齋藤彰英
Akihide Saito
移動 / 記憶 / 自然
太古の記憶が刻まれた糸魚川静岡構造線。かつてこの険しい地形は、巧みに利用され物流の道として人々の生活を支えていた。それは縄文期にまで遡ることができる。さらに長い年月を通して、道は信仰や文化も作り出してきた。私はこの道を移動し追体験することで、私達の体に刻まれた始原的な記憶を掘り起こしたいと考えている。
03 《移動すること》構造線と塩の道 ③

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■ 谷間に住まう民

古来、定住農耕生活が可能な開けた土地では、その地域だけで様々な物をまかなうことができました。しかし、寒冷地域や漁民地域では生産物の偏りがあり、他の地域との交易が必須でした。そのために物々交換を目的とした塩・穀物・魚介・木地・鉄など、各土地の生産物が地域間を行き来していました。この交易に重要なのが、塩の道をはじめとする各地の街道と運搬手段です。
例えば、鉄の産地であった東北地方の北上山地や下北半島では、砂鉄から精錬された鉄を牛の背に括り山間部を抜け、信濃地方や京地方まで運搬しました。こうした遠方への運搬には1~3ヶ月が必要で、馬方・牛方と呼ばれる人々が長期の運搬を担い、それを生業としていました。また、彼等は、5頭から7頭の牛や馬を連れ旅をしました。
山間部が多い日本では牛方以外にも運搬の担い手として、険しい峠の案内をする者が土地ごとにいたようで、宮本常一(民俗学者)の著書「生きていく民俗」では、その者たちのことを以下のように紹介しています。

“ 日本には峠が多かった。どこにいくにも峠を越えなければならなかった。ところが峠を越える谷筋には、申し合わせたように寺や神社がまつられていて、そこに何人かの僧侶や神人が住んでいたものである。・・(略)・・いずれも古い社寺であって、そこには寺座・宮座があり、そこに住むものは峠越えの荷持ちをしたり、時には警護の役目もしていたようである。つまり単純な農村ではなかった。 ” (「生きていく民俗」著:宮本常一/河出書房新社)

彼等は、山岳信仰などの修行の中で山々を日々移動し、その土地の地形を熟知していました。その為、信仰に訪れた旅人や、あるいは交易運搬のために訪れた牛方を案内することができたのです。そして、山伏や、僧侶などの地位を持っていた彼等は、険しい峠の案内役によって得る施しを生活の糧にして修行をつづけたのです。

また、続いてこのようにも書かれています。

“ このような現象は他の地方にも見られたのである。今日、山中の村で神事芸能を伝えている村はきわめて多いが、これは山中だから古いことが残っているというだけではなく、そこに神事芸能を行なうような人々が住んでいたということになる。・・(略)・・静岡県の天龍川をさかのぼって水窪(みさくぼ)という所から青崩峠を越えて長野県遠山に入り、さらに大河原・鹿塩を経て諏訪湖のほとりにいたる道なども、早く山岳信仰者のひらいた道ではなかったかと思う。この谷筋には多くの神事芸能が残り、また南北朝のころには北条時行がかくれたり、宗良(むねなが)親王が戦略の根拠地にしているのは山奥でありながら行動に機動性が持てたためと思われる。というのは、この谷々に住んでいた人たち自身が機動性を持っていいて、これらの武将をたすけたためであろう。 ” (「生きていく民俗」著:宮本常一/河出書房新社)

上記に示される道は、塩の道の中で最も険しいとされている峠周辺を指しています。この書籍は1965年に執筆されたものですが、現在でもこの土地には豊かな民俗・芸能が残っており、その中でも代表的なものが「湯立神楽」です。
湯立神楽とは、大きな釡で湯を沸かし、その周りで舞をおこなう神楽です。特徴的なのは「湯切り」と称される所作があり、舞の途中や最後に、素手あるいは笹や藁などを煮えたぎる釡に突っ込み、湯を切るようにして周囲に浴びせるのです。湯は、五穀豊穣、無病息災、家内安全などを招くといわれています。
この湯立神楽は、全国各地で執り行われており、土地ごとに所作や意味が異なります。例えば、千葉県の四社神社では、釡の中に入れた手の火傷具合で吉凶を占います。
一方で、塩の道沿いでおこなわれる湯立神楽の特徴は、夕刻から夜通しでおこなわれることです。15時前後から釡に火が焼べられ、湯が湧くとそれを囲って様々な舞がお囃子とともに夜が明けるまで続けられます。
また、青崩峠の北側に位置する遠山郷の湯立神楽「霜月まつり」は、伊勢神宮でおこなわれていた湯立神楽の原型を残しているといわれます。
湯立神楽に興味を持ったきっかけは、その中心的要素である釡湯にほかありません。縄文期から塩を作り運搬した塩の道に於いて、釡茹では塩の精製と関わりがあると感じたからです。実際に、塩の道の重要な場所である秋葉寺(しゅうようじ)では昭和17年の火祭りまで湯立がおこなわれ、その際に塩水を入れた釡を湧かしたと言われています。また、この湯立神楽では最後に火伏の舞がおこなわれます(舞手が釡下の薪を斧で散らす)。火伏の神を祀る秋葉山は、江戸時代に全国的な信仰を広めますが、それ以前から続いていた湯立神楽がその下支えになったのではないでしょうか。それ以外にも、湯立神楽には塩の道に関わる重要な役割を多分に含んでいると感じています。そのため今回のブリッジ・ストーリーでは、浜松市佐久間町川合地区で10月31日におこなわれた湯立神楽をご紹介します。先に、佐久間町の地理をご紹介します。
前述した水窪の南に隣接するのが佐久間町です。さらに広い視野で俯瞰すると、佐久間町は塩の道と中央構造線が交わる場所に位置します。そのため、構造線に由来する2つの大きな川が町内で合流し下流へと流れます。西方愛知県北設楽からは大千瀬川(おおちせがわ)、北方水窪からは天竜川が流れ、天竜川は北方諏訪文化と南方遠州文化、大千瀬川は南西の三河文化を佐久間に伝えます。これにより、佐久間には三方混合の文化が根付いています。湯立神楽も「霜月まつり」ではなく隣接する愛知県北設楽の神楽「花まつり」に傾倒する「花の舞」と呼ばれて、また、町の商店や祭の炊き出しで出される五平餅には赤みそが使われています。
■ 循環と再興への願い

