大谷悠
Yu Ohtani
まちに「あそび」をつくりだす — 都市空間を私たちの手に取り戻すために
禁止事項だらけの公園に、人を排除する公共空間、止まらない大規模な再開発、なんだか最近都市の生活がますます窮屈になっています。事なかれ主義の行政や、利益至上主義の不動産開発業者たちを批判することも必要ですが、都市に生活する私たちが動くことで状況を変えることもできます。それは都市に「あそび」を作り出すこと。この「あそび」には2つの意味があります。一つは活動を通じて、まちの人々が参加できる「楽しい遊び」を仕掛けていくこと。もう一つは都市の中に「空間的なあそび」を作り、人々の交流や活動のベースとなる場所を維持していくこと。この2つの「あそび」を追求することが、都市空間をもういちど我々の手に取り戻していくことにつながるのではないか。そんな仮説をもとに、日本とドイツの5つのケーススタディを紐解いていきます。
02 産業遺産を「アート」で「あそぶ」— ドイツの衰退工業都市に「パラダイス」をつくった話

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■産業遺産と「社会的問いかけの力」

2015 年7月、長崎県端島炭鉱、通称軍艦島を含む「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」がユネスコの世界遺産として登録され、大きな話題になりました。その少し前の5月に私は軍艦島を訪れました。国内初の鉄筋コンクリート住宅や、島を覆い尽くした無機質な建物群に人が暮らしていた有機的な構造が垣間見えた点など、非常に感銘を受けた一方で、大きな違和感も感じました。それは軍艦島自体にではなく、軍艦島の「見せ方」に対してです。
フェリーの船内や軍艦島上陸中も当時の写真や資料が適宜提示され、軍艦島がどのようなものだったのか説明がありました。しかしそれは「日本の近代化にいかに貢献したか」「採炭技術がいかに高かったか」「島の暮らしがいかに近代的だったか」というような、いかにも聞こえの良い上辺だけの情報ばかり。折しも軍艦島において強制労働があったのではないかとの議論が活発になされていた頃です。その議論に直接言及する必要があるか否かは置いたとしても、少なくともこの島の採炭業が国策として作られ、様々な人間たちが入り混じり合いながら生活していたこと、どのような労働・生活環境で、どのような喜びと苦しみをもって人々が生活していたのか、というような生々しい記憶とのコンタクトは一切なく、単に「日本の誇り」あるいは「ノスタルジックで美しい廃墟」といった文句で覆い尽くされていました。
言うまでもなく、国策として進められてきた産業化・近代化は常に光と闇を抱えてきました。日本の近代化が軍艦島の歴史抜きでは語れないというのであれば、日本の近代化が抱えている矛盾や問題点も軍艦島に凝縮しているはずです。だからこそ「近代化遺産」として軍艦島を残す意味があるのではないでしょうか。産業遺産は、近代化の歴史を紐解き、先人たちの成果と過ちから学び、ひいては今の私たちの社会と暮らしを見つめなおすためにあります。決して他の誰かに自慢するためのものではありません。
軍艦島
社会学者の荻野昌弘は著書『文化遺産の社会学』のなかで、工場跡地や炭鉱跡地といった空間が文化的な価値を認められて綺麗に保存される過程で、過去の社会的な葛藤や負の歴史が覆い隠され、本来これらの空間が持っていた「社会的問いかけの力」が失われることを指摘しています。「軍艦島を世界遺産へ!」を掛け声とした官・民・地元の「一致団結」が覆い隠してしまったのは、まさに軍艦島の「社会的問いかけの力」なのです。
