瀬尾夏美
Natsumi Seo
旅するからだ:ことばと絵をつくる
大津波のあと、岩手県沿岸の陸前高田というまちに暮らすようになりました。私はそこで日々働きながら、見聞きさせてもらうさまざまを誰かに渡したいと考えて、絵や文章をつくっていました。私は大津波も見ていないし、以前のまちの姿を知っている訳でもありません。ただ歩いて辺りを眺め、そこに居る人に話を聞き、私自身がかろうじて見えたもの・聞けたことを形にしていくのみです。だから、何かを精確におこすことは出来ません。けれど、わからないからこそ生まれるイメージのブレのなかに、受け手の居場所をつくることが出来るのかもしれない、とも思うのです。作家の身体は旅人である時にこそ機能するのではないか、そんな問いが私のなかにあります。たとえば、そこに暮らしながらも旅人であるということ。一時的にそこに居合わせて、誰かを看取ること。うつくしい風景をうつくしいと言い切ること。この場所では、実際にさまざまな土地を訪れながら考えた旅についてのあれこれを書いていきたいと思います。
03 なくなったまちを訪ねて

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“なくなってしまったまち”が無数にあるということについて、東北の地に来てから、お年寄りに話を聞くようになってから、私はやっと考えることになった。彼らは「そごにはもうなんもねぇんだよ」と言いながら、かつて暮らした村のことをとうとうと語ってくれる。「何もない」と言われると、「本当にそうなのか」といぶかしがるのが私の性格で、その場所に行って、何かしらの痕跡を探したくなる。そして、「形は変わっているかもしれないけど、ありましたよ」とか、「あなたが確かにそこに居たことは、ちゃんと風景の中に残っていますよ」とか言いたいのだと思う。こう書いてみるとずいぶんと身勝手で、かと言って断りにくいであろう、ありがた迷惑な話で申し訳ないのだが、そんな風にして歩き始めた道中のことを記してみる。
秋の頃、宮城県の山奥を訪ねた。ある民話語りのおばあさんが村の暮らしについて語る、長い映像を見たことがきっかけだった。彼女の語りによれば、自然環境は厳しく、山の暮らしは貧しいものであったが、そこにはゆったりとした呑気さがあったのだという。ひとりで山に入って、日がな一日炭焼きをすることの気楽さや、金銭的には豊かでないけれど、そんな環境を理解しあって役割を与えあえる関係のあたたかみを、彼女は何事でもないように語った。しかし、彼女が暮らしたその村は、「今は、なんもねぇ」のだという。いわく、米軍と陸上自衛隊共同の実弾演習場をつくるという話が持ち上がり、近隣の村落に騒音被害が予測されることから、彼女の村があった場所は「もう住めない」とされ、2000年に村ごと移転したというのだ。弱い場所には繰り返し歪みが現れるのか、震災後、その村の跡地は、放射性物質の最終処分場の候補地となったとも聞いた。
宮城県大崎市古川師山升沢
私は村の移転の際に民俗調査に入っていたOさんに頼んで、一緒にその場所を訪ねた。道中の車内で、当時彼女が作った分厚い資料を見せてもらう。山仕事のさまざまな手法、生活用水のための水路の工夫、村に残る石碑群の一覧、そこにあった家々の姿。「ああ、○○さんだ」という呟きを聞くたびに、そこにあったはずのものが今はもうない、ということが余計に際立つようだった。
大きな道を外れて山道に入る。まだかまだかと思うような頃、やっとおばあさんの村のあった場所に辿り着いた。コンクリートの山道の脇に森との際の草はらがあるだけで、ぱっと見では、そこに何かがあったことすらよく分からない。「ここかなあ」としめされたその場所が、「どうやらおばあさんの家の跡地のようだ」という。なんでも、保証金の関係で価値のありそうなものは根こそぎ失くさなければならなかったそうで、家や物置は元より、庭木の一本さえも、個人の所有物であったものはひとつ残らずそこにはない。ただ、村人たちの共有物であった水路だけが、伸びた草に紛れてそのままになっていた。
草はらをかき分けて歩きながら、Oさんは、「ああ、もう結構忘れちゃってるなあ」と、あっけらかんと呟いた。無くなっていく村に幾度も足を運び、ここにいた人びとの話を聞き続け、あの分厚い資料集をつくった彼女は、「私ね、それでも、忘れてもいいとも思うのね」と続ける。彼女が当時からそう思っていたのか、今だからそう言ったのかはわからなかったけれど、私は、はっとした。ここにあった営みが消えてしまったという事実は確かにさみしいことだけれど、だからと言って、誰もが忘れてはいけない訳ではないはずだ。まちをなくしたという出来事は、“忘れてもいい”という自由すらを奪うものであってはならないのだ。ふと、映像編集のあいさつにと、おばあさんを訪ねたときのことが思い出された。今は山を降りてまちに出た彼女は、近代風の便利な生活のなかで淡々とちいさな畑を耕し、自宅の駐車場の隅っこに自分でつくった大根を干していた。彼女は確かに“村を失った人”ではあるが、それよりずっと前から、日々を暮らし続けるひとりの人だ。他人である私が、彼女に“失った”という物語を彼女に負わせたがっていたことに気づく。
