瀬尾夏美
瀬尾夏美
Natsumi Seo
旅するからだ:ことばと絵をつくる
大津波のあと、岩手県沿岸の陸前高田というまちに暮らすようになりました。私はそこで日々働きながら、見聞きさせてもらうさまざまを誰かに渡したいと考えて、絵や文章をつくっていました。私は大津波も見ていないし、以前のまちの姿を知っている訳でもありません。ただ歩いて辺りを眺め、そこに居る人に話を聞き、私自身がかろうじて見えたもの・聞けたことを形にしていくのみです。だから、何かを精確におこすことは出来ません。けれど、わからないからこそ生まれるイメージのブレのなかに、受け手の居場所をつくることが出来るのかもしれない、とも思うのです。作家の身体は旅人である時にこそ機能するのではないか、そんな問いが私のなかにあります。たとえば、そこに暮らしながらも旅人であるということ。一時的にそこに居合わせて、誰かを看取ること。うつくしい風景をうつくしいと言い切ること。この場所では、実際にさまざまな土地を訪れながら考えた旅についてのあれこれを書いていきたいと思います。
旅についての連載をすることになって、書きたい土地をさまざま思い浮かべながら、最後は“ふるさと”について考えられたらよいなあ、きっとそうなるだろうなあと思っていた。旅をするということは、どこかから出かけることでもあるだろうと考えると、その出発点となる“どこか”こそが“ふるさと”かもしれないと思ったりする。けれどそれは私にとって一体どこで、その場所を本当に“ふるさと”と呼ぶだろうか、などと考えはじめると、思考はすんなりとは収まらなかった。生まれも育ちも東京の私にとって“ふるさと”は、あの川べりにある特徴のない住宅街のはずだけれど、どうにもそれが面白くなかったのかもしれない。“ふるさと”には、もっと圧倒的な風景を持っていてほしい。そんなちっぽけな願いがあったのかもしれない。今回は、いままでの旅を振り返りつつ、“ふるさと”について、すこし考えてみようと思う。
荒川土手と鳩/2017
東北を訪れるようになってから、誰にも“ふるさと”があることを当然のように、あまりにも当たり前のように語れる人が多くいることを実感した。特に震災で多くのものがなくなった陸前高田では、“ふるさと”ということばが失われたもの自体を指すこともあったし、これから関わらなくてはならない、守らなければならない大切な土地として語られることもあった。「ふるさとは遠きにありて思うもの」かと思っていたが、この土地で暮らす人たちにとっては、足もとにある地面やぐるりと見渡した先にいる顔の見える人びと、その背後にある風景、つまり、自分の暮らしとぴったりくっついている環境こそがふるさとであった。そしてそれはいつも、どこか煩わしくも愛おしいものとして語られる。
岩手県に居を移し、陸前高田でほとんどの時間を過ごすようになると、「ふるさとはどこ?」と訪ねられる機会が増えた。私はその度に「東京出身で、ふるさととかあまり考えたことがないですね」と歯切れの悪い返事をした。東京出身と答えた時、多くの場合それ以上に詮索されることはない。どこか別の地名を言えば「ああ、○○が有名なところだね」とか「山の方なんだね」と言ったように、その土地土地の特性が述べられたりするのだが、東京にはその特性が語られにくい。それはおそらく私自身が出身地についてうまく語れないことにも繋がっていて、ちいさなコンプレックスのようにもなっていた。遡れば、美術大学にいた頃も、自分と関わりの深い土地について語り、そこから作品をつくっている人たちがうらやましかった。東京のありふれたような住宅街で育った私には、そうやって他者に語れる物語がなかった。自発的な表現を実践していく場、またその評価が行われる場としての美術大学と言う環境では、自分から語りたい物語がないことが大きな弱点のようにも思われた。
大津波の後の陸前高田に通うようになって私自身が非常に救われたのは、このまちには聞かれるべきことばと眺められるべき風景がたくさんある、ということだった。私はとにかくまちの人たちに話を聞かせてもらい、風景を見てまわった。歩くうちに、当事者とそうでない人が分別され、壊れた風景のなかにうつくしさを見出すことが憚られるこのような環境にこそ、何かまことしやかに存在している様子の“隔たり”を越えていくような行為が必要だと感じるようになった。さまざまなメディアを使いながらそれを実践することは、アートが本質的に担ってきた仕事でもあるだろう。語れる物語を持たない私は、誰かに聞かせてもらった大切な話を次の誰かに渡していく、媒介になるような仕事が出来るのかもしれないと思った。見渡せば、似ているように見えるために気に留められなかったもの、放っておけば衝突してしまい兼ねないものたちなど、災厄の有無にとらわれずとも、日常とは異なったつながり方や出会い方をするだけで光が見えてきそうなものごとはたくさんある。また、媒介することを自分の役割と捉えたとき、いままで四苦八苦しながら扱ってきた色やことばが、誰かや風景の持つ物語によってするすると導きだされて、目の前に形を現しはじめることにも気がついた。それは私にとって、自発的な物語を縁取っていくことよりもずっと軽やかで、遠くへと跳べてしまうような経験であった。そんな出会いがあってから、私はずっと、誰かや風景の持つ物語を聞かせてもらって、それを自らの身体で語り直すような仕事をしている、と思う。
陸前高田市米崎町樋の口/2012
その過程で、民話に出会った。ずっと昔、何かがきっかけで編まれたお話は、たくさんの人びとの身体を通じて語られ、聞かれ、また語られながら、いま現在に伝わってきている。時に語り手は、自分の身の上話や、聞いてほしくてもうまく話せなかったことなどを、語って聞かせるお話に込めることもあっただろう。例えば一見同じ「笠地蔵」のお話に思われても、時代や場所によって細部が変わっていることもある。そうやってひとつのお話が、さまざまな時間や空間のなかに点在するひとりひとりによって使われていき、同時に継承の営みとしてしたたかに機能していく。どこかで起きたあるひとつの事象は、物語という抽象化を経ることで、経験者自身やその土地固有の出来事に留まらず、いくつもの身体を通じ、長い時間と距離を渡っていく。そして、そうあってさえも、お話の芯はそうそう変わらない。それは、このお話を語り継いできた大きな営みに対して、語り手が常に敬意を持ちながら語っていくからなのだと思う。