産業遺産から「社会的問いかけの力」を引き出し、人々と共有し、現在の暮らしとその地域の未来を考えるきっかけとするには、具体的にどんな方法があるのでしょうか。私が渡独するきっかけとなった、ドイツの旧産炭地域ラオジッツ地方で行われていた活動は、まさにこの点に注目したものでした。
■ラオジッツ地方とIBA(国際建築展覧会)
ラオジッツの位置
ラオジッツという地方名を知っている人は少ないでしょう。ドイツの東部、ブランデンブルグ州南部からザクセン州東部にかけて広がる地域で、一部ポーランドを含む旧東ドイツに属していた地域です。ゾルブ人というスラブ系の人々が居住し、深い森と小さな村が点在した「クラバート」に代表される多くのお伽話の舞台だったこの地域に、1000 年ごろからドイツ系の人々が入植してきました。その後の近代化によって、この地域の様相は一変しました。古くからラオジッツには「燃える石」が埋まっていることで有名でしたが、この燃える石=褐炭が近代化を急ぐドイツにとって重要なエネルギー源であると認識され、19 世紀末以降、褐炭の露天掘りと発電所などの周辺施設が開発されていきました。人口が急増し、労働者のための住宅や公共施設、娯楽施設が次々と建設され、ラオジッツ地方はドイツ東部の重要な重工業地帯へと成長しました。
産業が興隆していた頃のラオジッツ地方のまち並み (c) IBA See
一方で広大な褐炭の露天掘りはその地域の環境と社会に対して大きな負荷を与えます。「神がラオジッツを創り、悪魔が褐炭を埋めた」というゾルブ人のことわざが示す通り、この地域に古くから住むゾルブ人たちを中心に、住民たちは炭鉱開発のため住み慣れた故郷を追われたり、粉塵や大気汚染などの健康被害に悩まされてきました。第二次世界大戦が終わり東ドイツに組み込まれると、東ドイツの経済成長を支えるため、炭鉱開発はピークを迎えます。しかし90 年に東西ドイツが統一すると、基幹産業だった褐炭産業は西側との競争に敗れ一気に衰退し、ラオジッツは瞬く間にドイツでもっとも衰退の激しい地域となりました。労働者は失業者となり、公共施設は次々と閉鎖され、若者は教育や仕事を求めて故郷を離れ、少子高齢化が進み、現在でも人口の減少に歯止めがかかっていません。空き家の目立つ街を通り過ぎると、褐炭の露天掘りが途中で放棄され、荒涼とした砂漠地帯が延々と続く風景が現れます。これが現在のラオジッツの典型的な風景です。
露天掘り跡地
この衰退地域になんとか未来の展望を開こうと2000 年にスタートしたのが、International Bauausstellung (略称IBA)でした。IBA は「国際建築展覧会」であり、もともとはドイツ国内の都市や地域が新たな都市開発モデルを示し、実際に建てて実現することを目的としたもので、1901 年にダルムシュタットで開催されたのが始まりです。1990 年代以降は、ルール工業地帯、ザクセン=アンハルト州、ハンブルグなどで、産業転換や人口減少、空き家問題などを抱える地域を再生する糸口をつかむため、10 年ほどの期間をとって都市・地域の再生プランを立案し、実際に実現することを目的に開催されています。IBA の運営はその地域の行政が出資する株式会社によって行われ、連邦政府やEU の助成金を得ながら行われます。ラオジッツ地方では2000 年から2010 年の間にIBA が開催され、褐炭の露天掘り跡地を湖として再開発する計画や、産業遺産の保全改修などが行われました。


