大谷悠
Yu Ohtani
まちに「あそび」をつくりだす — 都市空間を私たちの手に取り戻すために
禁止事項だらけの公園に、人を排除する公共空間、止まらない大規模な再開発、なんだか最近都市の生活がますます窮屈になっています。事なかれ主義の行政や、利益至上主義の不動産開発業者たちを批判することも必要ですが、都市に生活する私たちが動くことで状況を変えることもできます。それは都市に「あそび」を作り出すこと。この「あそび」には2つの意味があります。一つは活動を通じて、まちの人々が参加できる「楽しい遊び」を仕掛けていくこと。もう一つは都市の中に「空間的なあそび」を作り、人々の交流や活動のベースとなる場所を維持していくこと。この2つの「あそび」を追求することが、都市空間をもういちど我々の手に取り戻していくことにつながるのではないか。そんな仮説をもとに、日本とドイツの5つのケーススタディを紐解いていきます。
05 現代都市のアジールと「あそび」のクオリティ

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これまで4回にわたり、まちに「あそび」をつくりだすことについて具体的な事例について書いてきました。最終回となる今回は、少しまとめとなるような話をしたいと思います。

■ 「空地」と「廃棄された空間」

1970〜80年代を代表する建築・都市計画家の一人である大谷幸夫は、1979年に『空地(くうち)の思想』※1 という本のなかでこのように語っています。

"・・・いま発生しつつあるもの、育ちつつあるものというのは固まっていないから施設化できないけれども、それは広場という場で育っていくわけですね。だからそういう場を用意しておかないと、いま育ちつつあるものを育てることができない。つまり未来にむかっての可能性といったものをつぶす、その芽を摘み取ったことになるわけです。現代の都市はそういうものの余地を残しておこうとしない。現代都市の圧迫感、閉鎖感というのもそういうところに関係があるような気がします。"(p.202)

同じ時代、アメリカの都市計画の大家であるケヴィン・リンチは、遺稿となった『Wasting Away(邦題:廃棄の文化誌)』 ※2 で次のように述べています。

"廃棄された多くの場所にも、廃墟と同じように、さまざまな魅力がある。管理から解放され、行動や空想を求める自由な戯れや、さまざま豊かな感動がある。" (p.2,p.50)
"周縁にあり、遮られていても管理されていない場所は、絶えず浄化運動に脅かされているが、しなやかな社会には必要なものである。" (p.52)
"廃棄された土地は、絶望の場所である。しかし同時に、残存生物を保護し、新しいモノ、新しい宗教、新しい政治、生まれて間もなくか弱いものを保護する。廃棄された土地は、夢を実現する場所であり、反社会的行為の場所であり、探検と成長の場所でもある" (P.201)


大谷幸夫は高度成長からバブルへと向かうなか、日本中の都市で大規模な再開発が行われ、建物の高層化と高密度化が進むことでヒューマンスケールの生活空間が失われていくことへの批判を繰り返しました。その彼がたどり着いた一つのキーワードが、開発の圧力から逃れ、今育ちつつあるものを保護するような「空地」だったわけです。一方、『都市のイメージ』以来一貫して「生活者にとっての都市」という視点からの都市計画の理論づくりを目指していたリンチが最晩年に着目したものは、都市において管理が放棄された「廃棄された空間」の果たす、「新しいなにか」を育むという役割でした。このように、それまで「近代都市計画」を牽引してきたはずの日米の都市計画界の大家たちは、1980年頃になって「近代都市計画からこぼれ落ちた空間」に熱い視線を注いでいるのです。
■ ライプツィヒと空き家・空き地

