太田エマ
Ema Ota
脱領域化を考える
当たり前だが、グローバル時代は脱領域の時代と言われる。世界中の流通、移動、文化発信、発展、及び破壊はある特定の土地から切断されてきただろう。ドゥルーズ&ガタリを始めとして、ラクラウ&ムーフ、ネグリー&ハート、多くの理論家・政治学者はこのコンセプトを異なる角度から解釈し、多様な分野に適応してきた。家庭、地域、市、国、大 陸、世界、様々なレベルの「領域」がある。ある領域は権力者を成立させるとともに、そうではないものを排除する。「パブリック」や「コミュニティ」を取り組む時、領域化、脱領域化、再領域化を意識せざるを得ない。この循環は世界中で起こり、場所があるvs場所がないとの奮闘の象徴になったと言えるが、場所づくり、町づくり、公共空間を取り戻す、occupyまたはアーティスト・ラン・スペース、アート・センターの動きにおいてこのプロセスはどのように働いているだろうか?共有するために領域の境界線を区画し、ある「土地」を所有することが必要だろうか?この現象は、10年間続いてきた「ディスロケイト」の核心にあるので、アートというレンズを通して、今まで扱ったテーマ:コモンズ、ジェンダー、労働、発言の自由、と脱領域化についてここで検討していきたいと思う。
02 アートとプレカリアート¹

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◼︎不安定の中から湧き上がる創造力か、創造力を破壊する不安定か – アートとワークを考える

2015年5月1日、メーデーの日。近現代美術の象徴である、ニューヨークのソロモン・R・グッゲンハイム美術館では拡声器やプラカードを手にした数十人もの人が美術館を占領して、1万枚くらいのチラシをばら撒き、抗議コールをしました。その抗議は現在中東で建設中のグッゲンハイム・アブダビの労働者の労働条件に対するデモでした。このアクションを起こしたのはGulf Ultra Luxury Faction (G.U.L.F.) (注no.2)という中東の文化施設に関連した労働者の国際連帯グループでした。このグループは強制労働、危険な環境、給料の抑制、パスポートの没収、労働組合の禁止など、そこで働く建設労働者の厳しい条件に対し国際的なレベルで運動を行っています。その日に美術館に訪問した多くの来客はこれをアート・パフォーマンスとして捉え、そのスペクタクルを楽しんだようですが、結局この抗議を阻止するために美術館はその日一日を閉館としました。これは極端な事例ではありますが、明るく、多様な世界を表現するはずのアート機関が、その裏で暗い搾取を行っていたという事実が明らかにされてしまったのです。
Action taken by G.U.L.F, Gulf Labor and associates at Guggenheim Museum, New York, 2015 Courtesy: Gulf Labor
130年前に遡ると、これとは異なる側面でアートと労働の関係を問う事件がありました。1878年、当時人気のあったイギリスの画家、ジェームズ・アボット・マクニール・ホイッスラー(注no.3)は、1877年に制作した「黒と金色のノクターン 落下する花火」を、同じく美術評論家・芸術家であるジョン・ラスキン(注no.4)に痛烈に批判されたことで、彼を名誉毀損で訴えました。この作品は200ギニー(190ポンド)で販売されていたのですが、それほど時間をかけずに制作した絵画をそんな高値で売るとはとんでもないことだとラスキンは主張し、「公衆の人々の顔をめがけて絵の具のつぼの中身をぶちまけただけだ」と嘲笑しました。ここで浮かび上がる労働問題とは労働価値説(人間の労働が価値を生み、労働が商品の価値を決めるという理論)であり、時間と賃金に関わっているものです。 ホイッスラーは裁判でラスキンに対しこのように答えました。「この絵を私が数時間で描いたとあなたはおっしゃいますが、私は全生涯をかけた経験によって描いたものです」。裁判ではホイッスラーに有利な判決が下りましたが、1千ポンドの損害賠償と訴訟費用の要求に対し、支払金額はたった1ファーシング(昔の英国の小青銅貨、1 / 960ポンド)でした。美術に対する根本的な問いと言える、アートの労働はどのように定義すべきか、どこに存在しているか、という問題が法的な領域において無理に決定されました。
Nocturne in Black and Gold, the Falling Rocket, 1875 (oil on panel), Whistler, James Abbott McNeill (1834-1903) / Detroit Institute of Arts, USA / Gift of Dexter M. Ferry Jr. / Bridgeman Images
この事例が示すように、アートは物理的なレベルにおいても、抽象的なレベルにおいても労働問題と深く関わっています。前回の記事では脱領域化を土地・場所の問題として分かりやすく取り組もうとしていたのですが、今回は元々脱領域化の対象である「労働」について考えていきたいと思います。ジル・ドゥルーズ&ピエール=フェリックス・ガタリ(注no.5)は、『アンチ・オイディプス』の中で脱領域化について説明する際、「労働力とはある特定の生産手段から分離させられた状態のもの」と定義しています。よくある事例ですが、18世紀にイギリスでは「囲い込み法」が実施されました。その当時、農民は共有地から追い出されて、その土地が私有地になったため、農民という労働力は生産手段である土地から離れてしまいました。
ポストフォーディズム社会(注no.6)ではこの分離は当然なことであり、労働力は強制的に移動され、労働自体が非物質化し、永遠に循環しているものです。マルクスは『経済学・哲学草稿』で4種類の「疎外」を特定しています。労働者からの労働生産物の「疎外」、労働者からの労働生産過程の「疎外」、労働者の身体からの「疎外」、そして人間(他の労働者)からの「疎外」です。疎外はある種の分離であると言えますが、脱領域化のほうは簡単に二元的に分けられる現象ではありません。
Photo: 太田エマ
◼︎公共性の中で労働はどこにある?

