齋藤彰英
Akihide Saito
移動 / 記憶 / 自然
太古の記憶が刻まれた糸魚川静岡構造線。かつてこの険しい地形は、巧みに利用され物流の道として人々の生活を支えていた。それは縄文期にまで遡ることができる。さらに長い年月を通して、道は信仰や文化も作り出してきた。私はこの道を移動し追体験することで、私達の体に刻まれた始原的な記憶を掘り起こしたいと考えている。
02 《移動すること》構造線と塩の道 ②

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砂利を伝うアリの道
◼︎道しるべと拠り所

私は前回申しました通り、様々な時代の記憶が人のあゆみよって踏み固められた塩の道(※1)を追体験することで、そこに埋もれた始原的な景色に触れてみたいと考えています。今回は、7月から9月の間に塩の道で触れた景色についてお話ししたいと思います。
(※1 静岡県相良から長野県塩尻までを繋ぐ全長230kmの古道)

冒頭に掲載した写真は、体長3・4ミリのアリが連なって移動する様子を写したものです。この写真は塩の道ではなく、三重県鳥羽市の離島「答志島(とうしじま)」の海岸で撮影したものです。このアリの道は確認できただけでも60メートル以上続いており、また、道に溜まった砂利や、コンクリートの凹凸を伝って繋がっていることに私は驚きました。彼等にとって砂利の起伏は、私たちにとっての丘、あるいは河川と同じように見えていることでしょう。彼等にとってのそうした地形を利用することで、道は乱れること無く紡ぎ出されていたのです。私はそれに対する驚きと同時に、道を紡ぎだすアリの姿に、塩の道の元となる野道を歩んだ古代の人々の姿を見たような気がしました。

塩の道の菊川市~森町間は河川によって作られた平坦な堆積地域を通っています。その平坦で直線的に移動できる場所においても、道は常に丘陵地の縁や、小川の横を伝い細かく蛇行しながら北上していきます。また、道は近代では使用されることが無くなったために風化が激しく、注意砂利を伝うアリの道を怠ると真新しい道路や建築の陰に隠れ見失うことが多々あります。しかしながら、そうした時は周囲の丘の縁や、起伏の境目に移動してみると必ずと言っていいほど塩の道に戻ることができ、地図を手にしながら歩くより寧ろ感覚的にその土地を歩いた方が的確に塩の道に沿うことができるのです。
標識や地図を頼りに利便性が追求された現代的な道を移動することとは異なり、地形そのものをなぞりながら移動する経験は、この道に踏み固められた野生性を感じさせてくれます。
秋葉道・塩の道路査研究会の示す塩の道:森町
この道を追体験し感じた野生性について、現時点ではっきりと言い当てることは難しいのですが、「本能的な恐怖と安堵の感覚が移動に対する思考を左右させていた」ということではないかと考えています。

そのように考えるきっかけとなったのが、冒頭のアリの姿と、塩の道の途中で見つけたイノシシの足跡でした。

静岡県森町の塩の道沿いには周囲を一望できる小高い丘があり、その丘の上には「天宮神社(あめのみや)」があります。また、この神社の本殿の奥には「くちなし池」と呼ばれ大切に祀られている池があります。本殿から池までは幅3メートルほどの山道で繋がれており、道の両脇はシダや紅葉、本殿の用材として育てられている栂(ツガ:マツ科)などの植物に覆われています。また、植物が茂る森と山道との間には雨水が斜面を流れることで自然にできた幅50センチ程度の溝があり、このぬかるんだ溝にイノシシの足跡はありました。
山道の脇に残されたイノシシの足跡
くちなし池までの山道
足跡は茂みから20メートルほど溝に沿って残されており、またその溝に沿って茂みへと引き返していました。残された足跡の状態から、森から出たイノシシが幅3メートルほどの開けた道に対して恐怖を感じながら周囲を窺っている様子が見て取れました。
私が住んでいる多摩丘陵地域には夜になると頻繁にタヌキが出没しますが、境内に見たイノシシと同様に、タヌキはいつも道の端にある側溝や壁の縁伝いに歩き、道路をわたる際にはそれが狭い路地であっても彼等は全速力で駆け抜けていきます。
山道の脇に残されたイノシシの足跡
彼等の移動する様子や場所を観察してみると、動物にとって森は住処であり外敵から身を守ってくれる安全な場所で、反対に少しでも開けた場所は無防備で危険を伴う場所であることがうかがえ、そして彼等が作り出す道は安堵と恐怖が隣接する境界線であることが見えてきます。

そうしたイノシシの足跡を塩の道と重ね合わせ、この道を最初に歩き始めた縄文人が持ち得た野生性を考えてみると、他の動物同様に本能的な恐怖や、私たち人間がもともと住処としていた森に対する安堵があったからこそ、この塩の道は地形の縁を縫うように連なっているのではないかと思えてくるのです。つまり、この地形が移動にとっての道しるべであると同時に、私たちが本来拠り所としていた場所の輪郭を示しているのではないでしょうか。

また、移動の中でもう一つ感じたことは、神社に祀られる御神木や巨石あるいは池などは、長い年月の中でそこに身を寄せそこを拠り所とした動物や人の想いが堆積したことで、他とは異なる土地の強度が生まれた、ということです。さらに、自らの手で身を守る術を持った私たちは森から離れる一方で、本来私たちを守ってくれた森との繋がりを保つ為に、強度のある土地に対する信仰や、森への入り口となっている道沿いに多くの祠や、石仏を安置したのではないでしょうか。そうした行為は、文化的な行為に見えますが、むしろ動物としての野生性から生まれた行為に思えました。

今回、菊川~森町の塩の道を移動する中で目にした昆虫や爬虫類、鳥やその他の動物たちは、移動することの本来の感覚を見せてくれました。そして、その感覚は、風化し形を失いかけている道の姿を掘り起こす一つの道しるべとなりました。
足跡が引き返した栂林
くちなし池
くちなし池のカエル
小川に沿って飛ぶアオサギ
塩の道沿い垂木川のコイ
天宮神社御神木の竹柏(ナギ)

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