川合地区の「花の舞」は、毎年10月最終週の土曜日に執りおこなわれます。元来は太陽が最も弱まる冬至を含む旧暦11月に湯を立て舞うことで、太陽の再興を願い、また八百万の神や人々の一年の汚れをお湯によってあらに流すことを目的とします。また、「花」と呼ばれる所以は、「花」の字に込められた「化」が意味する「死」に由来し、祭によって死を招き入れ、新たに生まれ変わることを願ったともいわれています。
祭は15時から区内の八坂神社で始まります。まず始めに「地固め」と呼ばれる舞が奉納されます。その舞を皮切りに、40種の舞が夜明けまで夜通しおこなわれます。さらに、様々な舞の中で、舞手の背中には家内安全など奉納祈願をした町民の名前や願いが書かれた札が貼られ、舞いはその祈願としての意味も合わせています。

神事の中で最も観衆を湧かせるのが、真っ赤な衣装に包まれ太い腰縄を巻き天狗や鬼(山見鬼・伴鬼・榊鬼)が、斧を持って乱舞する演舞です。視界が遮られる大きなお面をかぶった鬼たちは、立ち昇る炎と熱で酸素を失いながらも、体の限界まで雄大な舞を披露します。この限界を超えた舞によって観衆たちは高揚し、祭は熱を帯びていきます。私は彼等の舞が作り出した景色を、こう表現したいと思います。

[ 丑三つの刻、静まり返った深い山間で彼等は私たちの細胞を律動させ熱を生み出し、同時に、太陽の光を失い衰弱した周囲の山々に新しい命を吹き込んだ。 ]
鬼や天狗を含め、彼等の舞は屈伸・左右への回転といったシンプルな所作で構成され、また、3~4人の舞手が釡を中心に左右交互に移動し螺旋を描きます。こうした簡素な動作を1つの舞の中で幾百回と繰り返すことで、彼等の体は寒空の下で徐々に熱を生み出し、中心で沸き上がる釡と、彼等の息や体から出る湯気が上空に向かって渦を巻いて昇っていきます。つまり、彼等の舞いは、シンプルな動作を繰り返すことで万物共有の「揺らぎの形」へと自らを変換させ、あらゆるものの中へ混ざり合おうとしている行為に見えました。だからこそ、彼等が作り出したこの景色は、私たちの体の中にある細胞に対して直接触れ、そこに熱を生み出し、また、それと同時に舞によって沸き上がった蒸気は、暗闇に落ちた山々に静かに浸透し、新しい命の源となっているのだと思います。
このことが、この神楽が川合地区で大切にされてきた所以だと強く感じました。
海から離れたこの土地に住まう彼等にとって、山々は作物を与えてくれる大切な存在です。つまり、山々が持つ生命力の加減は、彼等の生命力と直結します。そうした中で、彼等は自らが舞う神楽によって大いなる自然と混ざり合い、そこに宿る生命力の循環と再興を目指しているのです。

もう一つ、私はこの花の舞が見せてくれた景色について触れたいと思います。それは、舞を奉納する幼児や中高生を見つめる大人たちの「まなざし」が、境内に立ち上がった空間にさらなる強度を持たせていたことです。
地元の方々の話では、大人たちは誰しもが40種ある舞のすべてを踊ることができるそうです。なぜなら、すべての大人たちは子供の頃に舞手として祭に参加し、周囲の大人に舞や笛を習い、またそれを教えた大人たちも同じく幼少期に大人の教えを受けていたからです。舞手を見つめるまなざしの背景には、千年以上の長い年月の中で、今と同じようにこの祭を囲み、立ち昇る湯気の向こう側を慈愛に満ちたまなざしで見つめた人々の和が年輪のように幾重にも広がりが見えるのです。

舞手は皆、区内に住む幼児や中高生など、ごくごく普通の若者たちです。そうした彼等がこの特殊な空間を作り出したのは、千年を越えて紡がれた「まなざし」が彼等に力を与えたのだと思います。その「まなざし」の力強さに私は最も感動を覚えました。

現在、様々な形で行政がおこなう教育制度とは異なり、彼等は神楽を媒体として、時代を超えた集団的な文化の伝承を実現しています。これは、この湯立神楽の目的とする「生まれ変わり」や、「自然の再興」を端的に具現化している行為とも言えます。舞手の子供たちは、お囃子の拍子に合わせ幾十回、幾百回も前後左右上下に体を動かし、そのリズムの中で太古の人々の記憶を言葉にできない形で継承する。またそれを見る大人たちも、子供たちが起こす律動によって幼少期に体の中に刻まれた嘗ての人々の記憶を再燃させている
ように私は感じました。形式張った神事としてではなく、民間信仰として根付く花の舞は、大いなる時間、集団性、さらには個人の体の中で、多次元的な推進力を持って古代から受け継がれた生命力を循環させているのです。

花の舞 「お囃子」

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