ブラジル在住の社会学者であるジュゼッペ・コッコ(注no.7)は、この労働を対象としての脱領域化を現代社会の「プレカリアート」問題に適応し、次のように語っています。

「プレカリアートは「聖プレイカリォ」と呼ぶべきだ。プレカリアートは聖人のような存在だ。なぜなら日常生活の中で「仕事」と「労働」の区別というパズルを解決しなければいけない状況にあるからだ。つまり生活の時間と仕事の時間、生産の時間と再生産の時間が深い混乱の中の連携し、それぞれの時間を、奇跡を起こすように明確に分別することが必要だ。」
(引用:『Creative Capitalism, Multitudinous Creativity: Radicalities and Alterities』
Giuseppe Cocco、Barbara Szaniecki 編集Lexington Books、 2015、pp.vii)

これはイタリアのミニFMの運動「ラジオアリ―チェ」(注no.8)の設立者でもある、フランコ ベラルディ(ビフォ)(注no.9)が「時間の植民地化」と呼んだ現象と一致します。
この中で関心を持つべき点は労働と公共性についてです。ジャン=ジャック・ルソーの「社会契約」は近代の公共の基本となっていますが、その中で労働は公共領域の機能や参加を遮断するという前提があります。この公共とは古代ギリシャのポリス、直接民主制のことです。民主制に参加するためには、人は完全に自由でなければならないという条件があります。そうすると、その条件を満たすためには「奴隷は完全に奴隷にならなければいけない」ということです。
また20世紀の半ばに入ると、ハンナ・アーレント(注no.10)も古代ギリシャのポリスを理想化し、「労働」に厳しい批判をしました。アレントは「労働」をパブリックのゾーンの最も遠い所に位置付けています。つまり、それはプライベートな領域の一部であると解釈し、「労働」(生きるための生産)と「仕事」(世の中で持続するものを築くこと)との区別し、それぞれ「animal laborens」と「homo faber」に象徴させました。これはマルクスの「労働=社会」に対立するものか、あるいはマルクスを批判した立場です。マルクスの企図がパブリックとプライベートとの区別をなくすことであれば、アーレントは政治的なエイジェンシー(政治的な作用)を可能にさせるために、そのギャップをより大きく広げようとしています。このような分類はジャック・ランシエール(注no.11)によって、zoe(動物的な生命) とbios(政治的な生活(発言と行動))を分けるのは誤解であると否定されています。ランシエールによると生活(ソーシャル領域)と政治領域をわけることによって貧困な人々の政治的な存在、政治的な影響力が否定され、その人を政治領域から排除してしまうことになるといいます。
Factory Production Line Courtesy: Chris under Creative Commons License
◼︎プライベート領域の拡大

労働/仕事におけるパブリックな領域とプライベートな領域を明瞭にさせることは、長い間フェミニズムの議論の中で注目されてきた問題です。プライベートな領域での労働は従来、「女性」の労働として認められてきたものです。公共圏での労働はアカウンタビリティーや責任といったものを連想させますが、プライベートの労働は免除、免除とも管理対象ともされないもの、つまり、社会契約以前の「自然状態」であることとして解釈できます。「Feminist Theory in Pursuit of the Public」(パブリックを追求するフェミニスト論)の中で、ロビン・トゥルース・グッドマン(注no.12)は労働市場におけるパブリックからプライベートへの動きを明らかにしています。この流れは他のフェミニストの中でも特にナンシー・フレイザー(注no.13)によって批判されました。ウーマンリブの運動、第二派フェミニズムはプライベートの空間(家庭内、ドメスティック)から、パブリックである、会社での仕事と職場での男女平等権利を求めましたが、結局は新自由主義の操り人形になってしまい、父権制を変えたというよりも、その権力と同様なものになってしまい、パブリックで必要とされている「ケア」がなくなりました。要するに、家事労働、育児、介護など、現在日本が非常に困っている部分は従来「女性の仕事」とされ、基本的には家庭内の無報酬労働なのです。しかし、家庭内のことなので、何も管理されていないのが現状です。女性が社会進出することでこのプライベートの領域は狭くなったどころか、逆に拡大してきたわけです。国家規制よりも、労働市場は「家庭内」のような見えないところに隠れてしまい、家事労働や育児、介護が報酬労働となってからはその社会福祉も消されてきました。元々、一般市民のエンパワーメントのために、国家に対して行った運動は、市場化の拡張とパブリックの縮小を正当化する結果となりました。
Domestic Workers Protest in London, 2012 Courtesy: Charles Hutchins under Creative Commons License
特にこの動きによって「プレカリアート」が生み出されたのですが、それは同時に公共圏から離れ、見えない存在になってしまいました。経済学者であるガイ・スタンディング(注no.14)が書いた『Precariat: The New Dangerous Class』(プレカリアート:新しい危険な階級)によると、一般市民「シティズン(citizen)」と同じ権利を持たない「デニズン(denizen)」の格層が広がり、7つの基本的な雇用保障などもなく、アーレントが定義する「社会的記憶」という感覚を共有できない状況になり、「未来」への影響も思い描けず、共感の可能性はなくなる場合が多いということです。スタンディングがここで強調するのは集団的な意識から削りとられる恐れであり、パブリックそのものから分離されてしまう脅威があるということです。
◼︎文化活動である「無形労働」

マウリツィオ・ラッツァラート(注no.15)が書いたエッセイで、よく知られた『無形労働』で彼はその労働を次のように定義しています。

「無形労働とは,商品中の“情報”と“文化”に関する内実を,生み出す労働である」。
(引用:「マウリツィオ・ラッツァラート 『無形労働』 訳:伊藤昌夫」(ソフトウェア技術者協会(SEA)フォーラム資料、 2011年、 p.2)