民話語りのおじいさんは「話語れるって、しあわせなんだよ」とも教えてくれた。聞く人がいるから、語ることが出来る。目の前にいる人が私のために語ってくれて、語ってもらったからこそ、今度は誰かに語ることが出来る。それぞれの身体は、あるお話を語り継ぐためのメディアのひとつである。しかし紛れもなく特別な、ひとつひとつの身体である。ふたりないし数人が同じ場に居て行われる、聞く・語るというとてもささやかな行為が、気の遠くなるほどの広がりを抱えていることに息をのむ。
民話という営みに出会ったとき、私がやりたかったのは、こういうことかもしれないなあと思った。同時に、「誰かの話を受け取り、語り直す」という行為からは、どうしようもなく語り手の身体があらわになることも感じた。話を聞かせてくれる人が「こう聞いてほしい」と考えて語っていたとしても、私は聞く行為のなかで誤読をしてしまうし、語り直す際にも私の身体の持っている癖がどうしても出てくる。そのまま受け渡せないということが、聞く・語ることの面白さではあるが、媒介することを作家としての仕事と捉えるときには、自分の身体をよく理解している必要があると思った。
さて、話は戻る。語れる物語を持っていなかったはずの私は、誰かの話を聞くことで、自分の身体に染み付いた物語に気づかされることになる。どこまでが自分の輪郭なのかわからずに母親さえも自分の一部だと思っていた赤ん坊が、何かを契機にして母親が他人であると強烈に理解するようなもので、私は、誰かの話を聞くことで“わからないこと”の存在を、語り直すことで“伝わらないこと”の存在を痛感し、やっと自分の身体の輪郭を理解し始める(それまではさらに子どもっぽい思考で生きていたということなので、ずいぶん恥ずかしくなる)。東京という場所、さらには歴史の短い(ように捉えられがちな)住宅街のような場所に生まれ育つこと自体が、“誰しもが持っているはずの固有の物語を自覚する契機が少ない”という特徴を持ちあわせているのではないか…という言い訳もここに記しておく。
私の身体やその所作をひとつひとつ見ていけば、東京にあるあのありふれた住宅街も、祖父母と同居していたがいまは核家族の実家も、そこで営まれていた生活習慣もことばも、私を構成する大きな要素だということがわかってくる。自分を構成する物語が結びつく場所を“ふるさと”と呼ぶのだとしたら、あの場所は紛れもなく私の“ふるさと”であるのだろう。うつくしい風景やわかりやすい歴史のないあの場所を“ふるさと”と呼ぶことにどこかつまらなさを感じながらも、私がしていく仕事にとってはそれが意外と有為なことであると捉えられれば、すこし気に入ってくる。現金なものだ。
キッチン/2009
クッション/2010
もうひとつ、私が“ふるさと”を捉えていくうえで、とても大切な出来事があった。それは昨年、障がいを持った人たちの表現活動をまなざしていく仕事が舞い込んで来たことだった。この仕事が来たことは偶然なのだが、私には障がいを持った兄弟がいる。彼とは年齢が離れているために兄弟らしく関わることも出来ず、かと言って落ち着いた距離を保って手を差し伸べることも出来ずにいて、そのことがいつも引っかかっていた。そんな折、突然目の前に差し出してもらった仕事を通して、さまざまな障がいを持った人たちのつくっている絵や彫刻をたくさん見せてもらった。そして、その作者に会いに行かせてもらった。彼らは、驚くほどにやさしかった。例えば、いわゆることばを持っていない人が何かを伝えようとしてくれていても、私にはわからないことが度々あって、あたふたと戸惑ってしまうことがあった。そんな時その人は、「わからなくてもいいよ」ということを、その佇まいで伝えてくれた。いくつかの福祉施設やご自宅を訪問させていただくなかで、障がいを持ったひとの多くが、“わからない”“伝わらない”ということの不自由さをよく知っていらして、それでも相手と関わろうとすること、そのための技術の工夫を惜しまないこと、そして、“わからない”“伝わらない”ことの豊かさを楽しむことを実践されているのではないか、と感じられてきた。その身体の尊さに対峙するにつけ、自分の至らなさがすこし恥ずかしくもあった。そんな経験を通して、私は間接的に、自分の兄弟を理解していくようだった。そして近い将来(どこかで後回しにしているとも思えて気が引けるけれど)必ず彼自身に向き合うのだと考えると、彼のいる場所こそが、私にとっての“ふるさと”だという定義もあると思われてくる。私には、負わなくてはならないものがある。というよりも、負いたいものがあって、それは特別でもないし、重たくもない。そのこと自体が、私を歩かせてくれる。ただ、深い感謝がある。
情けなくも、“わからない”“伝わらない”ことに対して無自覚な時間が長かった私は、これからも、それを深く深く知っている人たちに、いろいろなことを教えてもらいに通いたいと思っている。お邪魔しますと緊張しつつ、彼らのやさしさにはきっと敵わないと感じながら。そして、その頭のどこか片隅ではいつも、“ふるさと”を想ってしまうだろう。
お葬式にむかう/2009
さて、そろそろ結びたいと思う。あれこれと考えていると、“ふるさと”とは郷愁のために引用されるものではなく、どうしても未来的な存在であるように思えてならない。それはつまり、出発する地点がすなわち帰ってくる地点でもある、ということに尽きるのかもしれない。必ずその場所に帰るかはいったん置いておきつつも、毎日のように帰ることもあるのだろうかなと考えたりもする。
“ふるさと”が持つ物語がどんなにちっぽけなものでも、それにはどうしても敵いそうにないし、反対に訪ねる先がどんなに大きな物語を持っていたとしても、私はそれを描けてしまうくらいの軽やかさを保ってしまうだろう。
