仲宗根香織
Kaori Nakasone
場所と時間を超えて繋がる、見える沖縄
違う土地に行って新鮮に感じたり、新しく見る風景に感動したりする時、人はそれぞれにとって参照軸となる土地や風景の記憶との比較によってそう感じているのだと思います。また、軸であるはずのその土地で起こる風景の変化も、以前の風景と照らし合わせるなかで変化を感じているのではないかとも思います。私の中で軸にある土地は沖縄しかないのですが、沖縄とどこかの土地を繋ぎながら、過去の沖縄と現在の沖縄とを繋ぐ、というように、異なる土地や異なる時間を超えて、どのように「沖縄」とその「外」が、そして「沖縄」の中にあるはずの様々な時間が、どう繋がりながら変化しているのかを写真とともに考えていけたらと思います。
02 生まれ変わる街を想像する力

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今年の春、那覇の「桜坂」という古くからの社交街に、視覚的にも、おそらく資本的にも巨大なホテルが知らぬ間に建ってしまい、街の変化に呆然としていた。そんな矢先、台南(台湾)で行われたワークショップ「連れていきたい場所—都市記憶ワークショップ:水交社の過去と現在」に参加した。
タイトルにある「水交社」とは、日本統治時代に海軍士官専用の居住地域となった地名のことであり、その地域には日本の様式で建築された住宅や学校などがあった。第二次世界大戦後、国民党空軍の軍人とその家族の居住地になった水交社は、戦争によって住む人々が入れ替わり、時代の移り変わりの歴史を残してきた場所である。現在水交社に住民はいないが、日本統治時代の面影を今なお色濃く残し、廃虚のまま建つ建物が8棟と、かつては賑わった広いマーケットの中に、肉屋と麺屋の2軒が残っているだけだった。
この地域が、都市開発によって新たに再生される計画があるという。今回のワークショップでは、この地域の建物と記憶をどのように残していくかというテーマのもと、当時水交社に住んでいた住民や、現在の水交社の周辺住民に加えて、アーティスト、写真家、建築家、美術関係者、さらには台南市の行政の方も参加して発表や討論が行われた。
このワークショップで素晴らしかったことは、街の構造など物理的な観点から話し合いをするのではなく、実際に生活していた一人一人が記憶や歴史を辿りながら、次に生まれ変わる都市の像を想像するという試みをしていたことだった。現在60代〜80代になられた方たちが当時の写真を見せ合ったり、流行っていた歌を歌いながら紹介したり、中には小学生時代の成績表などを持ってきて微笑ましく話をしてくれたりなど、記憶を共有する方法はさまざまだった。
また、住民だけではなく、台湾各地から集った若いアーティストや演劇家、キュレーター、ミュージシャンなどが、各々の観点から討論に加わっていたことも感動的だった。それにも増して、そのワークショップには実際に都市計画を担う行政の文化局の方も同席し、ラウンドテーブルの形態で多角的に意見交換が行われていたことにも驚いた。
例えば、都市計画で住民への説明会があるといえば、それは行政や政府側が建設を決めた後に、長テーブルを並べて担当者が淡々と説明し、住民がその前に座って聞き質問するというスタイルが一般的だと思っていた。いまだかつて、計画決定前から、住民、アートや文化に携わる人、行政が同じテーブルを囲み、3者で街を作っていこうとする例を、少なくとも私の経験上聞いたことも見たこともない。また、建物も現存しており、かつての生活や歴史を体験していない世代でも実際に見て、触って想像することができる。幸運なことに、建物が残り、再生する都市の計画を大切に思う人々がいることを羨ましく感じ、沖縄を思った。
幼少時代、祖父母宅に預けられていた私は、よく祖母と那覇の市場に買い物に行った。那覇という都会のシティーガールだった祖母は、毎日髪を巻いて、おしゃれをして出かけて、市場の中でランチをして帰るというのが一日の流れだった。祖母に手を引かれて市場に行き、魚や肉の匂いが漂う公設市場や薄暗い中に所狭しと並ぶ布や衣服の間に店主が座っているのを歩きながら眺め、時々祖母と店主が話すのを机の淵から見ていたのを覚えている。
そんな私の記憶が残る那覇の市場の一つ、「農連市場」が今年度中に順次解体され平成30年度をめどに再開発で生まれ変わるという。1953年に開設され60年以上、農家の方たちが野菜や果物などを売り、その他肉や魚、豆腐などの食料品や生活必需品も直接売買されてきた場所だ。もちろん建物の老朽化や安全性を考慮すると、いつかは再生の時期が来ることになるとは思うのだが、やはりあの空間がなくなることには変わりない。
いろいろな場所に住んだ私も、遠い記憶に祖母と一緒に行った場所を忘れないし、似ている場所に行くとその記憶も蘇る。例えば、台北の東門市場やホーチミンのビンタイ市場。暑い日差しの中から薄暗い市場の中に入ると、匂いや空気や人々の話し声で、私は幼少時代に引き戻されて、そこは祖母と歩いた場所になった。
ところで、この農連市場の再開発計画には、どのような人たちが参加したのだろうか。沖縄だけではなく、きっといろいろな場所で都市の再開発は常に進行中だと思う。ラウンドテーブルで行われた台南でのワークショップを思い出し、農連市場は人々の生活や記憶や言葉が残る場所になって欲しいと思う。

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