サービス産業だけではなく、多くの仕事は単なる物理的な「商品」を生産するわけではなく、物質としての結果を伴わない労働が戦後からますます増えてきました。非物質的な仕事と言えば分かりやすいかもしれませんが、アントニオ・ネグリが分析するように、「無形労働」は生活と仕事の区別ができなくなる状態であり、完全に生活は労働に組み込まれた状況です。形がないものなので「無形労働」の定義は非常に流動的です。商品を作らない労働だけではなく、保障がない仕事、非正規雇用、低賃金、フリーター、派遣、アウトソーシングなどもその定義の中に入るではないかという意見もあります。つまり、プレカリアートそのものなのです。「無形労働」は2000年代に入ってから流行った言葉でありますが、コンセプトだけではなく、非常に厳しいリアリティを持っています。
世界中でこの動きがありましたが、ここで日本の様子に焦点を当てたいと思います。日本のプレカリアートの専門家と呼ばれる雨宮処凛(注no.16)は自らの経験によって、かなり早い段階で日本のいわゆる「二層構造」に気が付いていました。2008年には編集者である元木昌彦との対談でこのように説明しました。

「『失われた10年』の間に社会に出た人たちは2200万人いて、その中のかなりの割合の人が正社員になれなかった。バブル期の大卒就職率って80%を超えていますけど、2000年になると50%ぐらいなんですよ。」
(引用:『貧困問題の根幹を知らしめるためフリーターゼネストをやってみたい』(元木昌彦の「メディアを考える旅」(120)、エルネオス出版社、2008年)(注no.17)

また今年の8月行われた毎日新聞と雨宮とのインタビューでは「失われた20年」というタイトルが付いていました。こういった状況20年以上もずっと続いているということです。雨宮氏は次のように言っています。

「その十数年前からの労働政策や新自由主義で格差が広がり、普通に生き、普通に働くってことが特権階級にしか許されなくなったというような状況がある。」
(引用:雨宮処凛『失われた20年インタビュー:作家・雨宮処凛さん「格差が、同じ日本で言葉が通じないくらい広がった」』(毎日新聞 2015年08月04日)

バブル時代の1985年に労働者派遣法が成立して以来、不安定な仕事はますます増え、90年代に入ってきてからは使い捨て雇用が急増しました。現時点では労働人口の約4割は短期雇用となっています。(注no.17)また今年の9月にはまた新たな派遣法の改正が国会を通りました。同じ派遣社員を3年以上は雇用できないというのですが、無期限に同じ職位のために別の派遣社員を次々に採用しても良いという条件であるということです。派遣社員は正社員になるわけではなく、3年で契約が終了する可能もあるという恐ろしい状況です。
2015年9月3日国会前の派遣法案の強行採決反対!徹底審議を・廃案を求める昼の大行動Photo: 太田エマ
◼︎不安定な中で生まれた文化

恥ずかしい話ですが、私は来日してから「アルバイト」や「フリーター」という言葉を初めて耳にした時、何のことかあまり理解できませんでした。「皆は普通に毎日会社で働いているでしょう。何でそれを「仕事」として呼ばないの?」と疑問を持ちましたが、(働く)社会の中でこのギャップ(雇用方法の違い)があるからこそ、そういった言葉が誕生したのでしょう。
こういった状況の中でこのような差別的な言葉が生まれる一方、当事者が自らの文化も生み出しています。社会学者である渡邊太(注no.18)は、不安定労働者(プレカリアート)が連帯し始めたことで、新しい文化的な動きも登場するようになったのだと語っています。

「新しい労働運動は、消費者の意識から生産者への意識の転換を図るものであり、 DIY文化(Do It Yourself) の非暴力的直接行動主義 (NVDA=Non Violent Direct Action)とユーモアに溢れた創造性を特徴とする。」
(引用:渡邊太、『非正規雇用化のなかの職場環境とプレカリアートの創造性』(『職場トラブルについて考える』科学研究費補助金基盤研究(B)「紛争回避と法化の法理論的・実証的検討」課題番号16330003・研究代表者・福井康太・研究成果報告書、2007年、pp. 233)