■失われたまちの同窓会とユルグ・モンタルタ氏

そのIBA の先進的な取り組みの一つが、露天掘り跡地に人々を招き入れ、その「過渡的な状態の風景」を人々に体感してもらうというものでした。露天掘りの跡地は、地下水と雨水をうまくマネージメントすると谷底に水がたまり、湖に生まれ変わります。しかしそのプロセスには10 年〜20 年ほどの時間がかかり、その間の風景はまるで広大な砂漠のどまんなかに水たまりができているという特別なものになります。その風景を楽しんでもらおうと、元炭鉱夫が露天掘り跡地を案内し、谷底でランチを頂くというウォーキングツアーや、ジープツアーがIBA によって行われていました。
ウォーキングツアー。谷底でランチを楽しむ参加者たち。
2003 年、「過渡的な風景ツアー」にたまたま参加したスイス人舞台監督のユルグ・モンタルタ氏は、ここで衝撃的な体験をします。グロースレーシェンという、小さな元炭鉱都市の露天掘り跡地で行われたウォーキングツアーには、ベルリンからやってきた好奇心旺盛な若者、元炭鉱夫、地元の人々など様々な人が参加していました。炭鉱夫は「このあたりで、毎日何万トンもの石炭を掘り出していたんだ!」と自慢気に語りながらツアーを進めていったといいます。そのとき突然、ある女性がはたと立ち止まり、「このあたりに私の学校がありました」と語りだしたそうです。楽しかったまちでの生活が、採掘による強制移住で一変してしまった、と話す彼女の目には、涙が溜まっていました。モンタルタ氏は、そこでグロースレーシェンの歴史の一面を知るとともに、露天掘り跡地には「労働者の誇り」と「今はなき故郷」という相反する視点が存在し、人々の想いが激しく交錯する空間であることを実感します。
このことに心打たれたモンタルタ氏は、IBA とグロースレーシェンの住人に対し「露天掘りのために失われてしまったまちの住人を、改めて谷底に集めてそれぞれの歴史を語ってもらう」という企画を提案し、2003 年10 月に実現しました。「全てを失った—全てを得た?」と題されたこのプロジェクトは、炭鉱夫、工場労働者、教師、主婦、神父など17 人の人々が自らの経験を観客に語るというもので、まるで失われたまちの同窓会でした。
「全てを失った—全てを得た?」立っている男性が思い出を語っている。(c) IBA See
準備段階で、はじめは過去を振り返ることをためらっていた住民たちですが、モンタルタ氏と発表の内容を組み立てているうちに、おさえていた感情が爆発し、堰を切ったように自分の体験を語りだしたと言います。モンタルタ氏はその人の体験の一番重要な点を制限時間10 分で効果的に話せるように原稿を一緒に考え、アドバイスしていきました。「露天掘り跡地が湖となり、風景が美しく回復したとしても、故郷を失い、仕事を失い、自尊心を失った人々の心を癒やすのは簡単ではありません。感情や経験を他者に語ることで共有するところから、アイデンティティや自尊心が回復するのです。」とモンタルタ氏が語るように、このプロジェクトの本質は「住民の心のケア」にあったのです。
実際にかつてまちがあった場所で行われた。(c) IBA See
特筆すべきは、これが実際の露天掘り跡地の空間を利用して行われたことです。10 分の1 の街の外形が谷底に描かれ、それぞれが住んでいた場所にそのとき使っていた家具を持って来て円形に座って話をするというシンプルな空間的しつらえですが、谷底の荒涼とした風景を「舞台」とすることで、「演者」となった人々の活き活きとした経験談とのギャップが、産業化・近代化に振り回された彼らの体験を効果的に演出しました。「谷底の同窓会」というプロジェクトを行うことで、露天掘り跡地が「社会的問いかけの場」となったのです。
白い線がかつての道を示している。(c) IBA See
■元工業都市にパラダイスをつくりだす — パラダイス・プレッサ