それから30年ほど経った現代の都市はどうでしょう。先進各国の都市では、近代化と高度成長の後、産業転換や人口減少によって、空き家や廃工場、ブラウンフィールドなどが都市に散在する「空間あまり」の時代が到来しています。これは「空地」や「廃棄された空間」が(図らずも)世界中の都市のいたるところに現れる時代になったことを意味しています。
連載の1回と4回で取り上げた私の住む街、ドイツのライプツィヒでは、東西ドイツ統一後の90年代に10年間で10万人人口が減少するという経験をしました。成長を前提として作られた都市計画はこのような変化を想定しておらず、行政の都市政策は手詰まりになります。特に中心市街地にほど近い築100年ほどの住宅街は、住環境の悪化と失業によってみるみるうちに人口が減り、リノベーションにコストがかかるため廃墟が放置される状態が続きました。市は連邦政府の助成金を使って「不動産市場の再生」を主目的に、不動産的価値のない空き家を取り壊していきます。一方で歴史的価値のある住宅を破壊から守ろうと市民が立ち上がります。これが第一回でご紹介したハウスハルテンの運動でした。この運動を契機に、空き家となった建物をベースに2000年代中盤頃からさまざまな市民グループが自らのアイディアとモチベーションを元に活動を行っていきました。衰退地域の空き家で食育や絵本作りをする活動、空き家を世界中のアーティストに貸し出す活動、空き地を使った市民農園など、その活動は多岐に渡ります※3 。 これらの営利を目的としない社会・文化的な活動に共通しているのは、都市の縮退によってできた空き家・空き地といった不動産市場の「エアポケット」のような空間で活動を立ち上げたという点です。
「日本の家」もまたその一例です。「東独の都市ってこれだけ空き家があるんだし、一個くらい僕らが使ったっていいんじゃない?」というなんとも漠然とした理由でスタートしたこのプロジェクト。カネもコネもない、あらゆる意味で素人だった(今でもあまり変わってませんが...)私たちのような外国人グループが、家賃の安い衰退地域に拠点を構え、近所の人々と一緒にご飯を作ったりワークショップをしたりという体験を重ねていくことで、だんだんと地域になくてはならない人々の居場所へと成長してきました。第4回のインタビュー記事でご紹介したように、毎週土曜にやっている「ごはんのかい」には近所の学生、芸術家、家族、研究者、移民・難民、ホームレスなど本当にさまざまなバックグラウンドをもつ人々が訪れ、一緒にごはんを作って一緒に食べています。公民館のような税金で運営されている行政機関でもなく、カフェやレストランのような利益目的の商業サービスでもない、単純に都市のすべての人が集まれる場所。行われていることはこんなに普通で単純なことなのに、こんな場所には施設としての名前がありません。こうしてみると、「空き家」や「空き地」は、現代都市においてまさに「まだ制度化されていない、施設化されていない『なにか』が育まれる空間」なのだということがわかります。
■ 現代都市のアジール 

大谷とリンチの話に戻ると、彼らが指摘したものは、一言で言えば都市におけるアジールの重要性です。アジールとは一般的に統治権力の支配が及ばない、あるいはその影響が少ない空間のことで、中世の時代に夫からの暴力に苛まれた女性や貧困にあえぐ人々を匿い、食事や一時的な住居を提供していた駆け込み寺、所有者・管理者が曖昧だからこそ、さまざまなアクティビティが可能な河原や浜辺、誰でも商売ができる楽市楽座、あるいは堺など自治都市そのものもアジールの一例として挙げられます ※4。 このような空間は、近代化の過程で統治権力が解体・接収していきました。都市計画の文脈で言えば、空間の所有者と管理者を明確にし、機能を定め、それらを効率的に配置・接続することで都市を合理的に再構成し一元的に管理していくこと、それが都市の近代化だったわけです。しかし行き過ぎたゾーニングや投機による歴史的都市の無節操な再開発といった、近代都市計画の問題点が見え始めたとき、大谷とリンチは統治権力の計画主義や資本家の開発主義から逃れた(あるいはこぼれ落ちた)空間として、再び都市のアジールに目を向けたのではないでしょうか。
網野善彦らが再三指摘してきたように、アジールの重要な要素は「自治の精神」にあります。統治権力に頼らず、時に敵対し、時に協働しながら自らのアイディアや信念で必要な活動や空間をつくり、維持していくこと。そのような空間は近代化の過程で失われ、行政や商業の「サービス」で置き換えられていきました。しかし歴史を見れば明らかなように、自分たちで自分たちに必要な場所をつくるということは、そもそも人間に備わっている基本的な能力だったはずです。「日本の家」はまさに、この地域のアジール「駆け込み寺」となっています。国籍も宗教も関係なく、大学教授から難民やホームレスまで、どんな人でもとりあえずそこに行けば、ごはんが食べられ、文化やアートを楽しみ、他の人と繋がることができる。行政主導でも利益目的の商店でもなく、自分たちのために自分たちで場所をつくる。税収減によって行政サービスが先細り、グローバル資本の流入で経済的格差が広がるポスト近代の時代の都市には、「自治の精神」をもったアジールが都市の人々の生活に非常に重要な役割を果たすのではないでしょうか※5 。
■ ジェントリフィケーションと「あそび」のクオリティ