DIYカウンターカルチャーはステレオタイプ化されがちですが、雨宮氏が『反撃カルチャー プレカリアートの豊かな世界』の中で分析しているように、不安定だからこそ新たな発想や新たな生活の仕方が生まれるわけです。
日本の代表的なグループと言えば「だめ連」 、そして「素人の乱」 は国際的にも知られているものですが、現在では全国で次世代のグループも広がっています。それぞれのグループは連携したり、また対立することもありますが、例えば池袋にある「りべるたん」 というシェアハウスはその一つの代表的なコレクティブ(集合体)と言えますが、ヘイトスピーチのカウンター運動をするメンバーもいれば、BABL(ブラック企業反対)のメンバーもいます。またつい最近では安保法案反対運動として、7日間のハンガーストライキを実行しましたが、直接的な社会運動以外にも映画祭、アーバン・ファーミングや空き家の活用を行っています。またアーティストやクリエイターのシェアハウスである「渋家」もここで触れるべきでしょう。このような動きは三浦展氏(注no.19)が提唱する「シェアの時代」とも関係を持つかもしれませんが、単なるシェア経済ではなく、多数派が共有するはずである「正しい生き方・働き方」(ある種の幻想なのですが)を遠回りしたり、抵抗したり、また違う側面から価値を引きだそうとしているものだといえるでしょう。
またアート分野の中でも、働き方がちゃんと社会に認められていない人(プレカリアートでもある人)とアート活動を展開している団体・プロジェクトも少なくはありません。日雇い労働者や野宿している人が多い街である釜ヶ崎で、「ココルーム」は長く開放的な空間を提供し、街の人の個々の文化を促進しています。また多くのセックスワーカーや移住労働者が働く街において「ART LAB OVA アートラボ・オーバ」も単純なインクルージョンではなく、様々に行き来できる橋を作り、映画祭、ワークショップや街のツアーを通して多様な生き方・働き方に対しお互いの尊敬を高めています。
亞細亞 反戰大作戰/Operation Anti-War Asia/아시아 전쟁반대 대작전/アジア 反戦大作戦 東京アクション2015年8月29日阿佐ヶ谷Courtesy: 雨宮処凛
社会学者である毛利嘉孝(注no.20)が書いた「New Art and Culture in the Age of Freeter in Japan」(日本のフリーター時代における新たなアートと文化)という記事の中で、「キャラ、政治、創造力」がこの時代におけるアートの特徴として取りあげられ、その中でも石田徹也、イチムラミサコやChim↑Pomの作品が紹介されました。ここで取り上げられた多くのアーティストは、今ではアート業界の中心的な存在になったと言っても良いかもしれませんが、元々はアウトサイダー感覚が強いアーティストです。他の高く評価された日本の現代美術家の中でも制作活動をしながら、古着屋さんをしたり、ひきこもりであったり、塾の経営やホステスをしたり、公園でのテント生活を送っているアーティストもたくさん思い浮かべることができます。もちろんフリーターの仕事そのものをアート作品にするアーティストもいます。毛利嘉孝が記事の中で説明しているように、元々フリーターという言葉はポジティブな意味合いを持ち、free(自由) + arbeiter(労働)として定義されており、新しいライフスタイルの象徴となっていました。しかし、現在は侮辱的なもののように使われています。フリーターのような働き方の存在にこそアーティスト活動が可能であるという場合が多いのですが、その生活が不安定で貧困状態にあり、またアート業界で搾取される問題に直面しているアーティストも少なくはありません。社会での労働の不安に対して反応するアーティストもいれば、当然その不安の中で生きているアーティストもいます。
最近「無形労働」はアートとアーティストの対象として使用されてきました。アーティストは「認知労働者」としての典型的な存在と言えるでしょう。「無形労働」はアート界の中でもお馴染みの言葉になってきましたが、その中でいくつかの大きな矛盾も顕在化しています。たとえば、ロンドンのテート・ブリテンで行われた二つのシンポジウムは、この問題を明確にします。2008年1月に行われた ‘Art And Immaterial Labour’ Conference(注no.21)ではイタリアのオートノミズム(注no.22)の寵児である、アントニオ・ネグリ(注no.23)、フランコ ベラルディ(ビフォ)、やマウリツィオ・ラッツァラートがここに呼ばれ、抽象的な議論だけに(この記事もおそらくそのようになってしまいます。)留まっていたため、デヴィッド・グレーバー(注no.24)はこれに対して厳しく批判しました。彼は「無形労働」を否定し、ポストワーカー主義者のお洒落で浅薄なポストモダン論理というものは単なる優雅さを欠いたマルクス主義であって、アート・ファッションのゲームで遊びたい人たち以外には何の役にも立たないものだということを唱えました。特にアート界とその他の社会的な状況を分析するための道具としては、全く使えないわけだと嘆きました。
また、2012年3月にロンドンのテート・ブリテンでは「Untitled (Labour)」(注no.25)というシンポジウムが行われました。ここではクレア・ビショップ(注no.26)、パスカル・ギーレン(注no.27)、ステファノ・ハーニー(注no.28)といった評論家などがいる中で、幸いなことに、現代アーティストである、キャリー・ヤング(注no.29)、とヒト・スタヤル(注no.30)も参加しました。しかし、アート作品における抽象的な労働についての話が焦点となり、多くのお客さんがそれに疑問を持ちました。途中に「Precarious Workers Brigade」のメンバーがアート関係者の労働環境・条件について抗議をし始めました。ここでは、簡単に言うと、理論とリアリティの衝突があったでしょう。
日本のアート業界も同じ問題に直面しています。アートワーカー(芸術労働者)であったり、半分ボランティアで働いていたり、プレカリアートになるという暗黙の了解がずっと広がっていましたが、この現象については研究者である吉澤弥生(注no.31)が長い間リサーチしてきました。

「この「芸術労働」という言葉は、仲間たちとアートプロジェクトを支える人たちの労働について考え始めたときから使っています。芸術は労働(labour)などとは遠いところにあるのだと怒られたりするのですが、そうではないだろうと。一般的な労働問題の議論の中でも「やりがい搾取」という言葉が使われていますが、芸術の領域においても、お金のためにやっているのではないとか、好きでやっているんだからこの金額でもいいというような形で、結果的にアートを志す、特に若い人達のやりがいが搾取されているのではないか、という懸念を抱いていたんですね。」
(引用: geidaiRAM OPEN LECTURE vol.6 『労働と芸術の公共性を考える』吉澤弥生×深田晃司(2014年12月15日) pp.2)

当事者、特にアートプロジェクトと関わっている人の様々なインタビューやフィールドワークを通してこの状況が明らかにされましたが、給料を得る職として認められた「仕事」はよく安月給でこき使われ、評価も不十分な労働になってしまうということも見てとれました。
「Our Strike」2010年 藤井光 Courtesy: 藤井光
2010年に映像作家である藤井光(注no.32)はこの問題を可視化するため、「Our Strike」というアクションを起こしました。何十人ものアートワーカーはそれぞれのテントでアサヒ・アート・スクエアの近くの公共空間を占領し、労働環境の問題に関する経験について語り合いました。このアクションはアート界にはきれいごとで済ませられたかもしれませんが、再び光が当たるところに戻ることは明らかでしょう。リアム・ギリック(注no.33)も「The Good of Work」(仕事/作品の良さ)というアート労働論の中でこのように説明しています。

個性が見えない、フレキシブルな知的労働者はいつもこの不安定で、ワークとレシャーのごちゃごちゃした関係の中で行動しています。アートはこの人物であると指摘すると同時に、経験できる幻影としてその労働者に付いています。
(引用:リアム・ギリック「The Good of Work」e-flux Journal #16, 2010年5月)