「失われたまちの同窓会」プロジェクトが成功に終わると、IBA とモンタルタ氏は次なる取り組みに着手します。それが2010 年のIBA 最後の年に行われた「パラダイス2 」です。これはラオジッツ地方の7ヶ所の都市・村でそれぞれの住民がそれぞれの都市空間を用いて芸術祭を行うというものでした。筆者は「失われたまちの同窓会」プロジェクトとモンタルタ氏の活動に非常に興味をもち、2010 年の5月に大学院修了とともにドイツに渡り一年間IBAで研修を行い、「パラダイス2」に参加しました。筆者が企画運営に参加した「パラダイス・プレッサ」についてここで紹介します。
プレッサはラオジッツ地方の北に位置する、人口3000 人ほどのとても小さな都市です。この街には、現存するヨーロッパ最古の褐炭発電所が遺産として残されています。50 才以上の住人の多くは、かつて発電所を始めとした褐炭産業に従事しており、現在では失業者となっています。若者は故郷をあとにし、高齢化が進み、空き家が増え、20 年ほどで見る影もなく衰退していきました。
プレッサの風景。街のどこからでも発電所の煙突がみえる。
「この街に、もう一度『パラダイス』をつくろう」、それがモンタルタ氏の最初のアイディアでした。かつて産業が栄え、たくさんの労働者たちが集い、繁栄を謳歌していた時代はもう戻ってきません。しかしプレッサに残された空間を使って、もう一度、一日だけ、この街でしかできない豊かなお祭りを作ろうという企画です。
私たちIBA の運営チームは週に一度プレッサを訪れ、住民を集め、一緒に本番当日のアイディアを練っていきました。モンタルタ氏が司会を務め、ミーティングの進行を行っていくのですが、これが非常に興味深いものでした。まず彼は参加者を円形に座らせます。これはお互いの顔がきちんと見えるようにするためです。話し合いにはいくつかのルールがありました。

1. ミーティングを始める前に全員で一分間目を閉じて集中力を高める。
2. 話すのは必ずひとりずつ。他の人の話を途中で遮らないこと。
3. 人のアイディアを否定せず、アイディアを「足す」発言をすること。
4. お金の話、実現性の話はしないこと。
5. メモはとらず、聞くこと・話すことに専念すること。

モンタルタ氏が行うミーティングには毎回微妙な緊張感がありました。そこで話すことは、全ての参加者から注目され、まるで「舞台に立つ」ような感覚になるのです。モンタルタ氏はここでも舞台監督としての自身の経験をこのような住民参加のミーティングに応用していたのです。
ミーティングの風景。一番右がユルグ・モンタルタ氏
モンタルタ氏は、住民たちが問題を指摘して批判するだけでなく、具体的にどうすれば良いのか、住民達が自ら考えるようにリードします。はじめの頃は大変シャイで発言するのをためらっていた住民の多くも、話し合いを重ねるごとに次第に自らのアイディアやまちに対する思いを積極的に話すようになり、お祭りのコンセプト、具体的なアイディアが練られ、自発的に作業グループを作るまでに至りました。モンタルタ氏自身が自ら物を作ったり提案することはありません。大きなコンセプトと最終的なイベントのクオリティを保つこと以外は、デザインや内容にはほとんど口出しません。モンタルタ氏の役割は、話し合いを通じて人々のモチベーションを高め、コミュニケーション可能な状態にしてアイディアが生み出される土台を作ることだったのです。こうして本番を迎え、人口3000 人のプレッサに、5000 人以上の人々が集まりました。
「パラダイス・プレッサ」で作られた花壇。住民らが花を持ち寄ってできた。(c) IBA See
文化会館前でコーラス。(c) IBA See
光の道を参加者と一緒につくった(c) IBA See
いつもは閑散としている道が人々でうめつくされた。(c) IBA See
ライトアップされたかつての褐炭発電所。(c) IBA See
■「音」でつながった私とプレッサ