旅人的であることの無情を思いながら、だからこそ仕事ができるのだ、と思う。私はこれからもきっと、多くの時間を旅に使っていく。それが私にとっての仕事の仕方であって、暮らしを紡ぐ芯となる。いつかどこかに定住して家庭をつくることもあるかもしれないけれど、それもきっと旅の過程にあるのではないかな、なんて予感もしている。 旅することはどこかで“ふるさと”のことを考え続けることでもあるのだろう。暮らしていくなかで、“ふるさと”との距離は伸縮するのだろうし、定義が変わることもあるとも思う。まあ、そんなことはまだよくわからないけれど、それもまた旅の醍醐味なのかもしれない。

最後に。たった5回の連載でしたが、旅というものに向き合う大切な時間となりました。この場を与えてくださったみなさま、さまざまな助言をくださったみなさま、拝読してくださったみなさま、そして、旅先で出会ったすべてのみなさま、ありがとうございました。
またどこかで、お会い出来ますように。
自分が選ばなかった道はいったいどんな未来に繋がっていたのだろう?という疑問を持つことは、きっと誰にでもあるのではないかなと思う。自分や誰か、または架空の人物が「こんな状況にいたら」「あんな世界でこう生きていたら」という具合に、自分が暮らしている現実のすぐ横に、物語の世界はふと顔を出す。その多くは定着することなく消えていくけれど、現実の横にはいつも物語の世界があって、必死に生きる毎日に息継ぎの間を与えてくれる。そう考えると、物語は、逃れることの出来ない現実を歩くための杖として私たちの手元に添えられる相棒のようなもの、と考えることが出来ないだろうか。
今回は、2015年に書いた『二重のまち』という物語と、これから書くかもしれない物語のことについて、記していきたいと思う。
ここに暮らす
2015年の秋に、『二重のまち』という文章を書いた。そして、「2031年、どこかでだれかが見るかもしれない風景」という副題をつけた。この文章は、大津波で洗われた土地の20年後の様子を、復興工事の末につくられた“あたらしいまち”で暮らす4人の人びとによる一人称語りの形で綴った短い物語である。
どうしてこの物語を書きはじめたのかといえば、2012年から暮らしてきた陸前高田で復興工事が本格化し、風景が日々激しく変化するようになったからだ。その様子を間近で見ていた私はいろいろなことがわからなくなってしまって、どうにか冷静になる方法が欲しいと思い始めた。
流された市街地の痕跡のうえに積み上げられていく大量の土砂、そのために削られていく青かったはずの山々、いくつもの直線で組み上げられた茶褐色で直線の風景。かつてのまちの手触りのようなものは、日々失われる。しかし、この巨大土木工事は復興の過程であるはずで、「それならば仕方がないこと」なのかもしれない。津波で流された集落を丸ごと弔おうとおばちゃんたちが丹念に手をかけた大きな花畑も、「復興工事の邪魔をするのは自分たちの本意ではない」と言って、おばちゃんたち自らの手によって解体されていった。復興工事は、確かに希望であるはずだ。でも、この直線と茶褐色の風景は、弔いの所作が宿るにはほど遠く感じられて、未来を考えるための筋道を見えにくくしているようにも思えた。
陸前高田市高田町(2015.12.5)
目の前の風景は、ただ一枚ひらの視覚的な情報ではない。幾重にも絡まりあった文脈を負い、さまざまな人たち(ここで暮らす人、これから生まれる人、ここを去った人、そしてここで生きた今は亡き人)を抱え、自然と折り合うことへの葛藤と無関心が交錯し、信じるに足る安全や安心を「どのように手に入れるのか」という問いを絶えず投げかけてくる。とにかくとても複雑だ。
まちの人たちはこの風景を目の前にしながら、自宅再建やこれからの働き方など、それぞれの暮らしにとっての大きな選択をしなくてはならない状況にあって、私が感じるよりもずっと切実で逼迫した複雑さを目の当たりにしている。そう思うと、何かを感じて自分のことばを発するということすら、私にはとても難しくてたまらなかった。
複雑な風景と、私はどのように対峙しよう。目の前にある風景は、これから出来てくるまちとかつてあったまちを繋いでくれる大切なものに代わりないはずだから、なんとか逃げずに記述しておきたい。と言っても、ただ直接見ていると混乱してしまうから、何かしらの方法を考えなくてはならない。
そんなとき、物語を書くことを思いついた。想像力を少し遠くの未来へポンと飛ばしてみて、その地点から振り返るように現在を眼差してみたら。目の前の風景をどう位置づけられるか、どのように捉えることが出来るのか、簡易な判断を用いることなく冷静に考えられるかもしれない。
地底に咲く
『二重のまち』の舞台を大津波から20年後の2031年にしたのは、かつてのまちに暮らした人たちと、あたらしい地面のうえで生まれた人たちが同居しているタイミングだろうと考えたからだ。両者は、亡くなった人たちとどのように“ともに暮らしている”だろう?彼らの目を借りて、未来の風景を見渡してみる。そして、そこに宿る弔いの所作を想像し、手を動かしてみる。すると、2031年の未来にいる彼らの様子から、翻って、現在からそのときまでの道のりを浮かび上がらせることが出来るかもしれない。この場所に宿る未来には、きっと希望の依り代がある、そう思えるようにと願い、書き進める。手法としては、『あのまち』という、2013年に書いた文章(陸前高田で聞かせてもらったことを一人称語りのかたちでまとめたもの)に出てくる人物やその周縁にいる人びとの2031年の姿を描くという方法を取り、『二重のまち』というタイトルをつけた。この物語は、私が現在の風景を眼差すための杖となる。これなら歩き始められるかもしれない、と思えた。