つまり、アーティスト・アートワーカーは不安定労働者と同じ経験を持っているかもしれませんが、その中から批判的なスタンスも捉えられるはずです。また逆に言えば、アート界は社会格差や不安定雇用の問題に焦点当てられると同時にその問題の一因でもあるかもしれません。
Art Workers Coalition, 「Art Workers Won't Kiss Ass」 poster, 1969 Courtesy: Mehdi Khonsari
◼︎労働とアートとの奮闘

ウィリアム・モリスから、デュシャンを経由し、ウォーホルまでの間、アート労働論は数々の文献の中で明確に記録されています。当然、美術作品は英語では「アートワーク」と呼ぶように、美術史の中では古代からアートと労働との関係は分けることができない根本的な問題として続いてきました。
マーサ・ロスラー(注no.34)の「キッチンの記号論」は家事労働のメカニックに光を当て、アート業界・機関の企業的な動きはアンドレア・フレーザー(注no.35)やキャリー・ヤングに焦点が当てられています。搾取について指摘した、サンティアゴ・シエラ(注no.36)やフランシス・アリス(注no.37)はただ資本主義の搾取的な作戦を再現して見せましたが、カルロス・アモラレス(注no.38)やハルン・ファロッキ(注no.39)は、その倫理的なジレンマをスウェットショップ問題として身近に感じさせました。カルロ・ギンズブルグ(注no.40)やマリーナ・アブラモヴィッチ(注no.41)はセックスワーカーのサービスを買ったり、そういった労働者とお互いの役割を交換しました。ムラデン・スティリノヴィッチ(注no.42)の「The Artist At Work 」(1978)のようにアーティストの働かない権利を主張するアーティストもいるでしょうし、また様々なレベルでアートは絶えずマルクスの思想と奮闘しているでしょう。このようなディスコースからアーティストの労働組合も現れ、芸術労働者連合(The Art Workers Coalition) , Precarious Workers Brigade, W.A.G.EやGulf Laborはアート業界も労働環境下にあり、労働権利を守らなければいけないと主張しています。教育、ロビイング、展覧会など、種々なアプローチによってこのメッセージを普及しようとしています。一方、起業家であるセス・ゴーディン(注no.43)は競争的ビジネスの現場で「アーティスト」というイメージを利用した「新しい働き方」を強調しますが、創造力は現代の通貨となり、作品や価値を作り出すように働くことが必要となりました。それは単にフェミニズムと同様に、アーティストも新自由主義に隷属し、不安定雇用を正当化するではないかという懸念もあります。
Mladen Stilinovic 「Artist at Work」, 1978年8 b/w photographs Courtesy: the artist, Zagreb
◼︎「働いていますか?」

