原亜由美
Ayumi Hara
土地 / 記憶 / 移民
わたしの故郷である新潟県新発田市の「写真の町シバタ」は、まちの記憶を紐解いて土地に結び直す写真プロジェクトだ。ひさしぶりに戻った故郷で、偶然かかわるようになった小さなプロジェクトから見えてきたのは、干拓地の風土を背景とし、明治期に連隊駐屯地として写真文化を育み、海外移民を多く送り出した進取の土地であるという、わたしの知らなかったイメージだった。まちに眠っている写真のエピソードは、海を越え、時間を越えて、離れた土地の記憶へと連なる。プロジェクトを通じて出会った記憶の指し示す土地へと旅をし、その所感を書き留めていく。
02 土地と向き合う

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『大地の芸術祭』『水と土の芸術祭』という本来的に双子であるはずの芸術祭の開催年が重なり、この夏の新潟はアートづいていた。新潟という土地の自然にアートを媒介にして向き合う機会であり、出身者としては、地元でこうした機会に恵まれる不思議に打たれもした。大袈裟でなく、わたしが高校生活を地元で送っていた当時は、新潟で現代アートに触れる体験など想像もつかなかった。
『大地の芸術祭』は9月13日が会期末であったが、『水と土の芸術祭』は、新潟市で10月12日まで開催されており、ここに吉原悠博さん※1の《培養都市 COLONY》が出展されている。新潟から東京へと送電線を辿る映像作品で、柏崎の原子力発電所から出発する鉄塔の列は、新潟の田園地帯から険しい山々を越え、住宅密集地、工業地帯へと連なり、都心の光の集積地へと電力を運ぶ。三国山脈を越えて以降の景色に、図らずも息苦しさのようなものを個人的には覚えたのだが、それは新潟の景色が見せる、海、川、水田、そして雪と、どこかに水を湛えた土の潤いが消えるからなのか、あるいは平野という大地が相対的につくる空の大きさが失われるからなのか。米と電力という日本人にとって欠かせないものの産地である故郷は、東京を培養するための養分を育む土地でもある。
水田と発電という点で、新潟との双子の町と言えば福島だ。福島の原発事故を思うたび、わたしは、奥羽山脈を軸に故郷と福島が、ほぼ東西対称に位置するのを意識する。福島の現在は新潟にあるかもしれない未来であり、新潟の現在は福島にあったかもしれない未来でもある。
水と土の芸術祭より吉原悠博《培養都市 COLONY》 撮影:吉原悠博
新潟には、原発建設計画を1996年の住民投票で撤回した旧・巻町(現・新潟市西蒲区)という地区がある。巻の角田山の麓、旧北國街道沿いに福井という集落があり、郷土写真家の斉藤文夫さん※2を中心とした福井旧庄屋佐藤家保存会 が活動されている。集落の心の拠りどころでもある茅葺屋根の古民家を保存しつつ、そこで写真資料の保存や、さまざまな催しが精力的に行われている。原発立地予定地であった漁村を舞台とした『消えた角海浜』の上演会も、そのうちの一つだ。『消えた角海浜』には巻の原発建設反対運動のエッセンスが凝縮されている。波の浸食の激しさのせいで厳しい生活を強いられる浜。女が毒消し売りの行商に出、男がサハリンへ出稼ぎ移民する村。やがて廃村に追い込まれる浜に原発を導かんとしたことは、土地の記憶から目を背けた所業に他ならない。言い換えれば、住民たちは土地の記憶に正面から向き合うことで、原発計画を退けたのだ。最初期案では2012年稼働予定であった巻原発は、2004年2月、正式に原子炉設置許可申請が取り下げられた。新潟は、その年の10月に中越地震、2007年に中越沖地震に相次いで見舞われ、巻ではいずれも震度5弱の揺れを記録している。巻の住民の判断は賢明であった。もっとも、いずれの地震でも柏崎刈羽原子力発電所は稼働中で、都度、震度6前後の揺れが襲った。特に中越沖地震では、3号機変圧器火災が発生したものの、幸い大事に至らず済んだのは、紙一重の運としか言いようがない。2011年の東日本大震災と福島第一原発の事故は、かつても何度か、わたしたちの目の前をかすめていたのだ。
旧庄屋・佐藤家(新潟市西蒲区)
この8月には旧庄屋佐藤家で、戦後70年の節目に村の太平洋戦争の記憶を振り返る『村に残された戦争の足跡展』が行なわれた。最終日近くに訪ねると、斉藤さんが、その場にいらした親子をわたしに紹介してくださった。
「この人たちは、角海浜のヨノさんの娘さんとお孫さん。」
なんという巡り合わせだろう、川口ヨノさんは角海浜の最後の住人で、斉藤さんが被写体として記録しつづけた人物だ。『消えた角海浜』でも、語り部の松の精がヨノさんに話しかける。ヨノさんの娘さん親子は東京から墓参の折、佐藤家に寄られたとのことだった。
斉藤さんが、ヨノさんの娘さん親子やわたしを含む来客たちを案内して、戦争展の展示物を丁寧に解説してくださる。
「私の兄は新発田の十六連隊にとられてガタルカナルで戦死をしました。これは形見として送られてきた日の丸です。」
斉藤文夫さんと川口ヨノさんの娘さんとお孫さん
6月、写真の町シバタの5周年企画で『まちの記憶回顧展』を行なった。そのときテレビの取材を受けたが、その放映を観て、「十六連隊出征時の集合写真」があると知った方から問合せをいただいた。
「私の父は十六連隊で、ガタルカナルで戦死しました。形見は日の丸の寄せ書きだけです。写真に父が写っているかどうか見たいのですが、写真は顔の判別ができるようなものなのでしょうか。」
わたしは、早速その方に、拡大出力した写真をお送りした。間もなく封書で返信が届き、「父に似た人物はおりましたが確証は得られませんでした」と、正直で丁寧な報告がしたためてあった。わたしは斉藤さんのお兄さんの日の丸を見ながら、その方のことを思い出していた。70年以上前の写真に父の面影を探し、おそらくは別人と頭で理解しながら、それでも「似ている」と思う心の動き。いつかその方のお父さんの写真が見つかるといい、と思う。
福井の集落越しに望む角田山
双子のような、相似や対称の記憶が土地に点在している。人の縁と思いは座標を結んでかたちをつくり、あるいは時を循環して、いつかつながることもある。アートが喚起するものとは、そういうものなのではないか。角度によってはハワイのダイヤモンドヘッドのように見える角田山のシルエットを車窓に見ながら、巻からの帰り道に思った。新潟とハワイの少なからぬ縁については、いずれまた別の機会に触れたい。

濃密な日々を過ごしているおかげで、なかなかまとまった作業時間が取れず、10月の『写真の町シバタ 2015』の開催まで日が間近になってしまった。正直焦りもあるが、ある種贅沢な悩みと言うか、うれしい悲鳴の部類に入るのかもしれない。あとは手足を動かすだけだ。


※1 吉原悠博 1960年生まれ。東京芸術大学油絵科卒業。2004年まで、東京とニューヨークを中心に美術家として活動。現在は故郷の新潟県新発田市を拠点に、写真館運営の傍ら、新潟の史実などを題材とした映像作品を発表し続けている。
※2  斉藤文夫 1933年生まれ。新潟市西蒲区(旧巻町)福井出身・在住。NPO福井旧庄屋佐藤家保存会理事。郷土の写真を撮り続けている。著書に『蒲原 昭和の記憶 -カメラが捉えた昭和の残像-』など。

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