な話になりますが、「まちで遊びたい!」という欲求は子供のころの体験と結びついているようです。東京の杉並区で生まれ育った私の少年時代は、常に遊び場を得るために大人たちとの「戦い」に明け暮れる日々でした。住宅の立て込むまちなかに設えられた公園や緑地は管理が行き届いており、秘密基地だのゴム鉄砲で遊ぼうものなら管理人やら近所の大人やらが飛んできて追い出されてしまいます。唯一「自由」に遊べたのは空き家の敷地や空き地でした。そこは大人の目が届きにくく、木材やら鉄パイプやら工作の材料も放置されていました。こういう都市の隙間のような空間で遊んでいたときが、少年時代のなかで一番幸せでした。そんなこともあって、空き家や廃工場をみると今でもワクワクします。ライプツィヒはそういう点でとても魅力的な都市だったのです。
空き地、こちらもライプツィヒ名物
■ドイツの空き家を「日本」で再生する

さて「空き家で何かしたい!」という全くもって具体的内容のない状態からスタートしたのですが、当時ドレスデン(ライプツィヒのとなりの都市)に住んでいた私は二人の仲間たち、建築家のTさんと画家のKさんと出会い、その後で後輩の建築学生、Sくんが「手伝いますよ!」と留学先のベルギーから飛んできてくれ、この4人を中心に具体的なプランを練っていくことになりました。集まったメンバーが全員日本人だったので、「『日本』をキーワードに『空き家』をクリエイティブな『家』に再生する」ということをコンセプトに「日本の家」というプロジェクト名にしました。空き家を単に空間的に再生するだけでなく、その空間を舞台にしてアート、子育て、文化、学術などに関するさまざまな活動を行うという、空間と活動を同時に生み出していくことを目指していました。
「家」という言葉には少しこだわりがあります。日本とドイツの文化交流なるものはよく行われているのですが、そこで表現されている「日本」がどうもよそ行きで胡散臭いものであることが多いのです。ドイツ人と日本人がお互い愛想笑いを浮かべながら寿司を食べるというような、当たり障りなく設えられた国際交流という感があり、これに非常に違和感がありました。もっと普段着の、庶民的な、私たちの日常である「日本の生活」をドイツに持って来て現地の人と共有したい、そういう考えがありました。画家のKさんがつくってくれた「日本の家」のロゴのイラストは、2人の人が寝そべりながら本を読んだりせんべいを食べています。こんな感じで、自分の「家」のように来る人がリラックスできる、生活感のある場所をつくりたいということがここには表現されています。
「日本の家」のロゴ
企画書にこれらのアイディアをまとめ、立ち上げのための助成金探しと物件探しが始まりました。3月にライプツィヒにある「ハウスハルテン」という空き家を仲介してくれるNPOに企画書を送ったところ、翌日に「ぜひやってよ!」と返信をいただき、ほぼ同時に日独の交流支援を行うJaDe財団からの助成金も決定し、善は急げということですぐにライプツィヒで立ち上げることにしました。借りた空き物件は駅からほど近く、家賃無しで使え、かつ現状復帰もいらないという、私たちの活動にうってつけのものでした。このように「日本の家」がライプツィヒにできた理由は、私たちのような「アイディアはあるけどお金も場所もない」人々に空き家を仲介してくれる仕組みがあったからなのです。(ハウスハルテンについては こちらに詳しく書きました)
この地上階部分を借りて「日本の家」が始まった。ハウスハルテンの物件であることを示す黄色い垂れ幕がかかっている。
■ライプツィヒ「日本の家」始動!

物件が決まり、いざ本格的に始動しようというときに2011年の東日本大震災と原発事故が起こります。3月中はずっと頭が真っ白な状態で、「私はドイツまで来てなんてお気楽なことをやっているのだろう」となんとも煮え切らない気分でいっぱいでした。そんな時、あるチャリティイベントをきっかけにライプツィヒ在住の建築家ミンクス典子さんが「震災で大変な被害を受けている地域のために何かやりたい」と連絡をしてきてくれました。ミンクスさんはその後私と共に共同代表として「日本の家」の運営をしていくことになります。その他にも、震災をきっかけに「自分もなにかやりたい」と「日本の家」に関わってくださった方が多くいました。
2011年5月から空間づくりの作業が始まり、廃墟のような空き家に泊まりこんで全て手づくりでつくっていきました。夜まで作業していると近所の人も通りがかりに覗きに来たり、腕に覚えのあるおじさんが手伝いに来てくれたりとだんだん人の輪も広がっていきました。
自分たちで空間をつくっていく
2011年7月、ライプツィヒ「日本の家」無事にオープンの日を迎え、その後多岐にわたるイベントを行ってきました。
オープニングパーティー
展覧会
こどもたちと和綴じワークショップ
盆栽マスターの講習会
原子力とエネルギー問題を考える映画上映会
オタクの日ではオタクの部屋を再現した
まちの空き家に残された家具や建具を用いて新しく椅子をつくったり、古い建具を再利用してバーカウンターやローテーブルをつくったりと、なるべく新品を買わずその場にあるものを最大限利用しています。
古い窓を利用してつくったローテーブル
時には「家」を飛び出して、まちなかでイベントをすることもあります。自転車発電をつくり、その電力でキーボードとベースアンプを鳴らして中心市街地でコンサートをしたたときは、まちゆく人が不思議そうに眺めていました。「日本の家」の宣伝にもなるので、こういったイベントを積極的に行っています。
自転車発電コンサート
本来は2011年夏の3ヶ月で終わる予定だった「日本の家」ですが、活動を行う中で多くの方の支援と声援をうけ、延長に延長を重ねて今に至ります。中でもライプツィヒ大学の日本学教授のリヒター先生は、立ち上げ当初から私たちの活動を大変熱心に応援して下さっており、今では月々の家賃を寄付金として援助して頂いています。
■衰退地域への引っ越しと「ごはんのかい」