今年も10月15日から約2ヶ月間、「ディスロケイト」というレジデンス・ワークショップ・イベントを開催する予定ですが、今回は「働いていますか?」がタイトルです。ここではインドネシアのジョグジャカルタで活躍する、KUNCI Cultural Studies Centerという文化芸術社会学のセンターのメンバーである、ブリギータ・イサベラ(注no.44)というリサーチャー、また東京在住でフィリピン出身の「移住労働者」であるジョン・パイレズ(注no.45)が参加しています。KUNCIとブリギータも最近「無形労働」についてリサーチしていますが、抽象的なレベルどのアート作品などについてのディスカッションだけではなく、現実世界の中で実践的にこの問題を探っています。最近KUNCIは香港のアーティスト・ラン・スペースである Para Site と協力し、香港へ移住した家事労働者とプロジェクトを展開してきました。労働人口の10%を占める家事労働者は、香港では大きな労働力となっていますが、社会の遠い周縁に存在するかのように、「労働者」としてはきちんと認められず、労働者としての権利も守られていない場合が多いです。しかし、そこに低賃金で長時間労働の厳しさがあったとしても、暇な時間の中で、豊かで知的な文化活動を行う人も少なくありません。ランシーエールは「プロレタリアートの夜」の中で、19世紀の労働者を例にあげていますが、日中、厳しい肉体労働する労働者の中にはそれを自分自身の存在として位置付けることを望んでいません。そして夜になると、本来の姿として勉強会を開いたり、本を書いたり、政治や文化について議論したりする人のアイデンティティや時間の分け方について書いています。ブリギータとKUNCIもこのようなプロレタリアート文化に関心を持ち、労働者の連帯から発生するカルチャーに焦点を当てています。
そのような労働者の社会的立場の弱さはよく伝えられており、家事労働に限らず社会全体における労働者の待遇について関心も高まっていますが、その一方で、ブリギータはこうした問題に対して直接舵をとるというよりは、むしろ労働者同士のコミュニティとお互いに支え合う関係を通じて生まれたユニークな文化を研究することにより、労働者の問題に対する私たちの視線を引きつけます。
Migrant domestic workers gather in HSBC plaza on a Sunday
香港の経済の中心地では財政と投資の拠点であるにもかかわらず、日曜日になると熱気のある会社員たちに代わって、巨大な家事労働者の人だかりができます。その大部分はフィリピンまたはインドネシア出身の人たちですが、彼らは銀行や大企業が立ち並ぶ公共広場へ降りてきて、ピクニック、歌や踊り、ゲームなどに興じます。人で埋まった公共空間は、普段社会の隅に追いやられている人たちの存在を強く印象づけ、またその光景は大変感慨深いものです。ブリギータが移動図書館の実態を研究してきたのは、まさにこうした文化的活動の中においてでした。文字通り、労働者の母国語で書かれた本が詰め込まれたスーツケースは、きちんと管理のできる人々に貸し出されます。新しく、知的で文化的なこの空間は、余暇の時間などほとんどない労働者たちによってこの公共の場に形成されているのです。 ブリギータは家事労働者たちと一緒に終業後の読書グループを組織し、定期的な活動を行っています。そしてこのような労働者が関心を抱いている論説や研究について更に検討し、この現象に応じてきました。
After Work Reading Club, Hong Kong 2015年 Courtesy: Brigitta Isabella
After Work Reading Club, Hong Kong 2015年 Courtesy: Brigitta Isabella
ジョン・パイレズのほうは他の移住労働者の労働条件、生活、文化に興味があり、ネットワークを作ろうとしています。例えば同じフィリピン出身のレイ・ヴェンチューラー(注no.46)は80年代に不法入国者として寿町で日雇労働者として働き、その記録として映画を制作し、その後活発的に関東を中心としてジャーナリストとして積極的な活動してきました。現在パイレズは来年に向け、そういった移住労働者のアート・文化活動を紹介する展覧会を企画しています。10年以上もの間、日本で低賃金労働をしてきたパイレズですが、彼が重視しているのは「時間を盗む」という行為です。つまり労働というヘゲモニーからレジャーや知的文化活動のために時間をとっておくということです。彼は日本での不安定雇用において、そこで働く人たちはどのように時間を盗んでいるのかに関心を持ち、自分なりにリサーチをしています。母国フィリピンの人が多い、外国人技能実習生の制度(日本の大企業・農業において低賃金、場合によって時給300円で肉体労働させられてから3年後すぐ国に送り返される「外国人人材」)に関するリサーチの中でも当事者の自己表象・自己表現が、その労働環境の悪さを発信することより、休日の遊びをビデオで撮影したり、PVを真似して編集し、Youtubeで公開するといった動きを観察することで、この当事者はある種の被害者であったとしても労働と割り切って何かを共有するために別世界を作っているということが分かります。最近パイレズは川崎に住んでいる外国人技能実習生のグループと交流し、実習生同士のヒップホップの活動を記録し、その文化はどのようにより広い社会に影響を与えているかに注目しています。また自分自身の労働そのものを記録し「The Monstrous Arrivant: A Migrant's Account or an Empty Body of Works (2013)」のようなかたちで発表していますが、アート作品を作らないままで自分の労働生活を作品化するというスタンスによってアートの労働、経済活動の労働、生活そのもの、それぞれの間の境界線を曖昧にし、結局完全に「無形」になっています。出発点から仕事の定義を問いかけながら、現在のプレカリアート世代において「働かない権利」や「コモンズの構築」に関してどのように仕事を解釈すれば良いかということを探っています。
Jong Pairez, Commonspace/Swarmbibliotheque, Social Sculpture, Installation Art, 2015年Courtesy: Jong Pairez
「Giants of the Earth」(大地の巨人) (注no.47)という小説の主人公であるぺー・ハンサの発言「本物の仕事は遊びの最高の姿」が示すように労働と遊び、仕事とレジャーは区別できない行為になっています。テオドール・アドルノ(注no.48)の厭世的な観点では、仕事とレジャーの境界線が曖昧になりつつ、レジャーは完全に仕事の領域に入ってしまい、レジャーの時間の中でも仕事している状態もあるのですが、アメリカの著名なアナキスト、ボブ・ブラック(注no.49)の「労働廃絶論」では逆のパターンが提案されています。仕事をなくすためには完全にそれを遊びにさせることが必要です。
アーティストやアートワーカーは遊んでいるばかりいて、仕事していないと思われる人もいるかもしれませんが、好きなことに辿りつけているのだから、ちゃんとした報酬を出さなくても良い、活動(労働)環境など気にしなくても良いといった、アート業界にある変な暗黙の了解は到底ありえないことでしょう。脱領域化された労働は特定の場所で働かず、終身雇用も一切考えられない、またいつでも雇われ、それに待機している労働力であり、そこにプレカリアートを生み出す流動性があります。一方、プレカリアートの中にもアートが存在しているわけです。サバイバルのためには創造性がそれだけ必要だということです。あそこから非常に勢いを持った文化が湧き上がるのです。しかしその一方で、アーティストやアートワーカーを上記の基準(脱領域化された、厳しい労働条件)によって定義したり、扱ったりすることに対しては大きな疑問があります。

またアレントのパブリック論に戻ると、彼女は労働によるパブリックの可能性を否定し、この労働を自由の反対に置いたのですが、兵藤釗(注no.50)が疑問視しているように、「人間の〈労働〉というものは、本来的 には、使用価値を生産する合目的な意志をもった活動であり、創造的なプロセスであり、〈公共性〉の発現を媒介する基盤がある」という意見もあります。「働くこと」、「労働」と「仕事」(またはその両方を含む)は社会参加でもあり、公的な場に関与するという大きい前提があると思いますが、それを完全にプライベートの領域に位置付けてしまうと、キャロル・ハニッシュが言った、「個人的なことは政治的なこと」が否定される危機もあると思います。アートもプレカリアートも、生活と労働、労働と仕事、働くこととアクションを起こすこと、それらは区別しなくてもそれぞれが公共性を作っているわけなのです。その公共の中でどのような価値を生み出したいか、自分自身のワークの価値をどうやって認めたら良いか、どのようなペイメントが適切なのか、また遊びの役割はどれだけ重要なのか、それは私たちの「働くこと」の課題です。