この身勝手な物語は幸いなことに、読んでくださった方から感想をいただくことがあった。幾人かで輪読をしたり、陸前高田の女性に朗読をしていただく機会まであった。来春には、ダンサーの砂連尾理さんの公演の中で、大阪の高校生らによってダンスの作品にもなるという。彼女の声で聞いたり彼らの動きを見たりすると、『二重のまち』は確かに私が書いたものなのに、私には知る由もなかった色味がこんなに含まれていたのかと、いつも驚かされる。この物語のことをよくわかっているのは私ではなくてもっと別の誰かかもしれない。いや、と言うよりも、誰かの身体を介することによって、物語のなかの人物たちがそれぞれ微妙に違う人格を持って語りを始めるために、見えてくる風景がブレるのだ。さらには、聞く人によって、またその人の状態によって、どの部分を見たいかが変化するから、その時々によって多様な細部が見出されていく。物語とは、語る人聞く人という複数の身体を行き来することによって“豊かなブレ”を生み続けていく運動でもあるかもしれない。書き手がすることと言えば、そのきっかけを縁取ることに尽きるのだと思う。
私の現実を支える杖であったはずの物語が、さまざまな人に語られることによって、誰かの現実の伴走者ともなる。物語は、私の現実でも誰かの現実でもない・触れていながらもはみ出した場所に立ち上がるように思う。それはまるで、それぞれの現実と現実の間に現れる“空き地”のようだ。だからこそ、どのように眼差しても語ってもよい、という自由さを持つことができる。
ここにのこる
さて、いささか唐突なのだけれど、先日初めて広島に行った。関西からの夜行バスで降ろされた早朝の広島駅前はわりあいとにぎやかで、どこにでもあるチェーン店が立ち並んでいる。広島については、71年前に原子爆弾が投下され10万余もの人たちが亡くなった場所だということは知っている。ただそれは教科書で習うような文言の知識で、私は情けなくもそれ以外のことを知らなかった。ただ、大学生の頃、幾人かの友人が原爆のことをテーマに扱って作品をつくり発表していた。誤解を恐れずに言うと、当時の私は、70年ほど前の出来事をなぜ同世代の彼らが扱うのか疑問でさえあった。被爆何世ということばを知ってはいたけれど、その細部への想像力も聞く耳も持とうとしなかった。そのことがずっと気にかかっていた。あの大きな出来事から71年の時間が経った広島はいったいどんなまちなのだろう。私の浅はかな問いに、早朝の広島駅前は、何万通りのうちのひとつの答えを呟いてくれているようだった。
そんな風に始まったほんの5日間の旅で、思いがけないほどいろいろな人に会って、恵まれて、たくさんの話を聞かせてもらった。広島出身で1度は関西や関東に出たけれど、地元が好きで戻ってきたという青年(彼のおばあちゃんは爆心地から数百メートルのところに暮らしていたという)。広島が気に入ってIターンで移住した人たち。広島でアートに携わっている人たち(地元出身者とそうでない人もいる)。被爆体験の語り部をしている人たち(反核運動のために被害の語りをする人もいれば、悲惨な体験を後世にという人もいるし、亡くなった親類を偲ぶ人もいる)。さまざまな性格の人がいて、さまざまな立場があり、さまざまな選択がある。そういう当然のことが、実際の土地に足を運ぶことでやっとすこし見えてくる。自分の想像力の貧弱さが心底情けなくなるけれど、優しい人たちは、「なんで広島に来たの?」という問いを根気強く投げかけながら、私に話をしてくださった。
この旅についてはいつか詳しく書きたいと思っているけれど、今回は印象に残ったひとつのことだけを書く。それは、平和記念公園で語り部をしているおじいさんが語った「一番聞いてほしいこと」だ。原爆投下時には1歳で、焼け野原で遊びながら育ったという彼は、私を追悼平和記念館にある地層の模型の前に連れて行って、話し始めた。
「これ見て欲しかったんよ。今じゃ平和公園はきれいでええですねぇなんて言われるけどな。でもここには家々が立ち並んで、おじちゃんの家もあったんよ。それが原爆で全部のうなった。あん時は機械も何もないからな、大きいもんだけ片付けて見える骨だけ拾うたら、1メートルくらいの高さの土で一面埋めてしもうて、そのうえに公園があるということなんよ。今また改修工事いうてあちこち掘っとるとな、瓶やら茶碗やら当時のものが出てくるんよ。70年経ったけど、70年しか経ってないとも言えるんよねぇ。じゃけえ、まだまだあん時のものも、あん時の思いも、すこし掘ってしまえば、出て来てしまうんよねぇ。」
かつての地層といまの地層——勝手ながら、陸前高田で書いた『二重のまち』と重なる。ふたつの地層を行き来しながら70余年の時間を繋げてくれるおじいさんはまるで、『二重のまち』の登場人物たちのようだ。彼の語りによって、かつての風景と現在の風景の繋がりが想起され、70余年の変遷の細部が見えてくるように感じられた。
一見すると分け隔てられた複数の地点。それらが繋がる、もしくは擦れるということが、物語が結ばれるきっかけとなる。いや、むしろそういう風に、“複数の世界”の存在を認知することによってしか、語りは始まらないだろう。わからない、隔てられているという前提と、でも語らずには居れないということ。引き裂かれながらも繋げようとする所作から、物語は生まれるのだろう(日常から離れた場所からやってくる旅人によって“隔たり”を認知することがあるために、物語が生まれる可能性もあるだろう、というメモも記しておこう)。
そんな経験を通して、ひとつの思いつきがあった。それは、物語を結ぶことを用いて、過去や未来の出来事に向き合うための方法である。まずは、向き合いたい出来事についてのリサーチを出来るだけ精密に行う。これは、自分の身体の中にぼんやりとひとつの風景を立ち上げていくような行為だ。そして、そんな風景の傍らに、ある(徹底的に設定された)人格をぽとりと落とすと、その人はまるで飛び飛びに落ちている石のうえを跳んで進むような様子で、向き合いたい出来事の付近から現在に向かって歩きはじめる。その軽やかな歩みは、リサーチでは決して埋まらなかった知識の穴や溝をも繋げてしまうだろう。物語のなかの彼らの身体を借りることによって、私が歩くことのなかった時代、環境、土地を旅する——彼らの知覚を通して、思いがけない解像度でその風景を見渡せるのではないか。更には、彼らの歩みを記述することで物語が結ばれ、それを“空き地”として誰かとともに使っていくことで、また豊かなブレが生まれ、さらに細やかに“わからない”ことに触れていけるのかもしれない。