当時全くドイツ語が喋れなかった私は、最初コミュニケーションに大変苦労しました。同僚とモンタルタ氏に本当に色々と助けられつつ、言葉ができない自分でもどこかに入り込めるところは無いかと画策し、見つけたのが「音」の分野でした。
プレッサは小さな街であるにも関わらず、炭鉱夫や市民たちによるブラスバンドやコーラス隊があり、今でも盛んに活動しています。私は彼らと一緒に、光の道のBGM を作りました。演奏スキルは決して高くなく、プロの音楽家は一人もいない、という状況の中で知恵を出し合い、光の道の雰囲気に合い、かつ演奏可能なBGM を一緒に考えて作っていきました。当日のアンサンブルには子供からおじいちゃんまで参加し、とてもすてきな風景で、私もリコーダーで参加しました。
プレッサの人達による合奏(c) IBA See
発電所の中の音響も担当しました。何か音楽をスピーカーで流せば良いのではないかと工場のオーナーに言われていたのですが、それだけでは面白くないなと感じ、発電所の巨大なダクトを叩いて鳴らす事を思いつきました。1.5m ほどの太さをもったメタルのダクトをトイレの「すっぽん」を改良したばちで叩くと、聞いたことのないような図太い重低音が発電所内中に響きわたりました。これがオーナーや地元住民に非常に気に入ってもらえて、実現することができました。本番では「発電所の心音」をコンセプトに、地元の若者2人とともに30 分ほど叩きつづけました。このドラミングは地元の人々と参加者の反応も大変良く、「斬新だ」「発電所の力強さを音で表現している」と多くの反響がありました。
ダクトを叩く筆者。手の皮がむけて大変だった。(c) IBA See
一方、ある女性からは「当時の機械音を流したい」という意見がありました。彼女は東ドイツ時代に発電所で長らく務めていた方で、自らの仕事場を心から愛し、工場のすべてを熟知していました。私は「発電所はもう動いていない。動いていないものを動いているように『偽装』するより、発電所が動かなくなったからこそ出来る、この空間の新たな可能性を音で提示したい」という旨のことを伝えて話し合いました。最終的に私のアイディアは理解してもらえましたが、これは発電所の空間が彼女にとっては「慣れ親しんだ仕事場」であり、私にとっては「魅力的な産業遺産」だったという2つの視点が交錯した瞬間でした。
このように、私は音楽のおかげで、なんとかプロジェクトに関わり、住民の人々とつながり、一緒に考え、思いや記憶を共有し、新たなことを提案することが出来ました。
地元紙に取り上げられた「パラダイス・プレッサ」での筆者とモンタルタ氏
■「アート」と「空間」で産業遺産の「社会的問いかけの力」を引き出す

今回紹介した産業遺産におけるIBA とモンタルタ氏の取り組みは、「アート」と「空間」がキーとなっています。産業遺産はいわば、空間として残された近代化・産業化の記憶です。この記憶は人によって異なり、時にぶつかり合います。IBA とモンタルタ氏は、その「空間」に敢えて人々を招き入れ、それぞれの記憶や想いを打ち明ける発表の機会を創りました。このときにアートは、空間を介して人々をつなぎ、住民、元労働者、観客としてくる外部の人々、子供たちからおじいちゃんおばあちゃんまで、それぞれの人々の感性に訴え、それぞれの記憶と想いが共有されるようにするという、極めて重要な役割を担っていました。ラオジッツにおいて産業遺産の「社会的問いかけの力」が単に違う立場の人々のぶつかり合いを招くのではなく、人々に「共有」される形で引き出されたのは、そこにアートという感性に訴えるコミュニケーションがあったからなのです。
「失われたまちの同窓会」プロジェクトに参加した元住人たちとモンタルタ氏 (c) IBA See
この経験でもう一点実感したことは、アートは決してアーティストだけのものではないということです。 プレッサにおける花壇、テーブルデザイン、蝋燭や松明、音楽、全て住民の人々とIBA のメンバーによる手作りで、いわゆるアーティストや業者などのプロは入っていません。「何か面白いことを、新しいことをやりたい」という人々の意欲が、このクオリティとクリエイティビティを生み出したのです。自分たちで考え、自分たちで作るということがポイントであり、人々が「遊ぶ」感覚で参加できることが重要です。誰もが構えずに、自分の出来ることを生かすことで参加できること。「アートでまちづくり」の決定的に大事なところはまさにこれであり、著名な芸術家を街に呼んできて何か作ってもらってありがたがることは全く異なるのです。この経験から次回ご紹介する「風雲!小倉城」のアイディアが生まれていきました。

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