上記のテーマに基づいて「ディスロケイト」という企画は2015年10月15日~12月20日、東京杉並区を拠点として行います。ワークショップ、上映会、トークイベントなどを開催しますのでご興味がありましたら是非HP をご覧ください。
注釈
1. プレカリアート Precariatということばは Precarious「不安定な」 + Proletariat「労働者階級」との組み合わせからできたもの。
2. Gulf Ultra Luxury Faction (G.U.L.F.) 2010年設立された Gulf Laborの支部。
3. ジェームズ・アボット・マクニール・ホイッスラー James Whistler (1834 -1903年) イギリスの画家。主な作品に『灰色と黒のアレンジメント-母の肖像』(1871年)。
4. ジョン・ラスキン John Ruskin (1819-1900年) イギリスの美術評論家・画家。オックスフォード大学のはじめての美術専門の教授。著書に『芸術経済論』他。
5. ジル・ドゥルーズ&ピエール=フェリックス・ガタリ Gilles Deleuze and Felix Guattari
6. ポストフォーディズム社会 一つの大きい工場で生産ライン産業を中心としての大量生産の後の時代。労働力を分散させ、多品種少量生産と企業間ネットワークを活用したアウトソーシングやサービス産業が中心となった産業構造。
7.ジュゼッペ・コッコ Giuseppe Cocco イタリア出身、ブラジル在住社会学者。
8.「ラジオアリ―チェ」1976年に放送し始めた自由ラジオ。
9.フランコ ベラルディ(ビフォ) Franco "Bifo" Berardi イタリアの理論家、運動家。著書に『Info Labour and Precarity』、『Thirty Years of Media Activism』他。
10.ハンナ・アーレント Hannah Arendt ドイツの政治学者。著書に『全体主義の起原 (1・2・3)』『革命について』他。
11.ジャック・ランシエールJacques Rancière フランスの哲学者。著書に『美学における居心地の悪さ』、『無知な教師 知性の解放について』他。
12.ロビン・トゥルース・グッドマン Robin Truth Goodman Florida State Universityの教授。著書に「Gender Work: Feminism After Neoliberalism」「World, Class, Women」他。
13.ナンシー・フレイザー Nancy Fraser アメリカの政治学者。著書に『正義の秤――グローバル化する世界で政治空間を再想像すること』、『Fortunes of feminism: from state-managed capitalism to neoliberal crisis』他。
14.ガイ・スタンディング Guy Standing 経済学者。バース大学の社会保障経済学の教授にして、ベーシックインカム世界ネットワーク(BIEN)の共同代表。
15.マウリツィオ・ラッツァラートMaurizio Lazzarato「無形労働」フランス在住の社会学者、哲学者。著書に『The Making of the Indebted Man』 『Signs and Machines』他。
16.雨宮処凛 作家・社会運動家。反貧困ネットワーク副代表。著書に『生きさせろ! 難民化する若者たち』『「生きる」ために反撃するぞ! 労働&生存で困った時のバイブル』など。
17. 総務省統計局の労働力調査(詳細集計)平成27年(2015年)4~6月期平均によると非正規労働者は37.1%。http://www.stat.go.jp/data/roudou/sokuhou/4hanki/dt/ 
18.渡邊太 社会学者。大阪国際大学人間科学部心理コミュニケーション学科専任講師。専門は文化研究・宗教社会学。著書に『愛とユーモアの社会運動論―末期資本主義を生きるために』、『現代社会を学ぶ―社会の再想像=再創造のために―』他。
19.三浦展 日本のマーケティング・リサーチャー、消費社会研究家、評論家。著書に『これからの日本のために「シェア」の話をしよう」他。
20.毛利嘉孝 社会学者。東京藝術大学准教授。著書に『文化=政治――グローバリゼーション時代の空間叛乱』『ストリートの思想―転換期としての1990年代』他。
21. Art and Immaterial Labour Conference 2008年にCentre for Research in Modern European Philosophy近代欧州哲学の研究センターに企画されたカンファレンス。
22. オートノミズム 70年代のイタリアを拠点として発展してきた「自律主義」。
23. アントニオ・ネグリAntonio Negri イタリアの哲学者、政治活動家。マイケル・ハートとの共著書に『〈帝国〉――グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』『マルチチュード――〈帝国〉時代の戦争と民主主義(上・下)』他。
24. デヴィッド・グレーバー David Graeberアメリカの文化人類学者。Occupy Wall Streetの運動の中心人物。著書に『資本主義後の世界のために 新しいアナーキズムの視座』『Revolutions in Reverse: Essays on Politics, Violence, Art, and Imagination』他。
25. 'Untitled(Labour)' UCL(University College London)の美術史の博士課程の学生により企画されたシンポジウム。美術評論家と社会学者とアーティストがアートにおける無形労働について議論した。
26.クレア・ビショップClaire Bishop イギリスの美術評論家。著書に「敵対と関係性の美学」『Radical Museology: Or What's 'Contemporary' in Museums of Contemporary Art?』他。
27. パスカル・ギーレンPascal Gielen 文化社会学者。 Groningen UniversityのArts in Society研究センターの代表。著書に『The Ethics of Art』、『The Murmuring of the Artistic Multitude: Global Art, Politics and Post-Fordism』他。
28.ステファノ・ハーニー Stefano Harney シンガポール在住の理論家。著書に『State Work: Public Administration and Mass Intellectuality 』『The Ends of Management』他。
29.キャリー・ヤング Carey Young 企業的な言葉や行動を活かすパフォーマンスやビデオを制作。主な作品に「I am a Revolutionary」(2001年)「Uncertain Contract」(2008年)他。
30. ヒト・スタヤルHito Steyerl ドイツの映像作家、著作家。メディア、テクノロジーとビジュアル的なグローバル化を取り組んでいる。名作に「HOW NOT TO BE SEEN: A Fucking Didactic Educational」(2013年)他。
31.吉澤弥生 社会学者。共立女子大学文芸学部准教授。労働、政策、運動、地域の視座から現代芸術を研究。著書に『芸術は社会を変えるか? —文化生産の社会学からの接近』(『続々・若い芸術家たちの労働』他。
32. 藤井光 映像作家。パリ第8大学美学・芸術第三博士課程DEAを卒業後、日本の社会政治状況を反映する映像作品を制作。
33.リアム・ギリック Liam Gillick 関係性の美学の代表的なアーティスト。建築のような空間を構築し、その中の人の行動を注目する作品がよく知られている。
34.マーサ・ロスラー Martha Rosler「キッチンの記号論」というパフォーマンスビデオでキッチンの道具をそれぞれ紹介し、皮肉的にその使い方を演じた。
35.アンドレア・フレイザー Andrea Fraser アメリカの現代アーティスト。イロニーを込めたパフォーマンスを通して美術機関、アート界の構造を批判。名作に「Museum Highlights」(1989年)、「Official Welcome」(2001年)他。
36.サンティアゴ・シエラ Santiago Sierra スペインの現代アーティスト。「250 cm Line Tattooed on Paid People」(1999年~)や「24 Concrete Blocks Moved Continuously during One Working Period by Ten Remunerated Workers」(1998年)の作品のように低賃金労働者や社会の中で差別を受けている人などにお金を渡すことによって無意味な労働してもらう作品が多い。
37.フランシス・アリス Francis Alys ベルギー出身、メキシコ在住の現代アーティスト。「Where Faith Moves Mountains」(2002年)では500人との共同作業としてリマの砂漠の砂丘をスコップで10センチ移動するパフォーマンスがよく知られている
38カルロス・アモラレス Carlos Amorales メキシコの現代アーティスト。「Flames Maquiladora」(2003年)ではギャラリーの来客は大規模の工場の労働者と同じような単純肉体労働させられた。
39.ハルン・ファロッキ Harun Farocki ドイツの映像作家。主な作品に「Labour in a Single Shot」、「The Division of all Days」他。
40.カルロ・ギンズブルグ Carlo Ginzburg 「Qu'est ce l'art? Prostitution」では1974年ベルギーの売春宿で働いているセックスワーカーの時間を購入し、ギャラリーで「アートとは何か?売春だ。」と書かれたサインを持たせた。
41.マリーナ・アブラモヴィッチ Marina Abramovic パフォーマンスアートの代表的な作家とされる。「Role Exchange」(1975年)ではアムステルダムの風俗街で働いているセックスワーカーと互いの役割を交換した。
42.ムラデン・スティリノヴィッチMladen Stilinović クロアチア在住の現代アーティスト。「The Artist At Work 」ではアーティスト本人が寝たり、ぼーっとしたり、表面的には何も仕事していない写真作品を制作した。
43.セス・ゴーディン Seth Godin アメリカの起業家、著作家。著書に『「紫の牛」を売れ!』、『「新しい働き方」ができる人の時代』他。
44.ブリギータ・イサベラ Brigitta Isabella 社会学者。「Southeast of Now: Directions in Contemporary and Modern Art」というアート・ジャーナルの編集者でもある。
45.ジョン・パイレズ Jong Pairez フィリピン出身、東京在住メディアアーティスト。文明と繋がるための、戦略的なスペースCivilization Laboratory (CIV:LAB)の設立者。移住、変位、ジオグラフィー、異文化との境界線に関心を持ち、デジタルとアナログのテクノロジーによって空間の論理と不合理に取り組む。
46.レイ・ヴェンチューラーRey Ventura フィリピン出身のジャーナリスト、映像作家。
47.「Giants of the Earth」(大地の巨人) Ole Edvart Rølvaag  Harper Perennial Modern Classics(August 4, 1999) アメリカに移住したノルウェーの農民についての物語。ぺー・ハンサPer Hansaはその中で土地を支配するために絶えず一生懸命働いている。
48.テオドール・アドルノ Theodore Adorno ドイツの哲学者、社会学者、音楽評論家。フランクフルト学派を代表する思想家。著書に『否定弁証法』『ミニマ・モラリア――傷ついた生活裡の省察』他。
49.ボブ・ブラック Bob Black アメリカのアナーキスト。著書に「Beneath the Underground」 「Defacing the Currency」他。
50.兵藤釗 労働問題研究者。東京大学名誉教授。著書に「日本における労資関係の展開」「現代の労働運動」他。
参考文献