Oさんは村の記述をすることで、この場所で編まれた経験や記憶を、一部ではあるが、別の形に置き換えて記録・保存した(返せば、無くなりつつある、忘れられつつあるという認識のもとに、記録という行為がはじまるのかもしれない)。それは、出来事の保管場所を他につくることで、“個人や場所”と“出来事”をそっと剥がしていくことなのだと思う。
そう捉えたとき、自分がやっていることと繋がってくる感触があった。津波のあとの陸前高田でまちの痕跡を描くことも、戦争の語りを聞いて文章にすることも、それに似ている。ふと、“出来事の看取り”ということばが浮かんでくる。(予感も含め)消えかかりつつあるものの傍にいようとすること。すると同時に、幾人かの友人の顔が浮かんだ。自分が育った集落が衰退していく過程をおだやかなものにしていこうと、ふるさとに通い続ける青年。長く続いた劇団で、代表が亡くなったあとに、話し合いを繰り返しながら最終公演をつくりあげたメンバーたち。新潟水俣病の当事者・サポーターともに高齢化し、徐々にいなくなっていく状況の中で、対話の場を支え続けている女性。彼らがやろうとしていることを、(ことばが強すぎるし、かなり不本意かもしれないけれど)私は、“出来事の看取り”と考えられるような気がした。弱りつつある何か大切なものに並走し、何かしらの形に落とし込んだり、形を変えたりすることで、次に渡していくこと。“引き継がれるべき何か大切なものが誰かに渡された”こと(もしくはそのような実感——それは物語化することにも思える)によって、具体的な“個人や場所” は、忘れることへの自由さをもう一度獲得していく。時間経過によって背負ってきたさまざまな意味を、そっと下ろす手伝いとも言えよう。
空へ
先述の新潟の彼女に「なぜ、そんなに関わっているの」と問うと、彼女は「なんでだろうねえ」と笑いながら、「たまたまだよ」と言った。それには私も共感した。本当に、たまたまなのだと思う。私のイメージでは、ふと、あげられたボールが宙に浮いていることに気づいてしまい、見渡してみたがここには私しかいないことが分かり、そのボールが落ちないようにとあわてて身体をうごかしてみる、といった感じだ。この“ボール”に当てはまるものは、ことばや記憶や想いであったり、もしくは運動や組織であったりもするだろう。誰か(たち)にとっての大切なものごとが、何かの条件によって中断を余儀なくされそうな状態にあるとき、そのまま地面に落ちて消えてしまうことを忍びないと感じた人が、それを拾い上げようとする。“ボール”に気がつくのは、思いのほかその出来事に近しい人ではなく、通りすがりの人や一時的に滞在した人の場合が多いように思う。きっと、次に繋ぐことがその人の役割なのであり、ある種の無責任さと気楽さを持った旅する人の所作なのだ。関係する人たちによる手渡しが難しくなったとき、誰かが間に立つことで、両者はやわらかく出会い直せる。もちろん、ボールを繋ぐのに時間がかかれば、旅する人はその場所で暮らしをはじめるだろう。連結点から、次の担い手に変容することもあるだろう。
大きな石のある風景
私が描く絵を、「死化粧のようだね」と言った人がいた。最後の姿を彩り、送ること。在りし日の生きた姿のように描くことは、無くなっていくもの自体を悼むことでもあるが、同時に、送る人びとと送られていくものを繋ぎ直し、これからをつくっていくことでもあるかもしれない。看取りとはきっと、なくなっていくものと共存し続けるための、これからに向けた積極的な行為だ。
最後に、もうひとつ訪ねた場所である岐阜県の旧徳山村のNさんのことばを引用したい。この村は、1950年代にダム計画の浮上を受け、長く続いた運動の果てに、半世紀のときを経て水に沈んだのだという。廃村からは30年の月日が経っている。ダムの入り口に出来た『徳山会館』という、かつての村の資料展示や元村人たちの手作りの品の販売を行っている交流の場をきりもりしているのがNさんであった。彼は、おだやかな口調で語った。「30年も経ったからな、村について語る人は減ったな。風化という人もおるが、それが当たり前のことや思うとる」「忘れてもいいこともあるでな。忘れられたいこともあるでな。ただ、村のことを忘れられん人たちを、私はひとりにしたくないのでな。それに、消えてくものをなんとか食い止めようとした人たちがおったからな。そん人たちが遺してくれたもんは、やっぱり大切なもんだと思うのでな。」
なくなったまちは、ちゃんと、そこにある。
岐阜県揖斐郡揖斐川町開田

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