ただし、「空地」や「廃棄された場所」があれば、そこが自然とアジールになるというわけではありません。都市のアジールをつくり維持するには、お金のやりくりを含めたさまざまな仕組み、関わる人々のモチベーションと良好な人間関係、得意分野によった役割分担など、さまざまな要素が必要です。少しでもバランスが崩れると、「制度化されていない、施設化されていない」アジールは、いとも簡単に壊れてしまいます。
ライプツィヒは、2000年以降人口が増加し続けており、特に「日本の家」が立地するライプツィヒ東地域は2010年から2015年で人口が143%も増加しています。これは良い面と悪い面両方あります。良い面は多くの若者や移民、最近では難民が地域に入ってくることで、より多様な文化活動が生まれたり、立場が違う人々が関わりあったりお互いに助け合う機会が増えること。悪い面は、それまで不動産市場の「エアポケット」だった空間が市場価値をもつことで、家賃や売却価格の高騰が始まることです。市民らの活動が魅力の一つとなって人口が増加することで、皮肉にもその活動をしている人たちが追い出されてしまう、という典型的なジェントリフィケーションが起こっています。「日本の家」も2016年1月から家賃が2倍(!)になりました。営利目的でない私たちの活動にとって、この変化に対応するのはなかなか困難です。
ライプツィヒでは、「すべての人々のための都市(Stadt für Alle)」という団体が、「都市への権利」を理念にジェントリフィケーションに対抗すべく、政治家をまきこんで運動を展開しています。一方、アジールを「施設化」していく試みもあります。「ハウスプロジェクト」と呼ばれるこの仕組は、住民らが共同で出資して有限会社を立ち上げ、物件を購入することで、その物件が永久に不動産市場に流れないようにするというものです。「ハウスプロジェクト」はドイツの各都市で増加していて、ライプツィヒには10軒、これに類似したプロジェクトも含めると50〜60軒存在します ※6。
私たち「日本の家」が主に狙っているのは、地元行政との協働という路線です。2015年から毎年9月に東地域で「フリースペース・フェスティバル(Freiraum Festival)」という地元のお祭を行政と共に企画運営しています。これは地元に残る空き家や空き地と商店やイベントスペースを一日だけ開放し、その空間をつかって地元住民が展覧会、コンサート、子供のワークショップ、移民や難民向けのイベント、スポーツなどさまざまな試みをする日です。テーマとなっているフリースペースとは「市民が自分たちのやりたいことに合わせて自由に使える空間」であり、そういう空間が都市に残っていることで「さまざまなアイディアが実現でき、都市空間が魅力的なものになり、人々の生活が豊かになる」という仮説を、フェスティバルとワークショップを通して地元の人々と共に考え、実行してみようというものです。フェスティバルのパートナーであるライプツィヒ市の都市再生・住宅整備局は幸い私たちと共通するマインドをもっている部局で、彼らとの協働によって、「日本の家」だけでは届かない市の他の部局や空き家のオーナーにも「都市のフリースペース」の意義を訴えることができ、状況を好転させられるのではないかと思っています。
さまざまな価値観が混在し、時に意見や利害がぶつかり合う状態が本来の都市の姿です。私たちがジェントリフィケーションと向き合って試行錯誤していることも歴史的必然なのでしょう。ただ強調したいことは、「お金」だけが尺度では良いまちにはならないということです。儲かるかどうか(だけ)ではなく、楽しいかどうか、うきうきするかどうか、といった「あそび」の要素がまちにはとても大事です。「あそび」の要素があることで、人種・宗教・年齢、社会階層などに関わらず、多種多様な人が協働するきっかけを作ることが出来ます。これはプロによって追求される空間のクオリティや料理のクオリティとはちょっと違います。プロでない人たちが右往左往、四苦八苦しながら一緒になにか新しいことを始めるときには、体験して面白いと思えるような「あそび」のクオリティが重要なのです。これが「日本の家」の活動を通じて見えてきた、一番興味深いことでした。都市空間を私たちの手に取り戻すために大事なことは、私たち自身が都市でおもいっきり、そしてまじめに「あそぶ」ことなのです。
※1 大谷幸夫『空地の思想』北斗出版,1979
※2 K.リンチ、有岡孝訳『廃棄の文化誌』工作舎,1994。原著“Wasting Away“は1984年に亡くなったリンチの遺稿を弟子のM.サウスワースが編集し、1990年に米国で出版された。
※3 ハウスハルテンなど、ライプツィヒの空き家活用事例について詳しくはこちら。
※4 歴史学者の網野善彦は著書『無縁・公界・楽』で古代から近世の日本のアジールについて分析している。
※5 これを詳しく論じているのは地理学者のD.ハーヴェイで、近著『反乱する都市』では、「(非商品的)都市コモンズ」をキーワードにその可能性と課題点を分析している。
※6 「ハウスプロジェクト」について詳しくはこちら

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