見落としてきたこと、忘れたこと、選ばなかったこと、諦めてしまったこと。そういった、今はもう(まだ)“わからない”出来事たちはすっかりとなくなったのではなく、私のいる現実のすぐ横を併走しているような気がする。それらをもう一度物語という方法で縁取ることで、ゆったりと向き合える空き地をつくる。
“わからない”ことに向き合うための手法と実践を、と思う。
同じ場所に立つ(広島市本通/2016.11.28)
“なくなってしまったまち”が無数にあるということについて、東北の地に来てから、お年寄りに話を聞くようになってから、私はやっと考えることになった。彼らは「そごにはもうなんもねぇんだよ」と言いながら、かつて暮らした村のことをとうとうと語ってくれる。「何もない」と言われると、「本当にそうなのか」といぶかしがるのが私の性格で、その場所に行って、何かしらの痕跡を探したくなる。そして、「形は変わっているかもしれないけど、ありましたよ」とか、「あなたが確かにそこに居たことは、ちゃんと風景の中に残っていますよ」とか言いたいのだと思う。こう書いてみるとずいぶんと身勝手で、かと言って断りにくいであろう、ありがた迷惑な話で申し訳ないのだが、そんな風にして歩き始めた道中のことを記してみる。
秋の頃、宮城県の山奥を訪ねた。ある民話語りのおばあさんが村の暮らしについて語る、長い映像を見たことがきっかけだった。彼女の語りによれば、自然環境は厳しく、山の暮らしは貧しいものであったが、そこにはゆったりとした呑気さがあったのだという。ひとりで山に入って、日がな一日炭焼きをすることの気楽さや、金銭的には豊かでないけれど、そんな環境を理解しあって役割を与えあえる関係のあたたかみを、彼女は何事でもないように語った。しかし、彼女が暮らしたその村は、「今は、なんもねぇ」のだという。いわく、米軍と陸上自衛隊共同の実弾演習場をつくるという話が持ち上がり、近隣の村落に騒音被害が予測されることから、彼女の村があった場所は「もう住めない」とされ、2000年に村ごと移転したというのだ。弱い場所には繰り返し歪みが現れるのか、震災後、その村の跡地は、放射性物質の最終処分場の候補地となったとも聞いた。
宮城県大崎市古川師山升沢
私は村の移転の際に民俗調査に入っていたOさんに頼んで、一緒にその場所を訪ねた。道中の車内で、当時彼女が作った分厚い資料を見せてもらう。山仕事のさまざまな手法、生活用水のための水路の工夫、村に残る石碑群の一覧、そこにあった家々の姿。「ああ、○○さんだ」という呟きを聞くたびに、そこにあったはずのものが今はもうない、ということが余計に際立つようだった。
大きな道を外れて山道に入る。まだかまだかと思うような頃、やっとおばあさんの村のあった場所に辿り着いた。コンクリートの山道の脇に森との際の草はらがあるだけで、ぱっと見では、そこに何かがあったことすらよく分からない。「ここかなあ」としめされたその場所が、「どうやらおばあさんの家の跡地のようだ」という。なんでも、保証金の関係で価値のありそうなものは根こそぎ失くさなければならなかったそうで、家や物置は元より、庭木の一本さえも、個人の所有物であったものはひとつ残らずそこにはない。ただ、村人たちの共有物であった水路だけが、伸びた草に紛れてそのままになっていた。
草はらをかき分けて歩きながら、Oさんは、「ああ、もう結構忘れちゃってるなあ」と、あっけらかんと呟いた。無くなっていく村に幾度も足を運び、ここにいた人びとの話を聞き続け、あの分厚い資料集をつくった彼女は、「私ね、それでも、忘れてもいいとも思うのね」と続ける。彼女が当時からそう思っていたのか、今だからそう言ったのかはわからなかったけれど、私は、はっとした。ここにあった営みが消えてしまったという事実は確かにさみしいことだけれど、だからと言って、誰もが忘れてはいけない訳ではないはずだ。まちをなくしたという出来事は、“忘れてもいい”という自由すらを奪うものであってはならないのだ。ふと、映像編集のあいさつにと、おばあさんを訪ねたときのことが思い出された。今は山を降りてまちに出た彼女は、近代風の便利な生活のなかで淡々とちいさな畑を耕し、自宅の駐車場の隅っこに自分でつくった大根を干していた。彼女は確かに“村を失った人”ではあるが、それよりずっと前から、日々を暮らし続けるひとりの人だ。他人である私が、彼女に“失った”という物語を彼女に負わせたがっていたことに気づく。
Oさんは村の記述をすることで、この場所で編まれた経験や記憶を、一部ではあるが、別の形に置き換えて記録・保存した(返せば、無くなりつつある、忘れられつつあるという認識のもとに、記録という行為がはじまるのかもしれない)。それは、出来事の保管場所を他につくることで、“個人や場所”と“出来事”をそっと剥がしていくことなのだと思う。
そう捉えたとき、自分がやっていることと繋がってくる感触があった。津波のあとの陸前高田でまちの痕跡を描くことも、戦争の語りを聞いて文章にすることも、それに似ている。ふと、“出来事の看取り”ということばが浮かんでくる。(予感も含め)消えかかりつつあるものの傍にいようとすること。すると同時に、幾人かの友人の顔が浮かんだ。自分が育った集落が衰退していく過程をおだやかなものにしていこうと、ふるさとに通い続ける青年。長く続いた劇団で、代表が亡くなったあとに、話し合いを繰り返しながら最終公演をつくりあげたメンバーたち。新潟水俣病の当事者・サポーターともに高齢化し、徐々にいなくなっていく状況の中で、対話の場を支え続けている女性。彼らがやろうとしていることを、(ことばが強すぎるし、かなり不本意かもしれないけれど)私は、“出来事の看取り”と考えられるような気がした。弱りつつある何か大切なものに並走し、何かしらの形に落とし込んだり、形を変えたりすることで、次に渡していくこと。“引き継がれるべき何か大切なものが誰かに渡された”こと(もしくはそのような実感——それは物語化することにも思える)によって、具体的な“個人や場所” は、忘れることへの自由さをもう一度獲得していく。時間経過によって背負ってきたさまざまな意味を、そっと下ろす手伝いとも言えよう。