『アンチ・オイディプス』(ジル・ドゥルーズ&ピエール=フェリックス・ガタリ、宇野 邦一訳、河出書房新社、2006年)
『経済学・哲学草稿』(カール・マルクス、長谷川宏訳、光文社、2010年)
『The Labor of Territories between. Deterritorialization and Reterritorialization. 』(ジュゼッペ・コッコ、Abdul-Karim Mustapha and. Leonora Corsini訳、 2010年)
『社会契約論』(ジャン=ジャック・ルソー、作田啓一訳、白水社、 2010年)
『人間の条件』(ハンナ・アーレント、志水速雄訳、筑摩書房、1994年)
『Feminist Theory in Pursuit of the Public』(ロビン・トゥルース・グッドマン、New York, NY: Palgrave Macmillan、2010年)
『Precariat: The New Dangerous Class』(ガイ・スタンディング、London, Bloomsbury, 2011年)
『反撃カルチャー プレカリアートの豊かな世界』(雨宮処凛、角川文芸出版、2010年)
『The Rise of Sharing』(三浦展、Tokyo : International House of Japan、2014年)
『Giants of the Earth』(土地の中の巨人)(Ole Edvart Rølvaag  Harper Perennial Modern Classics、1999年)
『啓蒙の弁証法哲学的断想』の「文化産業―大衆欺瞞としての啓蒙」章(テオドール・アドルノ徳永恂訳、岩波文庫、2007 年)
「労働廃絶論」(ボブ・ブラック、高橋幸彦訳、『アナキズム叢書』刊行会、2015年)
「労働問題研究と公共性」(兵藤釗、『持続可能な福祉社会へ 公共性の視座から 第3巻』 安孫子誠男 (編著), 水島治郎 (編著)、勁草書房、 2010年)

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