さてハウスハルテンから借りていた物件は、200㎡ほどあるうえに隙間風が入ってくるような有様で、冬の暖房代がべらぼうな額になってしまいました。これでは続けられないので、2012年秋に現在の場所であるライプツィヒ東地域の衰退商店街「アイゼンバーン通り」の空き店舗(約80㎡)へと引っ越しをしました。
ライプツィヒ東地域は移民系住民と生活保護受給者数の比率がライプツィヒ平均の倍以上あり、「ドイツ最悪の通り」というテレビ番組がアイゼンバーン通りを特集したほど一般的にイメージの悪い場所でした。今でもぼろぼろの家が立ち並び、空き家率は35%ほどです。一方で安い家賃に惹かれてやってくる若者とさまざまなバックグラウンドをもつ外国人が同居していて、独特の多様性をもつ地区でもあります。引っ越しをきっかけに「日本の家」の性格も少しずつ変化し、地元の地域団体や行政と密に結びつくようになり、「地域のまちづくり拠点」としての性格が強まってきていきました。
空き家が目立つアイゼンバーン通り
その一例が、2014年春から友人の旅人KさんとアーティストUくんと共に始めた「ごはんのかい」です。「ごはんのかい」は、最初は内輪で友達たちと料理をつくって食べるような小さなパーティーでしたが、徐々にお客さんが増え始め、ほかのイベントとセットで行うようになり、今では毎週60人から多い時で200人ほどの人々が集まるようになっています。お客さんの顔ぶれもさまざまで、学生や研究者、旅人、アーティスト、近所に住む人々、家族連れ、移民や難民まで、年齢も社会階層も国籍もいろいろです。
ごはんのかいの様子
最近では日本料理だけでなくアフリカや中東、韓国、メキシコなどの料理もそれぞれの出身の人々に教えてもらいながら一緒につくっています。この多国籍料理の「ごはんのかい」は、まさにインターナショナルなこの地域だからこそできることです。ごはんのかいを切り盛りするUくんの腕も上達し、日本料理とさまざまな国の料理を独自に組み合わせる料理が評判になり、彼のホスピタリティあふれるキャラクターも手伝って今では近所の有名人になっています。一緒に料理をつくると仲良くなるので、どんどん新しいネットワークが広がっていくのです。
日本とアフリカ(ニジェール)のごはんのかい
ごはんはきちんとした価格をつけない投げ銭制で、料理の前にお金を入れる鍋を置いておきます。一応これくらいは入れてください(2.5€)という価格は表示しますが、財布に余裕がある人はできれば多めに、無い人は少なめでいいよ、という具合です。また食べ終わった食器は食べた人に自分で洗ってもらいます。レストランのようにサービスを提供する人と受ける人をきっちり区別せず、一緒につくって一緒に食べるということを大事にしています。こうすることで、だれもが肩肘張らずに楽しめる場所になっているのです。
近所の人たちと一緒に餃子づくり
「日本の家」は外国人とドイツ人の双方にコンタクトがある稀有な存在となっています。なかなかドイツ人ばかりいる場所に外国人が入っていくのは難しく、逆もまたしかりです。私たちは外国人でありつつまちに開いた活動を行っているので、他の外国の人々とドイツの人々の双方が気軽に来られます。
このように、一緒につくって一緒に食べるというあらゆる人が楽しめることから始めて、それを広げていくことが、国や文化や社会階層の違いを越えていく最初のきっかけをつくることを、私たちは現場で毎日実感しています。多様なバックグラウンドを抱える人々が住むライプツィヒ東地域のようなところでは、なおさらこんな取り組みが重要になってくるのではないかと思っています。
トークイベント×ごはんのかい
■「まちの遊び場」としての「日本の家」

「日本の家」を立ち上げたときから一貫していることは、まず自分たちが楽しむことです。もちろんこういう活動を行う上で、コミュニケーションや文化の違いが問題になったり、些細な原因で仲間割れすることもあります。お金になるわけでもないわりに手間がかかり、場所柄ちょっと面倒なお客さんが「ごはんのかい」に乱入することもしょっちゅうです。それでも活動が続いているのは、やっていて楽しいという「遊びの感覚」をここにいる人々が共有できているからだと思います。自分たちのためにつくっていた遊び場が広がっていって、だんだんいろんな人が入ってきて、いつしかまちの遊び場になっていった、そんな感覚です。
熊本在住のアーティストの上妻利弘氏と一緒にぶんぶんゴマをつくる会。大人たちも夢中。
ドイツ語には「Spielraum」という言葉があります。Spielは「遊び」、Raumは「空間」なので、「遊び場」という意味ですが、一方で「余裕、ゆとり、余地、あそび」という意味もあります。「日本の家」はまさに、都市の中にある「Spielraum」です。そこはまちの人々のための「遊び場」であり、同時に都市空間の「あそび」でもあります。このようにみんなの想像力を活かせる自由な場所を保つことが、都市にとってじつは決定的に大事なのではないか、そんなことを考えながら活動していますが、まだ道半ばです。ライプツィヒは現在人口が増加していて、この「あそび」の空間をどうやって維持していくかという次のステージに移行しつつあります。(詳しくは今後お話します。)今回はここまで。長い文章にもかかわらず最後まで読んでいただきましてありがとうございました。ドイツにお越しの際は、ぜひライプツィヒの「日本の家」に寄っていってくださいね。
「日本の家」は衰退商店街にできた遊び場だ

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