空へ
先述の新潟の彼女に「なぜ、そんなに関わっているの」と問うと、彼女は「なんでだろうねえ」と笑いながら、「たまたまだよ」と言った。それには私も共感した。本当に、たまたまなのだと思う。私のイメージでは、ふと、あげられたボールが宙に浮いていることに気づいてしまい、見渡してみたがここには私しかいないことが分かり、そのボールが落ちないようにとあわてて身体をうごかしてみる、といった感じだ。この“ボール”に当てはまるものは、ことばや記憶や想いであったり、もしくは運動や組織であったりもするだろう。誰か(たち)にとっての大切なものごとが、何かの条件によって中断を余儀なくされそうな状態にあるとき、そのまま地面に落ちて消えてしまうことを忍びないと感じた人が、それを拾い上げようとする。“ボール”に気がつくのは、思いのほかその出来事に近しい人ではなく、通りすがりの人や一時的に滞在した人の場合が多いように思う。きっと、次に繋ぐことがその人の役割なのであり、ある種の無責任さと気楽さを持った旅する人の所作なのだ。関係する人たちによる手渡しが難しくなったとき、誰かが間に立つことで、両者はやわらかく出会い直せる。もちろん、ボールを繋ぐのに時間がかかれば、旅する人はその場所で暮らしをはじめるだろう。連結点から、次の担い手に変容することもあるだろう。
大きな石のある風景
私が描く絵を、「死化粧のようだね」と言った人がいた。最後の姿を彩り、送ること。在りし日の生きた姿のように描くことは、無くなっていくもの自体を悼むことでもあるが、同時に、送る人びとと送られていくものを繋ぎ直し、これからをつくっていくことでもあるかもしれない。看取りとはきっと、なくなっていくものと共存し続けるための、これからに向けた積極的な行為だ。
最後に、もうひとつ訪ねた場所である岐阜県の旧徳山村のNさんのことばを引用したい。この村は、1950年代にダム計画の浮上を受け、長く続いた運動の果てに、半世紀のときを経て水に沈んだのだという。廃村からは30年の月日が経っている。ダムの入り口に出来た『徳山会館』という、かつての村の資料展示や元村人たちの手作りの品の販売を行っている交流の場をきりもりしているのがNさんであった。彼は、おだやかな口調で語った。「30年も経ったからな、村について語る人は減ったな。風化という人もおるが、それが当たり前のことや思うとる」「忘れてもいいこともあるでな。忘れられたいこともあるでな。ただ、村のことを忘れられん人たちを、私はひとりにしたくないのでな。それに、消えてくものをなんとか食い止めようとした人たちがおったからな。そん人たちが遺してくれたもんは、やっぱり大切なもんだと思うのでな。」
なくなったまちは、ちゃんと、そこにある。
岐阜県揖斐郡揖斐川町開田
遠い火
まだここ数ヶ月のことだけれど、終戦の前後の生活について、おじいさんおばあさんに話を聞いている。なぜその頃のことについて話を聞き始めたのかと言えば、あるおじいさんが「話したい」と言ってくれたからである。彼は、宮城県の山間地、伊具郡丸森町の人であった。彼に、なぜ話したかったのかと問うと、
「俺が今にいねぐなるとす、戦死した兄貴のごどを知っでる人が誰もいねぐねってすまうがらねゎ。それが悔すぃ。」と言う。
死者について語る人に、津波のあとの陸前高田で幾人も出会った。語りとは、今は存在しない人間を別の誰かのなかにもう一度生きさせるような行為、あるいはそのような願いかもしれない、と思う。亡くなったその人を記憶する人が誰ひとりいなくなったとき、その人はもう一度死んでしまう。2度死なせることを「せづねぇ(切ない)」と感じ、語ることを諦めない人たちがいる。
長い時間のなかで幾度となく思い、語ってきたからだろうか。おじいさんはまるで、70数年前のあのときに身体ごと戻り、目の前にあるものを描写していくかのように語る。少年だったあるときが、ガキ大将であったお兄さんの姿が、その場所に確かにあった風景が、はっきりと立ち現れてくる。あまりにもあざやかな記憶の地点が、そこにある。
このような地点は、大きな出来事の周辺に出来るのかもしれない。宮城の地で40余年も民話を採訪し続けている方が、「大きな悲しみや苦しみ…抱えきれないような出来事からは、きっと物語の種が生まれるだろう」と語っておられたことを思い出す。大津波のあと、波に攫われてがらんどうのようになった土地を見たとき、ここから何かが生まれるのではないか、という直感があった。大きな喪失のあとには、その引き換えのようにして物語が生まれるのかもしれない。私がいまおじいさんから聞かせてもらっているものは、そういったものの一部なのではないか。70数年前の出来事について、聞かれることを待っている無数の物語が、まだ誰かの身体のなかにあるかもしれない。もしくは、未だ物語にすらなっていない断片が、身体のなかに渦巻いている人だっているかもしれない。
すべてをひろう
とにもかくにも偶然ではあるが、私は戦争についての語りを、東北の山奥から聞き始めることになった。山奥での戦争体験は、とても静かなものが多い。直接戦地になることはなかったから、生活そのものは淡々としている。戦争は山をいくつも越えたまちや海で繰り広げられているらしいが、自分の目で火を見ることはなかった、と彼らは言う。それでも確かに「戦争の渦中に居たのだ」ということが、戦争が終わったあとに、時間をかけて自覚されていったようだ。その事実が・戦火との距離の遠さそのものが、日本の地方都市で身の危険も感じずに暮らしている私が、70数年前の戦争を感じるうえで、とても必要なもののように思えた。当時抱えられていた戦火との空間的距離が、私が抱えているどうしようもない時間的距離と、それに伴う想像力の届かなさを、ゆるやかに肯定してくれるようだった。ひとりよがりかもしれないけれど、終戦の語りを聞くために、私は山へと歩き始めることにした。
山を訪ねては、お茶飲み話みたいにして、おじいさんおばあさんに話を聞く。いま私が話を聞いている人のほとんどは70代から80代であるから、当時は子どもだった人たちである。宮城県だったり岩手県だったりと、それぞれに点在する村であるけれど、共通するような話に幾度も出会った。
例えばお別れと迎え入れの儀式の光景、その場所。その多くは駅やバス停であった。出征していく村の男たちの見送りに、学校からその場所へと通った毎日。万歳をして、声を高くあげて、汽車やバスに乗って消えていく人たちをうっとりと見ていた、という人もあった。そしてその場所は、戦死者の英霊(その多くは遺骨そのものでなく、棒切れや本人の写真の断片であったそうだ)を迎え入れる場所にもなる。盛大に迎え入れられる英霊たちをうらやましいと感じていたという少年少女たち。おじいさんおばあさんに淡々と語られることで、当時の軍国少年少女たちが、目の前の彼らと確かに地続きであるということを、すこしずつ実感するようだった。
お話を聞いたあと時間があれば、お別れと迎え入れのその場所に連れて行ってもらった。風景は70年の時を経て、確かに変わっている。けれど、必ずどこかにかつての姿の片鱗を抱えている。思い出して話すという経験によって、彼らの目は、風景からそれを探すようになる。
「ああ、ここだここだ、確かに残っていだったねゎ。」
それを見つけては、彼らは懐かしそうに目を細めていた。
宮城県伊具郡丸森町後屋敷
もうひとつ記しておきたいことがある。それは、彼らは幼少期に体験したそのことを、70数年の間にさまざまな立場に立って、繰り返し体験し直しているということだ。自分が母親になったとき、教師になったとき、孫を持ったとき。年を重ねるごとに、あのときの地点に立ち返り、あの人はどう思っていたのだろう、ということを考える。例えば、出征する兄の姿を見ながら泣いている母親を、軍国少女だった自分が叱責した、というエピソード。その後ガラリと価値観が変わった社会で思春期を過ごし、自分が母親になったとき、改めて、子を戦地にやる母親の気持ちを思う。それは、当時の自分のふるまいを全否定するのとも、母親への怒りがすべて消えるのとも違う。あのときを抱えながら、微妙に位置をずらしながら、幾度も経験し直し、そのうえでいま、語ってくれている。
「戦後、とてつもない価値観の変化をどのように受け止めましたか?」と訪ねたとき、彼女はこう答えている。
「人間は思うよりもたくますぃもんだ、というごどさ。昨日までのことが全て嘘だどなって世界が変わっても、それに合わせるもんなのさ。何よりかにより、生きていぐこと、だから。思想どか価値よりも、生ぎるごどがあるからねゎ。」
かがむ子どもら
語りを聞きながら常に忘れたくないと思うのは、私が聞くことが出来るのは、70数年の間、彼らが出来事に向き合い反芻し続けるなかで、編集してきた語りであるということだ。ある物語のかけらのようになって現れるそれらにとって、事実であるか、誰のものであるかということは本当の問題ではなくて、彼らが何を語り伝えようとしてきたのか、ということに、その体験の本質があるのではないか。語り継ぐこと、物語になることとは、むしろ、本質があらわになっていくことなのではないか。
同時に、語りのなかには、政治的な主張やメッセージと物語が混同されている場合が時々あり、それは注意深く聞きたいとも思う。そこで私は、彼らの語りに導かれるようにして、私自身がその体験までなるべく精確に立ち戻り、自分の身体で70数年を歩いて語りなおす、という方法を試みようと思っている。ある体験の本質をもう一度咀嚼し、あらためて語りだすために。
最後に、岩手県遠野市のあるおじいさんが、ぽつりと呟いたことばを記したい。
「オレには戦争のなかった人生なんてのは成り立たねぃがらす、戦争がまるでなかったようにするのは、自分の人生そのものを否定するごどにもなるんだよ。だがらオレは語らねばなんねいのさ。語るっづごとは、とっても大切なんだよ。ひとりの経験はひとりの問題でねくて、過去の人と未来の人のものでもあるのさ。この世を生ぎでるっづごどは、そういうごどなのさ。ひとりじゃねんだよ。」
ひとつひとつの粒としての命が抱えている責任のようなものと、ひとりじゃないということのどうしようもないあたたかさに、どこかほっとする。

私は、1945年の前後のあのときを、これから幾度も訪ねたいと思っている。
青い山に入る
『陸前高田市高田町川原』(ペン、水彩絵の具、紙/2014)
誰かのことばを聞いて、風景を見て歩く。
見聞きさせてもらったどうやら大切な何かを、せめて、誰かがいつか受け取れるような形に留めて、どこかに引っ掛けておきたい。そう思って絵とことばをつくる。もし、ことばを話す「誰か」と、どこかの土地の「風景」がなかったとしたら、私には、何も現したいものはないだろうと思う。
私は、絵とことばをつくることが、とても好きなのだ。だから、書き留められるべきことばと、描写されるべき風景に出会いたいと願う。
そうして私は、どこかへ出かける。

旅について考えたい、と思っている。それはおそらく、友人らと観光地を訪ねたり、異国の地に未知なるものを探しに行ったりするような、いわゆる旅のイメージのことではない。どこかの土地を訪ね、そこで何かを現そうとする時には「旅人であるべきではないか」という、その主体の有り様に対する予感のことだ。旅人という有り様は、距離や時間や言語などによって隔てられたあるふたつを結んでいくことに有効なのではないか。例えばずっと昔には、村の人びとは一里塚に立ち寄る旅人によって外の情報を得た、とか、内輪で煮詰まった問題を解決するのは旅の人であったとか、そういうことが起きる。情報や関係の媒介者としての旅人、という有り様は、広くアートの仕事と似ている。そう感じる私は、いかにして旅人であり続けられるか、ということを常に模索しているような気がしている。

あまりに抽象的な結論めいたことを書いてしまったので、まずは私がそんなことを考えるようになった契機から整理してみたい。そのためには、陸前高田というまちとの関わりについて記す必要がある。
私は、2011年の大津波から一年後、陸前高田というまちに暮らすようになった。そもそもはと言えば、発災当時、東京で大学生と大学院生のはざまの春休み中だった私は、流れ込んでくる情報に圧倒され、うろたえていた。テレビやパソコンの画面に、色も形も変わってしまった風景が映し出されるのを見て、「世界が変わった瞬間が目の前にある」と思った。入ってくる情報が増えるほどに、「このことにちゃんと向き合わなければ、何も身動きができなくなるのでは」という想いが募り、まずはその土地を訪れ、自分の頭で考えたいと願った。本当に、ただひたすらに、身勝手な自我であったことを告白したい。
そうして、発災からおよそ3週間後、当時のクラスメイトで映像作家の小森はるかとともに、沿岸各地へとボランティアに行くことにした。不慣れな運転で、テレビで耳にした地名を目指してただ進む。行き着いた先には、広く壊れた風景と、その場所で暮らしを築きなおそうとする人びとの姿があった。
数日後、友人の親戚がいると聞いて陸前高田に立ち寄り、あるおばあさんを訪ねた。彼女は遠方からやって来た私たちへの労いも込めてか、波が攫った風景の前で、猛烈に語ってくれた。
「すべて流してしまった」「でも、本当に本当にいいまちだったのよ」。
そう繰り返す彼女が指差す先には、何もない風景があった。
陸前高田市気仙町土手影(ペン、紙)
その後、一年ほど沿岸の各地を訪ねたすえに陸前高田を選び、引っ越したのは、この土地の風景がうつくしいと思ったからだ。先のおばあさんが「すべて流した」と語った、そこに広い街場があったはずの風景は、太陽が当たればどこまでも光り、夕暮れになれば隅々まで赤く染まった。風景とは、ずっとずっと昔から同じ土地で暮らしてきた者たちが紡ぎ、受け渡してきたものだろう。と、捉えたとき、彼女が「本当にいいまち」と語るかつてのまちは、このうつくしさとどこかで繋がっている、と考えられるのはないか。そしてそれは、これからここに立ち上がってくるであろう、まちにも。
「すべて無くなった」なんて言うことは、あんまりにもさみしい。彼女が渇望する“あのまち”は、「でも、すべてなくなったのではないかもしれないですよ」と、私は言いたかった。
まちに暮らしながら、私はとにかく一見広い草はらにしか見えない“かつてのまち”があった場所を歩き、そこに人が居れば話を聞いた。手作りのちいさな祭壇、手向けられた鮮やかな切り花、ここが何であったかを指し示そうとする立て札。それぞれの場所へと通う人びとの弔いの所作を見つけると、「ここに確かに誰かが暮らしていたのだ」ということが実感された。これが、「表現することの原初的な形かもしれない」と感じた。いまは会うことの出来ない存在を現し、通りすがりの人間にさえも渡っていくように開いておくこと。もちろん弔いはそのためだけにあるものではない。けれど、大津波のあとに遠くからやって来た私は、その場のうつくしさに目が眩んで、そこにあるはずの無数の死にさえ気づかずに歩けてしまう。ポツリポツリと手向けられた花に引き止められるたびに、どこか救われるような想いもあった。
一方で、歩けば歩くほどに、この風景を手放しで「うつくしい」と表現することは難しくなった。まちの人のことばを聞けば、かなしみの深さも状況の複雑さも想像出来るようになるし、そっと隠れていたはずのずるさだって見えてくる。私はいつの間にか、絵やことばをつくることを止めていた。
しかし、ある日のこと。当時働いていた仮設店舗の店主が突然言った。
「お前は、このまちの人間になるなよ」「何かを言ったり書いたりするには、そのこととの距離を失っちゃいけない。例えどっぷり入っているように見えたとしてもだ」。
陸前高田市高田町松原(アクリル絵の具、鉛筆、紙/2012)
私の役割は、旅人であるということからのみ唯一、はじめることが出来るのだ。誰かの弔いの所作に立ち止まって書き留めることも、風景を鮮やかに彩ることも、ことばを物語へと紡ぎあわせることも、このまちの住人ではない・誤解を持ったままの独立した身体であるからこそ出来るのかもしれない。私は描き現すことを望んでいて、それが役割だからこそ、このまちに居ることが出来る。まちの人はやさしいから、「そうではない」と言うかもしれないけれど、きっとそうなのだし、そうありたいと願っている。だから、暮らすという方法を用いてなお、このまちでは旅人であらねばならない。
(店主はそののち病に罹り、一年後には亡くなった。私は、そのとき近くに居合わせた数人とともに、彼の闘病のかたわらに居ることになる。誰かを看取ることさえ、旅人の役割であるような気がしてならない。)

私は、陸前高田というまちへ出かけ続ける。あのまちには、私が気になって仕方がない風景とことばがある。関係が深くなるほどに見えてくる風景の細部、聞き取れるようになってくる誰かのことばの微かな震え。そういうものに憧れながら、それでもなお旅人として、このまちを歩きたいと思っている。
とびきりよい風景(アクリル絵の具、色鉛筆、布/2015)
画家、作家。1988年東京都生まれ。東京芸術大学大学院美術研究科絵画専攻修了。土地の人びとのことばと風景の記録を考えながら、絵や文章をつくっている。2012年より、映像作家の小森はるかとともに岩手県陸前高田市に拠点を移す。以後、地元写真館に勤務しながら、まちを歩き、地域の中でワークショップや対話の場を運営。2015年仙台市で、土地との協同を通した記録活動を行う一般社団法人NOOK(のおく)を立ち上げる。主な展覧会に「VOCA2015」(上野の森美術館、東京、2015年)「クリテリオム91」(水戸芸術館、茨城、2015年)など。主な著作に「花の寝床/3つの視点」(『ミルフィユ05』所収、赤々舎、2013年)。現在は小森とのユニットで、巡回展「波のした、土のうえ」を全国各地で開催している。
http://komori-seo.main.jp/

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